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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
鉄道建設に斃れし土工夫達の殉難・慰霊の碑を巡る旅Ⅰ‼

天北線タコ部屋跡標柱稚内市

天北線タコ部屋跡 説明板より「大正11(1922)年に開通した旧国鉄天北線は廃止された平成元年までの67年間、地域の産業の発展と住民の生活を支えてきたが、この鉄道工事にはタコと呼ばれる土工夫の多くの血と汗が流された。トロッコとスコップによる過酷な労働容赦なく飛ぶ棒、粗悪な食事、監視づきの飯場(タコ部屋)逃亡者の私刑(リンチ)など非人道的な実態が、多くの証言で明らかになっている。昭和55年12月14日、北海道開拓の礎となった先人の労苦を顕彰するため、天北線タコ労働を掘り起こす会の手によってこのタコ部屋跡地に標柱が建立された。その後13年を経て漸く老巧が甚だしくなったので、有志相集い標柱を再建するに至った。平成5年10月1日 天北線タコ部屋跡地を保存する有志の会」 ※「天北線タコ労働を掘る会」が稚内市声問から曲淵の間を調査しまとめた「天北線タコ労働の実態中間報告(1977)」によると判明している下請け業者は5組、少なくともタコ部屋(監獄部屋)は5カ所以上あったということになり、この場所は調査で判明したタコ部屋跡のひとつという事になります。旧天北線は大正3年(1914)着工、大正11年(1922)年全通、平成元年(1989)年に廃線となった音威子府~浜頓別~稚内間の路線で、慰霊碑に代わる碑があるのはここだけです。旧天北線敷設工事の犠牲者数は不明で沿線市町村の市史や町史に記載は少ないが、中頓別町史では古老の聞き書きによる歴史の証言として「鉄道建設というのは大変過酷な仕事ぶりで、タコ部屋と云って三人に一人は死んでいました。不潔な部屋に入れられ働けるだけ働かされていました。医者もいなかったので随分死にました」「200人くらい死にました。仕事が出来なくなると叩いて殺してました。軍隊から憲兵が調査に来ると急に待遇が良くなりましてね」など当時の実態が語られている。大正期前半はタコ部屋からの逃亡率が高いが、死亡者を逃亡者として届けて済ませることも多かったようです。逃亡者とされた方々の中には線路に下に埋められている人もいるかもしれません。◇参考文献:天北線タコ労働の実態中間報告  ◇建立年:昭和55年12月 ◇再建年:平成5年10月1日 ◇建立者:天北線タコ労働を掘り起こす会  ◇再建者:天北線タコ部屋跡地を保存する有志の会  ◇所在地:稚内市樺岡 旧天北線路盤際  ◇Gmap:Gマップ

地蔵(幽霊地蔵)幌延町

幽霊地蔵 地蔵のあある場所は幌延・下沼間で陸測図では隧道の幌延側で後に切り通になっている。切り通しのため雪解け時にドロドロになった土砂が線路を埋める保線泣かせの場所で、昭和30(1955)年に法面の改良工事が試験的に行われた。工事のため工事飯場と線路見張所を改造した簡易宿泊所をつくり工事監督補助者が泊まり込をしていたが、女の幽霊がでたと騒ぎになった。簡易宿泊所は惨殺された土工夫夫婦のいた飯場(タコ部屋)跡にあり、殺された女の怨みが残っているという場所という事になったようです。北海道開発の恩人達であり殉難者として土工夫婦を慰霊し弔うため、地元住民と士別の大野組の手により昭和31(1956)年7月に地蔵尊が建立された。詳細は不詳だが通称幽霊地蔵、鉄道関係者には230km地蔵尊と呼ばれていたようです。踏切脇から線路沿いに旧隧道跡へ向かう小径を進むと線路北側に地蔵堂がある。栗原組の建立した「鳴呼天塩線工事殉難者之碑」に夫婦に該当するような同性の男女名はなかった。 ◇建立年:昭和31年7月 ◇建立者:大野組・地域住民 ◇所在地:幌延町下沼 宗谷線隧道跡付近  ◇Gmap:Gマップ

鳴呼天塩線工事殉難者之碑音威子府村

鳴呼天塩線工事殉難者之碑 工事を請け負った栗原組が天塩線(現・音威子府~幌延~南稚内間の宗谷線)の鉄道敷設工事で、大正6年から大正13年間に亡くなった土工夫141名の名を刻み大正10年に建立したもので栗原組配下の34名も含まれ、大正10年以降に亡くなられた方は後に名前を刻んだようです。大正6年の犠牲者が33人と突出しているのは、音威子府渓谷と神路渓谷が地形的に見て難工事だった事と関係はありそうです。工事請負業者が建立した慰霊碑で犠牲者を殉難とし全員の名前を刻んだ碑は例が少ない。同区間の殉難者数で北海道開拓殉難者調査報告書には106人、氏名判明者は102人となっていたが、天塩線工事殉難者之碑ではそれより35人多い、この場合に限っては工事当事者が建立した碑の殉難者数が信頼出来そうです。◇参考文献:私の民衆史562p  ◇建立年:大正10年9月 ◇建立者:栗原組 ◊所在地:音威子府村音威子府 真覚寺  ◇Gmap:Gマップ

深名線工事犠牲者の埋葬地名寄市

深名線工事犠牲者の埋葬地 天塩弥生駅~北母子里駅間は雨竜山地の山岳地帯という険しい地形で急勾配と熊の巣とも云われた原生林の中を4つのトンネルで結んでいました。この鉄道敷設工事で名寄側の名寄市弥生地区の道道西風連名寄線と市道交差点の弥生公園寄りに2棟「たこ部屋」が置かれ、工事は人海戦術に頼った拘禁強制労働で過酷の上に過酷を極め、粗食と劣悪な居住環境下でが行われ多くの犠牲者を出したと伝えられています。東アジア侵略・太平洋戦争を控え雨竜ダム発電所(朱鞠内ダム)の早期稼働と、風連側への導水事業、軍需物資輸送のため鉄道敷設は喫緊の課題とされていたが、侵略戦争の拡大で多くの日本人男子が徴兵され、労働力の確保のため日本統治下にあった朝鮮半島からの強制連行がおこなわれました。強制連行された労働者が事故や病気で亡くなると、無縁仏として弥生共同墓地の一角に埋葬されたと云う。※近くに桜の名所という弥生公園と天塩弥生駅 宿と食堂(名寄市弥生166−4)がある。 ◇所在地:名寄市弥生 弥生共同墓地  ◇Gmap:Gマップ

有縁無縁霊碑 不動明王像 観音像十勝線工事関係合葬 南富良野

有縁無縁霊碑 金山市街から富良野方面に向かい十梨別川を越えて右側の小径に入ると線路前の少し広くなった所に有縁無縁慰霊碑があり、同じ所に観音像と不動明王像が設置された霊場となっている。有縁無縁霊碑には「為十勝線開発□死者 有縁無縁霊碑 備後中山産 三十五年中秋 武田某」とある。明治33年より金山駅逓二代目取扱人に就任し、後に金山郵便局初代局長となった武田孝一の事か?。十勝線(現・根室本線)の富良野~鹿越間(第7工区)の敷設工事は荒井組の元請負で開通は明治33(1900)年12月でした。

十勝線の切換工事があった大正4年に工夫虐待で小樽新聞に報道され「富良野こぼれ話」のなかで前記ニュースの目撃談が語られている。また金山市街には巡査派出所があったが、タコ部屋でリンチなどで死亡するなどがあっても放置状態、タコ部屋には逃亡者を追跡するために馬が飼われていたとあり、有縁無縁霊碑が建立され10年以上たってからの出来事だった。二度に亘る工事でタコ部屋の実態を目にした地域住民の記憶に強く刻み込まれ、語り継がれてきたのでしょう。観音像は「昭和9年8月2日」に金山観音講が建立、不動明王像は「昭和33年8月24日 信者一同建立」とあり、おなじ金山観音講の信者が建立したものと思われる。◇建立年:明治35年秋 ◇建立者:武田某他 ◊所在地:南富良野町金山 ◇Gmap:Gマップ

鉄道工事人夫死亡者之墓網走線工事殉職者慰霊碑 置戸町

鉄道工事人夫死亡者之墓 現在の置戸町域の鉄道工事は網走線第五工区、第八工区があり着工は明治40年の4月で第八工区の元請負は荒井初太郎(荒井建設株式会社の前身)でした。実際の工事は下請けの今村組と末永組であったようです。日本鉄道請負業史に「第八工区内には延長2.400尺に亘る護岸石垣工事もあり、難所の開鑿と両々相俟って多数の職工人夫を必要とする時に当たり悪疫流行し、罹病者相踵ぎ死去亦続出せり」とあり。人跡未踏の原生林であったため苅分道を作り工事資材や食料などを駄馬で補給するなど輸送に難渋、過酷な労働と栄養不足による体力消耗に加えマラリア罹患により、死亡者が続出し業者は共同して現地に急遽「病院」を設置する事態になったというも、マラリア特効薬のキニーネは入手困難であった。マラリアなどで失われた土工夫の補充もままならず、人員不足のなかで残った労務者は更なる労苦を負わされ、過酷な労役強要、逃亡を企てた者などに対する過酷な懲罰があったと伝えられいる。

多くの犠牲者を出した第8工区の学友橋下手で線路を見下ろす崖の際に、荒井組が鉄道工事人夫死亡者之墓を明治43年に建立したという。碑は2度の移転があったようで、宮下の神社踏切ちかくが駅のように見えて度々汽車を止める事があったが、原因がはっきりせずに霊魂によるものではないかとなって、誰もお参りしない北海道開拓の殉難者の霊にすまないと、だれもがお参りできる上鉱山に移したという。2度目は昭和51年の国道改修工事で現在地への移転となった。上鉱山に移転後の鉄道工事人夫死亡者之墓に向けて通過する列車が哀悼の汽笛を鳴らす「儀式」が昭和40年代まで続けられていたという。墓とあるが犠牲となった方の氏名は記されていない。網走本線は「国鉄池北線」「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」と名称・経営母体を換えながら100年近く地域交通を支えてきたが平成18(2006)年に廃線となっている。 ◇建立年:明治43年8年15日 ◇建立者:荒井組 ◇建立地:常呂郡置戸町北光 R242号線パーキング  ◇Gmap:Gマップ

網走本線工事飯場跡之碑鉄道工事殉難者之碑 置戸町

網走本線工事飯場跡之碑 鉄道工事人夫死亡者之墓の有るパーキングより約500mほど留辺蘂よりの国道沿いでバス停・上鉱山の近くで道の駅寄りにの国道沿いに鉄道工事殉難者之碑と網走本線工事飯場跡之碑がある。下請けだった末永組が工事飯場(タコ部屋)を設けて工事を行った跡で碑は元請けの荒井組が建立している。いわゆるタコ部屋で犠牲になった方の慰霊碑で、下請業者が単独で建立した碑は極めてすくなく、元請けだった荒井組が関わっていた碑以外で、当事者だった業者が建立した碑は道内では数少ないが、慰霊の対象が誰なのかはっきりしない碑が多い。 ◇建立年:昭和51年 ◇建立者:荒井組 ◇建立地:常呂郡置戸町北光 R242号線沿い ◇Gmap:Gマップ

歓和地蔵尊常紋トンネル工事犠牲者慰霊 旧留辺蘂町

準備中 説明の代わりに歓和地蔵尊建立の由来を転載する「湧別線工事中最大の難工事とされていた常紋隧道(507m)は大正元年にはじまり3年の年月をかけて大正3年に完成しました。工事は本州方面から募集してきた労務者を飯場に収容し通称タコと呼ばれた者によって行われた。労務者は人権を無視された過酷な取扱をうけ粗食と重労働で病気にかかる者も多く医薬を与えられず体罰を加える。そして使役不能とみた者は一定の箇所に監禁し、死者はそのままそのまま次々と穴の中に投入してしまうという残虐非道な事が公然と行われたといわれている。この隧道工事中百数十人の若者が犠牲となりこの隧道付近に埋められております。常紋信号所が開駅してから誰れ云うとなく「火の玉が出る」「信号が消える」などの噂も出たり、常紋に居住している歴代の職員家族に病人が多く出るのも怨霊のためではないかといわれていた。そこでこれら痛恨で迷える魂の供養を営むべく留辺蕊町長を初め町議会議員、各事業者等個人の援助と中湧別保線区の協力により、昭和34年に歓和地蔵尊を建立し同年6月24日に入魂報祭が執行され、それ以来毎年6月24日には地蔵祭を行ない霊を慰めている地蔵尊は、ここで鉄道建設に捧げられた貴い犠牲者の御霊を永久に祭り今日石北本線の一環である常紋信号所の安全と職員並びに家族の精神の安定に寄与されているものである」※人々は無念の死を遂げられた物言わぬタコ労働者の悲しみを人柱伝説として伝えてきたが、地蔵尊が建立された12年後にトンネル内で人柱となった遺骨が発見され、その後に線路脇に埋められた8体の遺骨が発掘され、昭和55年に常紋トンネル工事殉難者追悼碑と同時に建立された常紋トンネル殉難者之墓に8人の遺骨が納骨されたが、常紋トンネルの1km程留辺蘂側の線路脇にある歓和地蔵尊には49体の遺骨が埋葬されているという。証言者の話では線路に400人を埋めたという話もあり、今だ多くの魂が常紋の土に埋もれたままです。常紋信号駅は廃駅となり地蔵祭は無くなって訪れる人も今は殆どいないようです。◇建立年:昭和34年6月24日 ◇建立者:旧国鉄関係者・留辺蕊町民有志 ◇所在地:北見市留辺蘂町金華 旧常紋信号所付近 ◇Gmap:Gマップ

常紋トンネル工事殉難者追悼碑旧留辺蘂町

常紋トンネル工事殉難者追悼碑 昭和45年9月10日に発生した十勝沖地震で常紋トンネル内壁にひび割れが入り、その壁の中から人柱となった人骨が発見されたのが契機となって、調査と掘り起こし運動が進められた中で追悼碑建立に至った。追悼碑の由来より転載「常紋トンネルは、大正元年から3年の歳月をかけ、本州から募集された人々の強制労働によって建設されました。工事の途上、粗食、重労働、リンチなどによって殉職された方々は、百数十人以上と伝えられています。この鉄道によって限りない恩恵を受けている私たちは、無念の死を遂げた方々を追悼し、北海道開拓の歴史から葬られてきた人々の功績を末永く後世に伝え、再び人間の尊厳がふみにじられることのないように誓いをあらたにしてこの碑を建立します。昭和55年11月 常紋トンネル工事殉難者追悼建設委員会 留辺蘂町」※追悼碑は全国4700人もの方々よりの寄付で建立され、人間の尊厳という民主主義の精神を改めて問う碑でもあった。トンネル延長507mという距離からは想像も出来ない犠牲者数ですがその実数は未だ確定していない。工事現場での過酷な強制労働で弱って労働不能となったり倒れた労働者は治療される事もなく、死亡すると現場近くに穴を掘って埋める、中には生きながらにして埋めるという残虐非道なことが公然と行なわれた。常紋トンネル、越川橋梁、国鉄広尾線、狩勝隧道など多くの工事現場に人柱伝説が有ったが、昭和43年の十勝沖地震で人柱は伝説ではなく事実で有った事が証明され、人柱伝説は闇の歴史をそれとなく語り伝えてきた歴史の表現者でもあった。詳しく知りたい方は小池喜孝著・常紋トンネル―北辺に斃れたタコ労働者の碑のご一読を。「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」は国道247号線(置戸国道)沿いの高台(金華駅西方約300m)に有り、入口階段前に案内板が設置されています。
◇建立年:昭和55年11月16日 ◇建立者:常紋トンネル工事殉難者追悼建設委員会 ◇所在地:北見市留辺蘂町金華 金華小学校跡  ◇Gmap:Gマップ

殉難者の意味と石島福男書簡

昭和45年9月10日に発生した十勝沖地震で常紋トンネル内壁にひび割れが入り、その壁の中から人柱となった人骨が発見されたのが契機となって、調査と掘り起こし運動が進められた中で昭和55年11月の追悼碑建立に至った。追悼碑は全国4700人もの方々よりの寄付で建立され、人間の尊厳という民主主義の精神を改めて問う碑でもあった。ただ殉難とは自らの意思で目的に殉じた人の事であり、人身売買同様の手法で集められ暴力的な支配で過酷な労働に斃れた労働者は殉難者ではなく犠牲者です。常紋など監禁・強制労働による犠牲者を殉難者という玉虫色の表現は結果として、犠牲者を出した背後にある国家や役人、建設業界の責任を覆い隠す煙幕の役目を果たすことなる。

石島福男書簡(50年目の遺書)より一部を抜粋「口車にのせられました。横浜まで電車できて、それから北海道へ材木を積みに来る汽船に乗せられ、30何人一同監視つきにて来ました。まるで囚人護送同様のありさまです」「この土功部屋を北海道では監獄部屋といっております。毎日3時に起こされランプをつけ朝食を食べ、仕事場にいった時にとうとう夜が明けるくらいです」「仕事が終わって帰るときは、夜にはいって足下の石ころもみえぬくらいです」「身に余る重い物をむりにかつがすので、最初のうちは胸の骨がベリベリとなる音がして、骨が折れたかと思うくらいでした」「役にたたぬ様になれば握り飯2ッ3ッあえて投げ出され、行き倒れになる者あり、病気にかかっても医者に見せるでなし、全快の見込み無き者は線路の下に生き埋めにするのです。カリカツ(狩勝)というところの国境あたりには、ずいぶん線路の下に死体がうめてあるそうです。全くうそのような本当のはなしです」「巡査が月に2回ばかり見回りに来るくらいのことですが、それもそでの下を使いごまかしてかえすのです」「逃げ走りでもした時は2、3人のものが馬に乗りピストルをもって後を追うのです。それ故山に逃げこみ道を失ったり、また熊に食われたりする者が多くあるのです。山には人の骨がよくあるそうです」「見つかった者は他の者への見せしめといって、火あぶりにしたり、又はだかにして酒をかけ蚊攻めにしたり、じつにその惨めなことは不為とはみられないです」と、タコ部屋の惨状を記している。旧十勝線新内隧道の説明板には「北海道開拓と軍事上の必要性から官設鉄道十勝線(旧狩勝線)が建設され、枕木の数ほどの犠牲者とついには人柱まで建てて明治38年1月に隧道が完成した。」と常紋と同様の歴史を伝えている。故石島福男氏は明治22年、岡山県にうまれ、大正元年、23才のとき周旋人に欺されて常紋トンネル付近の監獄部屋に入れられた。家を出てから8年間の生活を姉に書き送ったもの。石島福男氏が亡くなって遺品の中から「常紋トンネル殉難タコの発掘慰霊」を報ずる新聞の切り抜きとともに発見された。遺族が個人の意志が共に働いた殉難タコの追悼にあった事を知り、常紋トンネル殉難タコタコ慰霊祭に於いて公開したもの。

常紋トンネル殉難者之墓旧留辺蘂町

常紋トンネル殉難者之墓 墓碑の碑文より「常紋トンネルは、大正元年から三年の歳月をかけ建設された。工事の途上、粗食、重労働、リンチなどによって殉職された方々は、百数十人以上に達すると伝えられている。人間としての尊厳を踏みにじられ、望郷の念であったろう。道東発展の基礎を築いた名もなき鐵道建設労働者、ここに眠る。」※常紋トンネル工事殉難者追悼碑と同時に建立され、長いあいだ専念寺に安置されていた8体の遺骨が納骨された。この運動の先駆者でもあった林隆尼が自ら行っています。常紋トンネルの拘禁強制労働の実態に関しては小池喜孝著「常紋トンネル」に詳しい。◇建立年:昭和55年11月16日 ◇建立者:常紋トンネル工事殉難者追悼建設委員会 ◇建立地:北見市留辺蘂町宮下町 共同墓地内 ◇Gmap:Gマップ

地蔵大菩薩堂旧留辺蘂町

地蔵大菩薩堂 昭和55年11月建立の常紋トンネル殉難者之墓と昭和60年11月建立の中央道路犠牲者之墓の間に菩薩堂がある。碑文より「道内国道、常紋トンネル開発業績記 此の偉大なる大業は、壮絶無残多大なる人名の犠牲によって完成す。『意呼悼しき哉、今如何にしてその苦を測り知るや』特に未だ全道の道辺に埋もれ眠る数多き霊よ、共に聞け、訳あって罪人となりしも、過酷なる重役に命を捧げ開発せる功績大なり。『茲に開発功労者と讃え万福の謝意を表す』菩薩に代わり声を大にして伝えん。貴男方は罪人にあらず、胸を張って故郷の天空に輝き、浄土の花園にあそび、地蔵大菩薩の誓願力により、良き後生を疑いなかるべし。万霊よ、菩薩の御胸深く永眠されんことをここに祈る。隆弘尼合掌 道内国道・常紋トンネル為創設犠牲者慰霊菩提也 昭和六十一年春 白龍山一世隆弘建之」※常紋信号所付近に埋もれたままになっている遺骨を気にされていた隆弘尼が建立されました。◇建立年:昭和61年5月21日 ◇建立者:白龍山一世隆弘 ◇建立地:北見市留辺蘂町宮下町 共同墓地内 ◇Gmap:Gマップ

網走本線成功記念碑移設再建 陸別町

網走本線成功記念碑 明治40年からの網走線工事は全区間を14工区に分け札幌の堀内組、旭川の荒井組、関組が元請負で下請負のタコ部屋による拘禁強制労働で工事が進められた。陸別関係工区は、第三工区 上利別陸別間を堀内廉、第四工区 橋本忠次郎・第五工区 荒井初太郎・第六工区 久米民之助・置戸に至る第七工区は関政五郎がそれぞれ請け負った。網走線建設概要によると当時の陸別・置戸間は密林地帯で入植者はなく工事用資材や食料輸送は困難を極め、新たに道を開き馬送して物資の供給。また皮膚病やマラリヤに悩まされ、病人対策で網走線請負人が共 同で医療施設を設けなければならない状況であったという。小利別~置戸間の工事はトンネルを避け人海戦術で山を切り通しにして線路を敷設する工事で、犠牲者も多かったようで北海道開拓殉難者調査報告書には池田~北見間の殉難受者が16名とあるが、当時はタコ部屋を取締る法律もなくこの数字は氷山の一角であろう。当時の状況を明治42年9月19日付『釧路新聞』より抜粋転記「破天荒の虐待 網走線鉄道工事に於ては、人夫を過酷に使役し、時々は牛馬にも等しき鞭撻を加え、逃走を企てる者あれば捕らえ来て白米二俵を背負わしめ、又は、甚だしき打ち打擲を加え半身不随に陥れ、是れを放置するなど」などと伝えている。工事が完成した時に荒井組が成功記念碑を建立したが、鉄道工事で犠牲になった土工夫達の慰霊碑でもあったと云い、陸別町の有形文化財指定に指定されている。碑は案内人無しに到達困難な川上原野にあったが、平成25年に陸別鉄道「銀河コース」の新設駅、川上駅を模した百恋駅に荒井組(現・荒井建設株式会社)が創立120周年記念事業の一つとして「網走本線成功記念碑」を移設したようですが、移築と云うよりは新設に近いほど外観が変わっている。◇建立年:明治43年8月 ◇建立者:荒井組 ◊所在地:足寄郡陸別町陸別原野 百恋駅 ◇Gmap:Gマップ

士幌線殉職碑士幌線付替工事 上士幌町

士幌線殉職碑 戦前の鉄道敷設は合資会社栗原組が全工区を請負、コンク リートアーチ橋は、栗原組の下で丹野組が施工している。戦前の労働形態は強制労働(タコ部屋)抜きには考えられず、当時としては最先端の技術と云う橋梁部分を除けば人海戦術の時代であり相当数の犠牲者があったと思われるが、確認できた工事犠牲者の慰霊碑は戦後のダム建設に伴う付替工事の殉職碑だけでした。昭和30年3月4日、第9糠平トンネルの落盤事故が発生し、碑は事故の翌年になってトンネル付近に建立されたが、後に鉄道資料館横に移設されたようです。碑の台座に「士幌線付替工事従事中其の職に殉じ尊き礎となられた諸氏の功績をたたへ、北の地に一基を建立する」とあった。落盤事故で亡くなられた9名の方々を慰霊する殉職碑ですが、亡くなられた荒井建設の7名中3名は朝鮮出身の方々でした。刻まれている氏名は国鉄札幌事務所職員2名、荒井建設8名、大林組4名の計14名と云い、第9糠平トンネル殉難数と数が合わが、この事故以外に亡くなられた方もいたようです。士幌線の帯広~士幌の開通は大正15年、帯広~十勝三股の全通は昭和14年、糠平ダム建設のため昭和30年に路線変更、昭和53年に糠平~十勝三股間が廃線、昭和62年3月末に全線廃線となる。ちなみに糠平ダム建設の殉職碑には32名の氏名が刻まれている。 ◇建立年:昭和31年  ◇建立者:不詳  ◊所在地:河東郡上士幌町ぬかびら源泉郷  ◇Gmap:Gマップ

地蔵尊狩勝峠展望台 新得町

準備中 狩勝峠展望台の説明板に「標高644m、明治40年9月、幾多の犠牲の中官設鉄道十勝線(当時)が開通したが、それに先立ち、鉄道敷設調査ため現地を訪れた、北海道鉄道部長田辺朔郎が「狩勝」と命名した。道央と道東の掛け橋となっているこの峠は、その後に完成した国道と共に交通の要所であり、昭和2年6月には日本新八景に当選するなど、景勝地としても名高い。峠には、野原水嶺の歌碑、十勝小唄歌碑、日本新八景入選功労者顕彰碑、鉄道職員殉職者を地蔵尊などがある。新得町教育委員会」とある。地蔵尊には、昭和7年の狩勝トンネル東口の雪崩で殉職した保線職員2名と、明治4年~昭和42年に新得保線区で殉職された17名の方が祀られています。一昔前まで、現業鉄道員は危険と隣り合わせの職でした。不幸にも命を落とした先人達が遺した教訓を忘れずに後世に伝えていきたいものです。 ◇建立年:未確認  ◇建立者:未確認  ◇所在地:上川郡新得町新内 ◇Gmap:Gマップ

旧狩勝・新内隧道新得町

準備中 国道38号を西に進むと左手に石造りのアーチ橋や急行「まりも」の脱線現場、大築堤の跡など旧狩勝線の遺構が点在する。新内隧道口に説明板があり転載「官設十勝線(旧狩勝線)は、北海道開拓と軍事上の必要性から、明治34年4月、落合=新得間 27.9 キロメートルが着工された。2か所の隧道(トンネル)掘削工事を含め、その鉄路建設工事では、枕木の数ほど犠牲者が出たと伝えられている。総工費は、狩勝隧道(954メートル)が、34万4000円、新内隧道(124メートル)は4万2300円を要し、トンネルの掘削工事は、堅い岩盤と湧水のために、困難を極め、遂には人柱まで建てて工事の進捗を図ったとも語り継がれている。明治38年9月8日十勝線(旭川=帯広間)は開通をみたのである。以来、十勝線は釧路本線、根室本線と名称を変えながらも、道央と道東を結ぶ幹線としての地位を歩んだのである。しかし、冬期間隧道内の漏水は氷結するなど内壁の老巧化も激しく、しかも千分の二十五という急勾配が連続する同線は、経済の発展とともに、旅客・貨物輸送の効率化のため、昭和41年10月1日開通の新狩勝線にその役目を譲ることになり、60年の歴史を閉じたのである。平成2年11月 調査・撰文 新得町郷土史研究会 写真提供 大崎和男氏 新得町教育委員会」※旧線は廃止の一時期、実験線として利用されたが、現在は線路が撤去され狩勝ぽっぽの道として利用されているほか、旧新内駅を起点にエコトロッコ鉄道が運行されている。平成15年2月、公益社団法人土木学会が「狩勝峠鉄道施設群」を選奨土木遺産に指定、平成21年2月には経済産業省が「旧国鉄根室本線・旧狩勝線」を近代産業遺産群に認定している。◇着手年:明治34年 ◇竣工年:明治40年9月 ◇所在地:新得町新内

苦闘之碑十勝線工事殉職者慰霊碑 新得町

十勝線工事殉職者慰霊碑 新得町が昭和58年に新得町郷土研究会(野呂己之松会長)の協力で狩勝峠手前の3合目にある旧新内(にいない)駅近くに旧狩勝線の建設工事で亡くなった多くの労働者を慰霊するため佐幌産の御影石で「苦闘之碑」を建立しています。碑文は新内隧道と重複する部分が多いので省略するが、当時は取り締まる法律も無く無法状態であったようで、特に新内隧道の工事現場は悲惨を極め、肉体の限界を超えた重労働は当たり前、病気(脚気)や怪我で動けなくなった土工夫は現場脇の「むしろ」の上に座らされ、病死した者はセメント樽に詰め込まれ沢に遺棄されたとか、生き埋めにしたという証言もあるようだ。当時の鉄道工事では極当たり前の様に行われていたようで、芦別の鉄道工事でも同じような話が残されている。悲惨を極めた新内工事現場より命がけで脱出した青年が警察に保護され、その経過を釧路新聞が掲載した事で公になった。狩勝と新内のトンネル堀削工事は明治34年7月で落合と新得の両側から着手し、多くのタコ部屋労働者の犠牲にして明治37年に新内隧道が完成。日露戦争で工事は一時中断したが、狩勝トンネルは6年の歳月をかけ明治40年に完成。新内駅側の手前の巨大な築堤工事は、明治34年から始まり足かけ7年をかけ明治40年に完成したが、ここに何人が生き埋めにされたのか今は知るすべもない。昭和41(1966)年10月に新たに建設された「新狩勝トンネル・延長5,790m」に代わり一部が廃線、新内駅も廃駅となった。新得山スキー場脇のSL広場から始まり、中新内川を渡りながら、新内駅舎を経て旧狩勝トンネル(6合目)までの約10kmの旧線はフットパスとして利用され、狩勝隧道と新内隧道は意匠的に優れた構造が評価されて土木遺産に登録され保存されている。◇建立年:昭和58年5月1日 ◇建立者:北海道新得町 ◇所在地:上川郡新得町新内 旧新内駅付近 ◇Gmap:Gマップ

火夫の像新得町

火夫の像 蒸気機関車が輸送の主体であった頃、難所の狩勝峠越えで大役を担った機関助士への顕彰碑である。碑文より「根室本線最大の難所狩勝峠は、明治三十五年に着工、同四十年に完成したが、以来六十有余年に亘り酷暑や風雪、厳寒と闘い、旅客貨物の輸送、線路の保守に当たり道東の経済と文化の発展に貢献した。これらかくれた人々の努力は今も忘れることはできない。この狩勝峠は、千分の二十五の急勾配で、頂点には九百五十四メートルの魔のトンネルがあり、補助機関車をつけた列車は、四十分で一トンの石炭を投炭しトンネルに入るや運転室の中は摂氏五十五度前後となり、逆まく煤煙と熱気に息をつまらせ、濡れ手拭いで顔を覆い通過したという。この像は、当時の火夫(機関助手)の投炭の姿を再現したものであり、台座にはめ込んだ機関車の前の部分は、大正十年八月同線の輸送力増強のため配置された九六〇〇型機関車の一号機であるとともに、北海道行啓の摂政宮殿下の御召列車を牽引した由緒ある機関車の煙室戸の複製である。ここに新得町商工会はSLの廃止となった現在、当時の輸送の大任を果たした火夫の姿を後世に伝えるため商工会創立二十周年記念事業として建立する。昭和五十六年七月 新得町商工会」※新得駅と落合駅間にある狩勝は大難所で、登りは蒸気機関車が重連で長いトンネルをゆっくりと通過するため、トンネル内は高温で猛烈な煙と灼熱地獄となる機関室、必死の思いでカマを炊く肉体の限界を超えた労働、労働環境の劣悪さで殉職者も出た。過酷な労働環境に耐え抜いてきた多くの労働者、闘う労働者、傷つき倒れた労働者の姿があった。火夫の像のモデルは国鉄で機関助士を務めていた新得在住の大崎和男さんといわれ、制作者は美術教師で元新得中校長の横田裕美さんという。◇建立年:昭和56年7月 ◇建立者:新得町商工会 ◇所在地:上川郡新得町本通南1丁目 (新得駅前) ◇Gmap:Gマップ

犠牲者供養地蔵尊広尾線鐵道建設 帯広市

犠牲者供養地蔵尊 更別や忠類にかけては湿地帯があって工事は困難だったようです。広尾線建設での労働者は主に「募集土工夫」で俗称「タコ」と呼ばれ、工事沿線に下請業者によって作られた飯場(土功部屋=タコ部屋)に拘禁され、肉体の限界を越えた過酷な従事させられた。飯場には50人~100人程が収容され、工事と共に移動していくが、忠類では忠類坂の上と元忠類付近に置かれていたという。広尾線での労働者には朝鮮人も含まれていたという。由来記より「この地域の開拓に大きな役割を果たした道路や鐵道は[タコ部屋]といわれた飯場で昼夜拘束され、強制労働のうき目にあい、ついに命を失った多くの労働者の犠牲によるものです。旧国鉄広尾線建設当時でも30号に飯場があり数名の人がこの近くに埋められました。広尾線全体でいく人の命が失われたのでしょうか。地域発展の礎となったこの人達の[霊安らかれ」と鐵道開通50年目の昭和54年11月2日、地元の人々が建立したのがこの地蔵尊です。合掌」被害者を殉難者として曖昧にすることなく、犠牲者として歴史を正しく伝えている、強制や暴力などによる被害者を殉難者とするのは、国家や土木業界の責任を曖昧にするため歴史を正しく反映しない。また歴史に真正面から向き合わなければ、同じ過ちをくり返す事になるのではと気になる。◇建立年:昭和54年11月2日 ◇建立者:地域住民 ◊所在地:北海道帯広市幸福町基線 幸福墓地 ◇Gmap:Gマップ

無縁精霊 菩提位(地蔵)更別村

無縁精霊 菩提位 南更別地区の「すももの里」手前より西へ100m程行くと1987年に廃止された旧国鉄広尾線の四線川に架けられた小鉄橋は「夢のかけ橋」変わっている、そのまま直進し交差点を過ぎた右側の小三角緑地に「無縁精霊菩提位」という仏像が安置された御堂がある。桜山地蔵尊ともいい広尾線鉄道工事の犠牲者の霊を弔うために建立され、当時の人々はタコ地蔵と呼んでいたともいう。当時の目撃者によると「仕事場へと向かう労働者は10月なのに衣服は赤い腰巻だけとか、南4線川になかなか橋を架ける事が出来ず6(4人か?)人の人柱を立てる事にした。人柱は橋の台座へお経を唱えられながら埋められた。工事では死人が続出したので、そこいらに穴を掘って埋めてそのままにしていった」などの証言もあったようです。非道、残虐な仕打ちを眼のあたりにして義憤覚めやらぬ頃、広尾線の人柱となった名も知れぬ土工夫の霊を弔うため、誰が建てたともなく南4線附近に4本の柱が立てられていたという。その後に東更別の有志数名相謀り、発起人の細川利右ヱ門ほか7人自らも浄財を出し、地域の方や更別市街の人達からも支援を得て、高さ約70cmの地蔵尊を建立した。浄財を寄せた158名の芳名が小さな御堂の中に掲げられている。広尾線の痕跡は殆ど消えてしまった今は、過去の歴史を語り継ぐ証人です。◇建立年:昭和10年3月2日 ◇建立地:更別村南4線・東15号 交点 ◇Gmap:Gマップ

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