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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道先住民族の記念碑・顕彰や慰霊の碑を巡るⅡ‼

本別先駆者 アイヌ顕彰碑本別町

本別先駆者 アイヌ顕彰碑 本別町市街より北の上本別にある上本別生活館敷地内にアイヌ顕彰碑がある。碑正面に「本別先駆者」「アイヌ顕彰碑」「本別町長 矢野幸雄書」裏面には本別は、アイヌ語のポンベツ(小さい川の意)からなずけられました。アイヌ達は、この地の厳しい自然を敬い、その恵みに感謝する、独自の精神文化・生活文化を継承しつつ生活を送っていました。明治期の国の北海道開拓計画により、本州からの入植者に先人アイヌは暖かい支援のこころをもち、共に今日の本別の礎を築くことに協力してまいりました。この幾多の先人アイヌの労苦に感謝し、徳を偲び、功績を讃えて本別町民と関係者の石によってこの碑を建立します。昭和六十三年十月 北海道ウタリ協会本別支部 本別先駆者アイヌ開拓顕彰碑建立期成会」※控えめな碑文だが「協力」ではなく「共に築いてきた」ならば顕彰に相応しい碑文になったとおもうが。 ◇建立年:昭和63年10月 ◇建立者:本別町先駆者アイヌ開拓顕彰碑建立期成会 ◇所在地:中川郡本別町上本別  ◇Gmap:Gマップ

音更アイヌコタン跡音更町

音更アイヌコタン跡 北海道音更町で住宅街の一角に音更アイヌコタン跡がある。音更町設置の説明板より転載「北海道庁は、明治20(1887)年から明治21(1888)年にかけて、散在するアイヌ民族を半ば強制的に国道241号横の丘陵地まで北6~北9線の一帯に移住させ『音更コタン』を形成しました。明治32(1899)年、明治政府は『旧土人保護法』を制定して、勧農政策として一戸当たり約5haの土地を給与し定住を図りました。しかし、狩猟漁労民族の伝統から、農耕には意欲なく土地を手放してしまい、勧農政策は失敗に終わりましたが、アイヌ民族が十勝開拓に果たした役割は大きいものがありました。また、大正5(1916)年当時62戸189人が居住していました。そのご、昭和5(1930)年当時24戸(川西支庁調査)、昭和25(1950)年当時28戸140人(音更村調査)が居住していました」※漁場や良い農耕地からアイヌ民族を締め出し半ば強制的に移住させ、一方的に土地を奪っておいて給与というのも傲慢な話したが、給与地に関してはとかく問題の多い制度でした。このコタンもそのような経過の中で形成されたものです。 ◇設置年:平成26年10月 ◇設置者:音更町教育委員会 ◊所在地:海河東郡音更町木野大通東18丁目  ◇Gmap:Gマップ

祖霊碑音更町

祖霊碑 北海道音更町の住宅街に音更アイヌコタン跡があり柵と網に囲われた中に四基の碑があり、その中の一基が祖霊碑。碑文より転載「当開進コタンの祖先は往昔より山に猟し河海に漁り松前藩財政の基盤だった。明治新政が誕生するや開発の先駆となり貢献した功績は大きい。藩の漁場請負制度が廃止されるや明治8年より13年まで十勝漁業組合の下漁労に従い此の収益を保存し不時備う。後に続く者其の恩徳を感謝し慈に碑を建て先祖の御霊を弔う。昭和41年10月 社団法人十勝旭明社社長 縦六位勲六等 㐂多彰明撰 開進部落ウタリ一同」※ここで気になるのは十勝漁業組合の下漁労の事、明治7年に福島屋杉浦嘉七が漁場持を返上すると、若松忠次郎は官の勧めもあって福島屋を離れ、杉浦嘉七の雇人の山崎勘之肋、堺千代吉、およびアイヌ代表とはかり明治8年に十勝漁業組合を組織、漁場経営は従来の場所請負制と酷似しアイヌを使い暴利をむさぼっていると批判され、開拓使が明治13年に解散をさせた。十勝漁業組合が解散時に清算した利益は現在の貨幣価値で数億円に相当する金額であった。この中にあるアイヌ代表とは誰であったのかは気になる部分である。また「祖霊碑」建立一ヶ月前(9月24日)に旭明社が建立した「開道之礎石音更蝦夷民族祖先累世之霊廟」碑があるが、戦後20年を過ぎて蝦夷民族とは見識を疑う。毎年4月29日に祖霊碑祭が開催されているようです。※平成17年には音更霊園の敷地内に「音更町ウタリ納骨堂」が設置されたという。 ◇建立年:昭和41年10月 ◇建立者:開進コタンウタリ一同 ◊所在地:海河東郡音更町木野大通東18丁目  ◇Gmap:Gマップ

喜多彰明碑音更町

喜多彰明碑 旭明社はアイヌ民族の中からエリートを選抜して組織し同化政策を柱に和人化を推し進める事を目的とした。それを行政側から強力に推し進めたのが喜多章明(1897~1986)氏の役割ということになるが、それはアイヌ伝統文化と決別する事を意味し苦渋の選択を強いるものだった。アイヌ民族の地位向上を期待して従う人もいたが、誰もが受け入れられる内容ではなかった。そういう経過はあっても50年以上に亘ってアイヌの生活や経済の向上推進のために働いた喜多彰明氏に、開進コタンの一同は喜多彰明の碑を建てその功を称えのでした。たがアイヌ共有地の関係では一貫して道庁職員として行動したと考えてよさそうだ。旭川の荒井源次郎氏は共有地をめぐり喜多彰明氏と和人小作人との動きを指して奸計と暴露、土地問題が契機となって保護法撤廃の運動が起こるなどの事もあった。戦後20年を過ぎて碑文に「縦六位勲六等」の肩書きに拘るなど違和感のある碑でした。 ◇建立年:昭和43年11月17日 ◇建立者:開進地区ウタリ関係者 ◊所在地:海河東郡音更町木野大通東18丁目  ◇Gmap:Gマップ

故中村要吉翁顕音更町

故中村要吉翁顕碑 中村要吉翁(アイヌ名イベチカレ・1880~1939)は明治から昭和前期にかけてのアイヌ民族指導者でした。碑文より転載「翁は明治13年アイヌ民族の一人として生まれ、当時同族の生活環境の変遷期に対処して、当時開進コタンの創設開拓に、はた又言語、風俗習慣等其の固有文化を異にする同族子弟の教育同化に尽くしたる足跡は洵に大きい。後を嗣げる当社団音更支部社員ウタリ一同は翁並びに先輩の苦辛開拓の行跡を追懐し、其の功績を称え碑を建て永く後世に伝う 昭和39年9月19日 右建設代表者十勝旭明社理事社長縦六位勲六等 喜多彰明 協賛 音更町長 本家三郎 協賛会長 中村豊信」※中村要吉翁は明治34年に戸長役場が開設されたのを機に、音更アイヌの戸籍整備に協力し氏名改定(和名化)のとき名付け親となり届け出一切を処理、またアイヌ民族の生活環境改善に努め、民族の復権に寄与する事を期待し、私財を拠出して開進尋常小学校の設立及び維持のために尽力した。当時の新聞報道などを見る限り、のちにウタリ教会の母体となる旭明社の考え方には懐疑的であったようですが、同族の生活や地位向上の為に奔走、昭和14年1月9日死去行年60歳であった。碑は開進コタン跡の国道側にたっている。 ◇建立年:昭和39年9月19日 ◇建立者:十勝旭明社 ◊所在地:海河東郡音更町木野大通東18丁目  ◇Gmap:Gマップ

開進尋常小学校跡地音更町

開進尋常小学校跡地 開新生活館入口脇に開進尋常小学校跡と大きく書かれた史跡標がある。裏面の説明文には「明治39年、アイヌ民族教育のため北海道庁が開設。昭和6年村立の音更・下音更に分割統合されるまで、庁立の単級校として運営されました」とある。明治(1899)32年に明治政府は「旧土人保護法」を制定し、勧農政策として1戸当り約5haの土地を給与し定住を図り、同化政策として明治39(1906)年にアイヌ民族の子弟教育のために「音更特別教育所・後の開進尋常小学校」を設置した。アイヌ民族の伝統文化を否定した差別的内容であったが、中村要吉は教育が民族の復権に寄与すること期待し、私財を拠出してこの学校の設立及び維持のために尽力したというが、苦渋の選択であっただろう。 ◇建立年:昭和59年10月 ◇建立者:川田工業株式会社寄贈 ◊所在地:音更町新通20丁目1番地12  ◇Gmap:Gマップ

大川宇八郎顕彰碑音更町

大川宇八郎顕彰碑 碑文より「翁は安政2年岩手県に生を享け、商人として明治10年渡道、同12年 オトフケプト モッケナシ 今の宝来富丘附近に到りアイヌ人と交易を始め、翌13年意を決し サッテキオトフケ 今の相生附近に入地、十勝内陸定住の祖となった。以後来住する人々を抉け、自らも農牧畜を営み、相次ぐ冷水害、病害虫にも挫けず堅い決意と不屈の信念を貫き、十勝開発の先駆者として功を収めたが、特に馬産改良に遺した功績は大きく開拓者の範と広く讃えられ、昭和12年当下士幌において、その尊い生涯をとじた。こゝに翁の足跡を辿り、碑を建てゝ永くその偉徳を顕彰する。昭和35年9月10日」裏面に「大川宇八郎顕彰碑建立期成会」とあり会長1名、副会長2名、役員13名、事務局6名の名前を刻んである。碑は道道73号線沿いで音更町本照寺の駐車場の前に音更発祥の地碑と並んで建っている。碑には記載されていないが明治16年に河川の鮭魚が禁止され明治17年の4月頃にはアイヌ民族が餓死寸前に陥いり、晩成社の依田勉三や鈴木藤太郎らとともに緊急に食料を調達し配ると共に、札幌に出向き早急な措置を求めている。晩成社の日誌4月20日付けにも記録が残されていた。参考文献・十勝開拓史話 ◇建立年:昭和35年9月10日 ◇建立者:大川宇八郎顕彰碑建立期成会 ◇所在地:音更町下士幌北2線東41  ◇Gmap:Gマップ

第二伏古尋常小学校跡帯広市

第二伏古尋常小学校跡 チョマトー公園に近い国道38号線(十勝国道)沿いに説明板がある。説明文を転載する「明治37(1904)年、この地にアイヌ民族の児童の教育を目的に、北海道庁立第二伏古尋常小学校(後の日進尋常小学校)が開設された。全学年一緒に授業を受ける複式学級で、高学年の児童は下級生の面倒をよく見たと言う。また学科の他、農業実習の耕作も行われた。大正4(1915)年校長として着任した吉田巌は、アイヌ民族の教育と地位の向上のために大きな業績を残した。昭和6(1931)年、学校教育面で、もはや和人とアイヌとの間に一線を画する必要がなくなったとして廃校になった。下段の左側に日進尋常小学校の写真、右側に沿革がしるされている。説明板から沿革を転載「明治37(1904)年5月北海道庁立第二伏古尋常小学校開校、明治39(1906)年6月野経太郎訓導兼校長に着任、大正4(1915)年12月北海道庁立日新尋常小学校と改称、大正10(1921)年12月校舎改築、昭和6(1931)年8月閉校、平成5年3月 帯広市教育委員会」※小学校跡の痕跡はなく説明板があるのみ。 ◇設置年:平成5年3月 ◇設置者:帯広市 ◊所在地:帯広市西16条北1丁目  ◇Gmap:Gマップ

チヨマトウ戦没者慰霊碑帯広市

チヨマトウ戦没者慰霊碑 碑文より「チヨマトウの伝承と歴史 チヨマトウはアイヌ語で「恐ろしい沼、害を受ける沼」という意味である。この沼は古くは大きな三日月湖だったといわれ、幕末に帯広を訪れた松浦武四郎もこの沼のことを「チヨゝマトウ 谷地中に小沼一ツあり。この水赤くなり手本川え落。」(戊午東西蝦夷山川地理取調日誌) と記録にのこしている。しかし次第に小さくなり、平成16年の道路直線化に伴う埋立で現在のような状態になった。この沼には十勝アイヌと日髙や北見など他から攻めてきたアイヌが戦ったという口承が残されている。・・伝承については省略・・平成16年11月吉日 真理教北門神社 建立」いずれの戦いにおいても犠牲者を出しているので「チヨマトウ戦没者慰霊碑」が建立されている。最初は昭和2(1927)年に帯広史跡保存会が「チョマトー古戦場」の標柱を建立し、昭和35(1960)年にはチホマトー慰霊碑建設委員会によって慰霊碑が建立されました。 健在あるのは平成16(2004) 年の道路工事で直線化に伴う埋め立ての際に、北門神社が記念碑を更新されたようです。 ◇建立年:平成16年 ◇建立者:神理教北門神社 ◇所在地:帯広市西16条北2丁目 チョマトー公園  ◇Gmap:Gマップ

蝦夷文化考古館幕別町

蝦夷文化考古館 幕別町が設置した開設板より転載する「蝦夷文化考古館 この地を幕別町千住という。この地区はかつて白人村と呼ばれた。白人はアイヌ語で『チリオゥトゥ』と云い『鳥多き沼』の意味である。白人村にアイヌが住みついたのは寛延2(1749)年多くは北見方面からの移住と伝えられる。昭和19年白人を『千住』と改称。

吉田菊太郎独力で考古館を建設
この地に住む吉田菊太郎(1896~1966)はアイヌ民族の生活を立て直す事を計画昭和4年に白人矯風会を組織して彼らの生活改善に大きく貢献した。また先祖が残した生活用品古俗品などの散逸を憂いかねてから道内外より収集していた文化財を保存するために考古館を建設した。館内にはそれら貴重な文化遺産が展示してある。昭和40年1月8日吉田菊太郎の死亡により考古館のすべてが町に寄付されたものである。幕別町教育委員会」※注・氏名の吉田菊太郎は正しくは吉田菊太郎であり訂正している。また逸散は散逸とした。※昭和時代に活躍したコタンの指導者・吉田菊太郎翁は白人地区に白人古潭矯風会や白人古潭納税組合、白人共栄甜菜組合を設立、この地区のリーダーでもあった。白人(チロット)村の地名は無くなったが教育施設や公園、神社の名称として残っている。蝦夷文化考古館には図書資料や文書資料、写真資料も収蔵されています。 ◇開館時間:10時~16時 火曜日休館(祝日の場合は開館し、翌水曜日休館)  ◇所在地:中川郡幕別町字千住114番地の1  ◇Gmap:Gマップ

ヤムワッカウタリ慰霊碑幕別町

ヤムワッカウタリ慰霊碑 国道242号線沿いの明野幕別共同墓地内にある慰霊碑です。裏面の碑文より「ヤムワッカとはアイヌ語で(冷い水)をいふ意味で昔は各所に清水が湧出し、当時のアイヌは飲水として生活し地名も ヤムワッカといわれてきたが昭和41年幕別と改名された。この碑の右の標石はこの地方アイヌ古来の墓標で(二股)は男(一方)は女を表している。この伝統を永く残し茲に当地で他界したアイヌを慰霊し共同の墓として建立する。昭和51年8月11日建立」※台座に建立に賛同した42家名が刻まれ、碑の右横に男女一対の墓標が建てられている。墓地の横を通る国道修復の工事現場から20体のアイヌの人達の遺骨が発掘され、無縁仏として町の墓地の一角に仮埋葬されていたが、9年後にアイヌ式墓標の建立と共に改葬改葬されたのでしよう。幕別町の資料によればアイヌ式墓標でクワと言い男性用の墓標をオッカヨクワ、女性用墓標はメノコクワというとの事、本来は木の墓標ですがここでは石標になっています。 ◇建立年:昭和51年8月11日 ◇建立者:ヤムワッカ縁42家 ◇所在地:明野・幕別共同墓地  ◇Gmap:Gマップ

白人(チロット)コタン慰霊碑と三界万霊塔幕別町

白人(チロット)コタン慰霊碑 千住14号線、先住14号橋近くの白人墓地に赤茶色をしたスイス産の墓碑がある。台座に10名の発起人と建立に協賛した36家の名前が刻まれているが、由来を記した碑文は刻まれていない。三界万霊塔には「白人古潭南四線東八十番地ニ在リシ旧土人古来ノ墓ヲ途別川切替用地トナリシ為メ此所ニ移転シ万人ノ骨ヲ埋葬ス 昭和四年十一月 幕別矯風會 建立」と刻ざまれている。三界万霊塔は昭和4年11月幕別矯風會が建立した慰霊碑です。 ◇建立年:昭和44年4月 ◇建立者:発起人10名他36家 ◇所在地:中川郡幕別町千住 白人墓地  ◇Gmap:Gマップ

チビヤコタン供養塔浦河町 

チビヤコタン供養塔 無縁仏となった先祖の霊を弔ってあげようとウタリ協会浦河支部会員が協力し合い募金を集め、フシコウタル(古い亡き同胞)の供養塔を昭和53年11月、杵臼共同墓地に建立した。その2年後の昭和55年には向ヶ丘の共同墓地にチビヤコタン無縁供養塔を建立。昭和57年8月、姉茶共同墓地にフシコウタル供養塔を建立しています。中曽根康弘首相(1982~1987)の日本は単一民族国家であるという国会発言に象徴されるように、アイヌ民族は存在そのものが国家によって否定され囚人、タコ労働者とともに差別の対象にされてきた。地域によっては墓も和人とは差別され、死んでもなを差別は続いたのでした。平成19年の先住民の権利に関する国連宣言に続き、平成20年の衆参両院の国会決議を受け、政府はアイヌ民族を先住民と認めたが国家による差別がなくなったという事ではない。 ◇建立者:ウタリ協会浦河支部  ◇建立年:昭和55年  ◇所在地:浦河町緑町 向ヶ丘共同墓地

英傑シャクシャイン像新ひだか町

英傑シャクシャイン像 説明は英傑シャクシャイン像よこにある碑文で代える。「英傑シャクシャイン像碑文 日本書記によれば、斉明の代(西暦六五〇年代)においてすでに北海道は先住民族が安住し、自らアイヌモシリ(人間世界)と呼ぶ楽天地であり、とりわけ日高地方は文化神アエオイナカムイ降臨の地と伝承されるユーカラ(叙事詩)の郷であった。今から約三〇〇年前、シャクシャインは、ここシペチャリのチャシ城嘴を中心としてコタンの秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。

当時自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に心より協力交易物資獲得の支柱となって和人に多大の利益をもたらしたのであるが松前藩政の非道な圧迫と過酷な摂取は日増につのり同族の生活は重大脅威にさらされた。 茲にシャクシャインは人間平等の理想を貫かんとして民族自衛のため止むなく蜂起したが衆寡徹せず戦いに敗れる結果となった。しかし其の志は尊く永く英傑シャクシャインとあがめられるゆえんであり此の戦を世に寛文九年エゾの乱と言う。いま静かに想起するとき数世紀以前より無人の荒野エゾ地の大自然にいどみ人類永住の郷土をひらき今日の北海道開基の礎となった同胞の犠牲に瞑目し鎮魂の碑として、ここに英傑シャクシャインの像を建て日本民族の成り立ちを思考するよすがすると共に父祖先人の開拓精神を自らの血脈の中に呼び起こして、わが郷土の悠久の平和と彌栄を祈念する。 一九七〇年九月一五日 シャクシャイン顕彰会 会長神谷与一」※シャクシャイン像の傍に神器カムイパスイを形取ったと言われているユカルの塔が聳え立っている。 ◇建立年:昭和45年9月15日  ◇建立者:シャクシャイン顕彰会  ◇所在地:新ひだか町静内真歌7  ◇Gmap:Gマップ

シャクシャイン頌徳碑新ひだか町

シャクシャイン頌徳碑 説明に代えて碑文を転載する。「頌徳 まごころと真実、尊敬と信頼、先人の御霊に深く瞑目し、その偉徳を偲ぶ人々の限りない善意と敬虞の願いが呼応しあいこの地真歌の丘に、英傑シャクシャインの雄姿蘇る。一九七一年顕彰の趣意を示す碑文板の完成。翌一九七二年、古式に則りオッチケ(神膳)を台座となし、その前面に、神々の心をたずねる神器カムイパスイを配し、未来・永劫絶えせぬ慰霊の祈りをこめて「ユカルの塔」天空に建つ。

これら一連の事業達成の基は、自ら目覚め、多面に亘る協力を惜しまなかった各位の御芳志の賜であり町内有志はいうに及ばず道内外の地域から、八百有余人にわたる募金の協力を始めとした、幾多の人々の深い御理解と御支援の結晶である。そのひとりひとりの御芳名を、勇者の英姿と共に、後世に残すべく志向してきたところであるが、未来に続くより広汎な善意と御支援にも謝する趣意をもって、頌徳の辞に代え満腔の謝意を顕す次第である。

この意をもって一九七四年当時の生活に必須のニス(臼)とイウタニ(杵)を配し後面の円みには、日輪を象った頌徳板の完成をみ、ひとつの区切りとしたものである。

先人の御霊永遠に安かれ 心ひとつに結ばれた諸賢同胞に栄光あれ 一九七四年九月二十三日 シャクシャイン顕彰会」※碑の前には、ニス(臼)、碑文の両脇にはイウタニ(杵)を配していた。 ◇建立年:昭和49年9月23日  ◇建立者:シャクシャイン顕彰会  ◇所在地:新ひだか町静内真歌7  ◇Gmap:Gマップ

姉去簡易教育所(姉去土人学校)跡新冠町

姉去簡易教育所跡 新冠町エコミュージアムふるさと探訪14の碑のなかで唯一強制移住にかんする碑文があり転載する。「この地域は昔から多くのアイヌの人たちが住んでいたところです。明治29年、古川アシンノカルは、アイヌ子弟ののため、私費を投じてこの地に土人学校(古川教育所)を設立し開校しましたが、翌年の5月には教師が退職するなどの理由から休校となりました。明治36年、旧土人保護法による学校設置に際し、この学校が献納され庁立姉去土人学校(姉去簡易教育所)として開校しました。しかし大正5年に新冠御料牧場経営の都合によりアイヌの平取村上貫気別地区への強制移住に伴い学校も移転する事になりました。平成18年11月 新冠町教育委員会」※滑若(現泉付近)に住んでいた吉川アシンノカル(安政4年~大正14年)御料牧場に奉職するかたわら、自身も牧場や商店を経営していたが、アイヌ教育の発展に努めた人物、他に姉去簡易教育所の平面図が記されている。姉去より上貫気別へ強制移住が行われそれに伴って学校も上貫気別に移転した、現在の平取町貫気別小学校は姉去からの歴史を受け継いでいる。北海道は旧土人保護法に基づく簡易教育所を北海道各地に設置、その数は三十一ヶ所にのぼります ◇建立年:平成18年11月 ◇建立者:新冠町 ◊所在地:新冠郡新冠町大富  ◇Gmap:Gマップ

山川力之碑 日高町

準備中 碑の表に「アイヌの言魂を語り伝えたシサム 山川力之碑 せめて魂をエゾ地で眠らせたや」と刻まれている。山川力氏は「アイヌ民族文化史試論」などの著作で知られる研究者で晩年はアシリ・レラ(日本名、山道康子)氏と共に活動を行っていた。平成14(2002)年に「山川力氏の碑」を建立、山川氏の遺骨はこの碑の下にはないが、ブルドーザーで掘り返された数多くのアイヌの人々の遺骨の破片が集められ埋葬されている。アシリ・レラ氏ら有志はこの碑の周辺にアイヌ墓標を立て、かろうじて残された先祖のアイヌ墓標の下に眠る遺骨と共に毎年慰霊祭を行っている。 ◇建立年:平成14年 ◇建立者:アシリレラ他有志 ◇所在地:沙流郡日高町福満76番地 (福満墓地)  ◇Gmap:Gマップ

福満(フクミツ)のアイヌ墓碑日高町

準備中 ここでの墓標はハシドイの木で、先端が槍型のものは男性、穴アキは女性の墓、墓標をイルラカムイと云い先端にミゾの彫られたのもあったという。幕別町で見た男性用墓標は先端が二股でオッカヨクワ、丸い棒状の女性用墓標はメノコクワ、本来は槐(えんじゅ)の墓標というが石標だった。アイヌの人々は家族や身近な人が亡くなると土葬し槐(えんじゅ)の墓標を立てた後は決してそこに近づかなかった。槐やハシドイは百年は腐らない木と云われ、その木が朽ちて無くなると故人の魂も天に昇っていくと考えられていたのは同じようですが、地方によって墓標の木材や形に違いもあったようです。和人も明治初期迄は土葬が一般的で、今も土葬を禁止する法律はないが、土葬を出来る墓地が少ないだけ。和人優先というナショナリズムは死後の魂のあり方も、強制と排斥を伴い墓地にもそれがみられる。福満の旧墓地では門別町が委託した業者がブルドーザーでアイヌの遺骨を掘り起こし、遺骨は一体5万円で町に引き渡される事になっていたという。福満に先祖の墓があるアシリレラ氏は福満でアイヌの人々の遺骨を発掘する事と墓標を引き抜くことを拒否し、業者の「金儲けの邪魔をするな」「お前も埋めてやる」などの威嚇にも屈せず抵抗を続け、遠い親戚にあたる祖先の遺骨と墓標は現在もそのままの場所にある。アシリレラ氏ら有志はそのときブルドーザーが掘り返した遺骨の破片を集め、引き抜かれなかった墓標のそばに木を植え、その根元に遺骨の破片を埋めた。広い北海道で古来より変わらぬアイヌの墓標が有るのはここだけとなった。 ◇建立年:要再調査  ◇建立者:要再調査  ◇所在地:沙流郡日高町福満76番地 (福満墓地)  ◇Gmap:Gマップ

旧上貫気別墓地の碑平取町

旧上貫気別墓地碑 最初に碑裏面の碑文を転載「平取町は肥沃な大地と豊かな自然に恵まれ、その開創は古く、祖父は昼なお陽光の届かない原生林に挑み上貫気別を開いた。明治大正の馬耕時代及び軍用場生産のため新冠牧場は拡大され御料牧場へと変遷したが大正4(1915)年、姉去コタンを追われ上貫気別に強制移住になった人々の悲しさは凄絶なものがあった。この郷土の開拓に心血を注ぎ鍬をお下ろした先覚者の事績を後世に伝え諸霊に参列者のみな様と共に鎮魂の誠を捧げます。平成2年8月 平取町町長 宮田泰郎」※最初の強制移住は明治28(1895)年の新冠郡滑若村から同郡姉去・万揃で、2度目は大正4(1915)年に姉去コタンを追われ上貫気別への強制移住となった。碑文に追われた人々がどういう人々なのか刻まれていないので、この碑からアイヌ民族と云うのが理解出来る人は少ないかもしれません。道道71号線沿いで平取町旭地区の旧墓地付近は無人の山林になっており案内板などもありません。 ◇建立年:平成2年  ◇建立者:未確認  ◊所在地:沙流郡平取町旭 

造林殉難者の碑と志登利の碑平取町

準備中 平取町荷負地区にある八幡神社の本殿手前左側に墓碑が二基並んでいる。神社に墓碑という組み合わせは余り見ないが、昭和初期に造林作業に従事した青年2人が雨と雪のため道を迷い殉難した事を悼んで慰霊碑が建立されたようだ。碑文の中に「希クハ英霊止リテ」とあることから「滅私奉公」の象徴として神社なのかとも思った。碑文から遭難事故は昭和6年10月26日の発生ですが、碑の何処にも建立年が刻まれていないが昭和年代の建立と思われ発起人2人の名が刻まれている。志登利の碑は碑文の読めない部分もあるが、要約すると当時は荷負村に多くの和人が入りアイヌの生活が脅かされるようになり、それを憂いた志登利は経済力に応じた合理的な生活設計をたてるよう指導し、その結果和人に見劣りしない迄に至った。同族の今日があるのは君が父子の賚賜によるとその徳を称えた碑であった。碑文によると亡くなったのは明治43年9月15日で、碑の建立は大正丙寅歳秋8月と考えられるが、碑を建立してから後に碑文を刻んだ可能性もありそうです。この墓碑で気になったのは同族を愛奴人と刻んでいたことです。 ◇建立年:建立年不明 ◇建立者:荷負村民一同 ◇所在地:沙流郡平取町荷負78−7 八幡神社  ◇Gmap:Gマップ

祖先代々萬霊無縁の碑平取町

準備中 平取本町の平取共同墓地と道をはさんだ西側の小さな空き地に有志による木造の「先祖代々有縁無縁の碑」が建てられたのは昭和44(1969)年、昭和57(1982)年に石碑になった。昭和52(1977)年の墓地整備条例が公布された時には平取町のアイヌ墓地では遺骨が掘り起こされ、墓標が引き抜かれていたという。平取では学問の為ではなく墓地整備のためにアイヌの人々の遺骨は掘り起こされ、古式なアイヌ民族の墓標は後から入植してきた和人たちの石碑に置き換えられたのだった。当時アイヌ民族で平取町議員だった宇南山斎氏は、無縁のアイヌの人々の遺骨を一ヶ所にまとめて埋葬し、慰霊碑を建立するために有志を募り、当時の平取町議員で道南バス平取営業所の所長であった佐藤旭氏などが出資したという。 ◇建立年:昭和44年  ◇再建年:昭和57年  ◇建立者:未確認  ◇所在地:沙流郡平取町本町 平取共同墓地西脇  ◇Gmap:Gマップ

違星北斗歌碑サブタイトル 地域&マップ

違星北斗歌碑 二風谷小学校の敷地内にある歌碑で「沙流川ハ 昨日の雨で水濁り コタンの昔 囁きつゝいく」「平取に 浴場一つ ほしいもの 金があったら たてないものを」の2首が刻まれている。裏面の碑文より「違星瀧次郎北斗と号す。明治34年余市町に生まる。大正14年西川光次郎を頼り上京 金田一京助の知遇を受く。同15年同族のため働くことを決意し帰道 昭和2年平取に住みウタリ文化の研究。同3年売薬行商を続け乍らコタンを訪ね同族の奮起を促す。同4年病を得て歿す時に29才、生前口語短歌よくし並木凡平に愛せられウタリの啄木と称せらる 二風谷小学校の復旧新築に結集せる校下父兄の協働の成果を記念し北斗を敬愛する人々これを協賛、歌2首を誌してその志を偲ぶ。書は金田一京助、制作は田上義也による。 昭和43年11月5日 違星北斗の会 代表木呂子敏彦」※怒りよりも絶望感を漂わせた穏やかな和歌でした。違星北斗はバチラー八重子、森竹竹市と並ぶ「アイヌ三大歌人」の一人とも云い、啄木の影響を受けているともいうが、アイヌ民族の生活感情をアイヌ民族自身が歌ったという意味では数少ない歌碑、碑の一部が剥がれ落ちている。平取町歴史の散歩道に設置されている違星北斗(1902年~1929年)レリーフには「アイヌ民族の歌人で余市町生まれ。歌人・文人を志しながらも、同胞の生活向上のため社会活動に検診し、バチラー幼稚園で働きながら小樽新聞に短歌などの投稿を続けた。結核のため27歳で早逝。昭和25年に遺歌文集『コタン』が出版された。民族、差別への激しい怒り、絶望感を嘆じる中にも、アイヌとしての自負の心を表出した作品が多い。」※と記されていた。和歌に詠まれた沙流川はダムに沈み今は幻となった。 ◇建立年:昭和43年11月5日  ◇建立者:違星北斗の会  ◇所在地:平取町二風谷 28 ニ風谷小学校敷地内

金成 マツ歴史の散歩道 平取町

金成 マツ 平取町百年を記念して作られた?歴史の散歩道に設置されている平取町縁の9人のなかの碑の1人。金成マツ(1875年~1961年)レリーフより「ユカラの伝承者アイヌ名イメカノ。妹のナミとともに函館にあった伝道師養成の愛隣学校で学んだ後、明治31年に平取聖公会に着任、伝導看護婦ブライアント女子を助けた。晩年は故郷の登別で暮らしアイヌ伝統文化の記録保存のために尽力。とくに母モナシノウクなどによる口伝のアイヌ文学をローマ字筆記した『金成マツノート』は第一級の史料で有り、日本語訳・解読の作業が続けられている。『アイヌ神謡集』を著した知里幸恵と北海道大学教授として活躍した言語学者、知里真志保は妹ナミの子どもたちである。」※2007年に半分以上が手付かずのまま翻訳を終了した。 ◇建立年:平成11年10月  ◇建立者:平取町  ◇所在地:沙流郡平取町二風谷 歴史の散歩道 

ブライアント・エディース・メアリー歴史の散歩道 平取町

ブライアント・エディース・メアリー  平取町歴史の散歩道に設置されている平取町縁の9人の碑の1人です。Bryant,Edit Mary(1859年~1934年9レリーフより「明治期に平取で活躍した伝道看護婦。ロンドンの病院で看護婦をしていたが、ジョン・バチラーに頼まれて明治30年平取に来た。義経神社下の「ホスピタル・レスン」で住民の治療に当たりながら、キリスト教を広めるため活動した。明治31年の沙流川大洪水の際には被災した人達を献身的に世話をして深く信頼される。延べ13年間の滞在期間中、振内に私塾を設けて子弟教育につくしたり、親を亡くした子を養女として育てたりして、慈愛に満ちた精神で住民のために力を注いだ。」当時はアイヌ子弟の教育は例外なくアイヌ文化の根幹であるアイヌ語を禁止し、アイヌ民族の伝統文化を否定した同化政策であり、人格者と言われアイヌ達の地位向上のため奔走した教育者も、同化政策推進の第一線で働いた人達でした。そんな中でアイヌ文化を守る仕事は日本人ではなく、外国人の宣教師や医師によって始められたといえます。バチラー司祭、ニール・ゴルドン・マンロー、ブライアント・エディース・メアリーは医療や布教活動にとどまらずアイヌの救済や教育、アイヌ民族の復権と地位向上のための活動が続けられました。 ◇建立年:平成11年10月  ◇建立者:平取町  ◇所在地:沙流郡平取町二風谷

ニール・ゴルドン・マンロー歴史の散歩道 平取町

ニール・ゴルドン・マンロー 平取町歴史の散歩道に設置されている平取町縁の9人の碑の1人です。Nell Gordon Manro M.D(1863年~1942年)レリーフより「イギリス・スコットランド出身の医師で人類学者。明治25年に来日、横浜ゼネラル・ホスピタル病院長や軽井沢サナトリウム所長を歴任する傍ら、英国王立人類学研究所の通信員として考古学の研究にも従事する。名著「先史時代の日本」など黎明期の日本考古学会に先駆的な業績をのこす。アイヌ研究にも力をいれ「アイヌの信条と文化」他の著作や記録映画を著作する。昭和5年のイヨマンテ(熊の霊送り儀礼)調査を契機に二風谷永住を決意し昭和7年には自邸(現・マンロー館)を建設。チヨ夫人と共に住民の医療奉仕にも積極的に尽力した。昭和17年他界し二風谷墓地に永眠」※マンロー博士の私宅(マンロー館)が登録有形文化財となって一般公開(夏期間・事前予約必要)され、記念館敷地内ににマンロー博士顕彰碑と説明板が設置されている。

説明板より「ニール・ゴードン・マンロー博士は、1865年英国スコットランドに生まれ、エジンバラ大学卒業後、明治24(1891)年来日。横浜、軽井沢等の病院で医師として活躍する一方、考古学・人類学・民俗学・地質学等に興味をもち、北海道を含めて、日本各地で先史時代の遺跡発掘に従事し、学会誌等に多くの論文を発表した。明治38(1905)年日本へ帰化。その後、アイヌ研究に集中し、昭和6(1931)年から1933年にかけて当地、沙流郡平取町二風谷コタンに本邸宅を建築、のち別棟を増築し「マンロー診療所」として開設、結核に苦しんでいたアイヌの人達の無料診察に尽力するとともに、アイヌ研究に没頭したが、昭和17(1942)年4月11日癌性腸閉塞のため当地で没した。本邸宅は博士の死後、人出に渡り荒廃していたが、当時の英国大使館参事官F・W・Fトムリン氏及びJ・フィゲス氏が土地とともに私費で入手し、旧状に修復の上、昭和41年9月北海道大学に寄贈(土地19.371㎡ 建物283㎡)、以来、同大学文学部付属北方文化研究施設二風谷分室(通称マンロー博士の遺品の一部と同室所蔵の民族資料・図書資料が展示されている。北海道大学文学部二風谷研究室」※日本人女性と結婚して日本に帰化していたマンロー氏は、アイヌ文化の理解者であり学術論文やイオマンテなどの記録映像(昭和6(1931)年)を残しているが、映像の大部分は網走の北海道立北方民族博物館で見ることができる。 ◇建立年:平成11年10月  ◇建立者:平取町  ◇所在地:沙流郡平取町二風谷

萱野茂 二風谷アイヌ資料館平取町

萱野茂二風谷アイヌ資料館・漁皮衣服 萱野茂氏が二風谷アイヌ文化資料館として昭和47(1972)年に開館し平取町に無償譲渡され平取町営アイヌ文化資料館となるが、平成3(1991)年の平取町立二風谷アイヌ文化博物館開設に伴い旧資料館の資料は博物館へ移されました。旧資料館を再利用して萱野茂の新たなアイヌ民具コレクションと新規制作した民具資料によって「萱野茂アイヌ記念館」として平成4(1992)年に再建、のちに萱野茂二風谷アイヌ資料館と改称しています。平取町立二風谷アイヌ文化博物館は白老ポロトコタンと並ぶ屋内外の展示を誇りますが、萱野茂二風谷アイヌ資料館では他の博物館では見られない北方民族の資料やコレクションがあり、屋外展示は生活感のある楽しい展示になっている。平取町立二風谷アイヌ文化博物館との共通券あり。冬期間は要連絡。 ◇所在地:平取町二風谷 79  ◇Gmap:Gマップ

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