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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道炭坑労働者の殉難・慰霊碑を巡る旅Ⅰ‼

日曹炭鉱跡地之碑豊富町

日曹炭鉱跡地之碑 日曹炭鉱天塩砿業所の概略のみ記す。天北炭田に属する12炭鉱の中では最大規模で昭和11年に開鉱、昭和15(1940)年には国鉄宗谷本線豊富駅迄の日曹炭鉱天塩砿業所専用線が開通、軍需で炭砿開発の規模を拡大、戦後も規模拡大は進められ最盛期には年産約15万トン、約3000人を有する炭鉱に成長するが空知や石狩の炭砿には及ばない。国のエネルギー政策変換や炭質低下により経営困難となり昭和47年7月に閉山、炭砿鉄道も廃止された。北海道開拓記念館には日曹鉱業株式会社天塩炭鉱の労務動員関係の資料があって目録もあり公開されているが、タコ部屋などに関しての詳細は不明。戦時朝鮮人強制労働調査資料集の連行先一覧に日曹炭砿の名が有り、戦時中の採炭は主に朝鮮人が担っており、昭和16~19年度の坑員は170~300人程であったという。他に性奴隷として連行された朝鮮人慰安所があったとされている。日曹炭砿鉄道工事では殉難受者1名だが日曹炭砿は48名、その中で氏名判明者は僅か3名で、タコ部屋などによる強制労働で亡くなった人がいた事を暗示しているが慰霊碑などは見かけなかった。日曹炭砿鉄道工事は札幌新川組の請負で昭和15(1940)年2月に竣工、監獄部屋による鉄道敷設工事であったと云われる。記念碑は事務所跡地(火葬場跡とも)に建立され、碑の素材に選炭工場の煙突に使われたな煉瓦が使われているように見える。炭鉱周は無人地帯にかわり、残された少ない遺構は草に埋もれ目にはいらない。鉄道跡の一部はサイクリングロードとして整備され、市街には炭砿鉄道を走っていたSLが保存されている。 ◇建立年:平成9年10月11日 ◇建立者:豊富町・炭鉱在住者一同・関係協力者一同 ◇所在地:天塩郡豊富町本流(旧本町地区)  ◇Gmap:Gマップ

殉公碑羽幌町

羽幌炭砿 殉公碑 殉公碑は昭和30年9月、戦没者と炭鉱殉職者を慰霊するため、羽幌炭砿が大山祇神社社務所近くに建立したものという。現地での碑の存在を確かめられずにいたが、羽幌町の旧広報で羽幌霊園に移転しているのを知ったのは最近のこと。移転した羽幌霊園にある「殉公碑」の横に碑誌に羽幌炭砿の概略と殉公碑移転の経緯が刻まれているのて転載する「当羽幌町内の炭田は、昭和十五年七月羽幌炭砿鉄道株式会社により開発に着手。最盛期には、年間出炭量百万屯を越え、これに従事する者三千余名、また炭鉱地区の住民も万余を算するに至った。然し、経済界の変動、特にエネルギー事情の急変は、当炭鉱の存在を許さず、昭和四十五年十一月閉山の止むなきに至り、築別鉱、羽幌鉱、上羽幌鉱の所謂炭鉱三山地域は廃墟と化し再び無人の山野に帰するに至った。元炭鉱従業員有志と協力賛同者による羽幌会は、炭鉱操業中の殉職者並に戦没者の霊を祀るこの殉公碑の祭祀の絶えるを憂い、羽幌町はじめ関係者の協力を得て、昭和五十二年五月旧炭鉱山元所在の殉公碑並に地蔵尊を此の地に移し再建した。昭和五十四年四月 羽幌会 町田叡光謹書」※町田叡光は元社長。羽幌での石炭発見は明治7年に遡るが、本格的な炭砿開発が始まったのは昭和15年からで、翌昭和16年には羽幌から築別間の羽幌炭砿鉄道が開通。戦後になって二坑(上羽幌)、羽幌本坑が開坑し昭和43年には年産114万トンを達成するも国のエネルギー政策の転換と経営悪化で昭和45年に閉山。 ◇建立年:昭和30年9月25日  ◇建立者:羽幌炭礦鉄道  ◇移転年:昭和52年5月1日  ◇再建者:羽幌会  ◇所在地:羽幌町寿町 羽幌霊園  ◇Gmap:Gマップ

羽幌炭鉱鉄道遺構羽幌町

羽幌炭鉱鉄道遺構 羽幌の市街地から北側の築別から内陸の築別炭鉱、上羽幌鉱に向けて昭和14(1939)年よれ石炭輸送のため鉄道敷設工事が始まり、築別炭坑の開発とともに羽幌炭砿鉄道株式会社が事業を引き継ぎ、築別-築別炭坑間16.6kmの鉄道建設に着手しタコ部屋労働の突貫工事の末に昭和16年に開通したが、戦時体制下で資材確保は困難だったようで橋梁などは各地で不要となった中古品を寄せ集めて作られたようで、橋脚の長さや幅が不揃いでアンバランスです。開通後は石炭輸送はもとより約2万人という労働者やその家族達の足として活躍していたが、戦後の復興を支えた炭砿もエネルギー革命には抗し難く、坑内条件の悪化もあり最高産出量を記録した僅か2年後の昭和45年11月に閉山、同時に羽幌炭鉱鉄道も廃止され、保有していた気動車の一部は茨城県の茨城交通に譲渡されました。羽幌炭鉱鉄道の橋梁は現在も見ることができます。 ◇所在地:羽幌町字曙  ◇Gmap:Gマップ

羽幌炭礦遺構羽幌町

羽幌炭礦遺構 羽幌炭礦(築別、羽幌、上羽幌3坑)は明治27(1895)年頃に鉱区が設定され採掘が始まったが、適切な運搬手段がなく大規模な開発には至らなかった。大正7(1918)年頃に財閥の鈴木商店が一帯の鉱区を買収、金融恐慌により昭和2(1927)年に鈴木商店が清算されてからも、傍系の太陽曹達(昭和14年太陽産業に改称)が所有し、昭和6(1931)年頃より再開発に着手し昭和15年に築別で開坑、同年太陽小学校が開校した。太平洋戦争中は生産資材や労働力不足に低迷するが、タコ部屋労働者、朝鮮から動員した人々によって炭鉱は続けられた。戦後は復興需要で石炭増産が叫ばれ昭和22年に上羽幌地区の開発、同23年に羽幌砿地区(三毛別本鉱)の開発が始まり、2坑あわせて羽幌鉱業所ができる。築別、上羽幌、羽幌3坑の年産量は昭和31年に50万トン、36年に100万トン、人口もこの地区のみで1万人を超えた。昭和30年後半のエネルギー革命の影響を受けて次々と閉山していくなか羽幌炭砿は築別、羽幌両砿業所を統合し合理化で優良炭を産出。43年には最高113トンを採炭、44年に大断層のため築別東坑が閉鎖され、45年には西坑も閉鎖、羽幌坑、上羽幌坑の二山体制にしたが、坑内条件の悪化等により経営難となり、最高産出量を記録した僅か2年後の45年11月に閉山した。 ◇所在地:羽幌町字羽幌砿  ◇Gmap:Gマップ

浅野雨龍炭鉱従業員殉職碑沼田町

浅野雨龍炭鉱従業員殉職碑 浅野財閥が明治38年に試掘権を設定し大正6年に滝の沢で試掘、ボーリング調査等を経たのち輸送手段として昭和3年に留萌鉄道が設立され、留萌鉄道は昭和5年に開業、同年に東本坑が開坑し浅野雨竜炭鉱が開業。昭和12年に末広坑の開発などに着手し昭和15年には生産量17万トンを記録するが、以後この記録を超えることはなかった。昭和27年に経営が古河鉱業に移り選炭場が建設されるが、昭和37年には雨竜炭鉱に譲渡され、露天掘も行われるが昭和43年に終掘、昭和44年閉山、しました。昭和46年には留萌鉄道廃業している。平成4年に沼田ダムが完成して浅野市街地の殆どが湖底に沈んだが、高台にあった選炭場などの施設はほぼそのまま残っている。神社のあった付近の丘に浅野雨龍炭鉱従業員殉職碑と皇紀2600年の記念碑がある。渇水時はダム湖畔からも見えるかもしれない。当時石炭輸送で活躍していたドイツ・ミュンヘンのクラウス社で製造された小型のクラウス15号蒸気機関車が「ほろしん温泉ほたる館」前に動態保存されている。 ◇建立年:昭和3?年  ◇建立者:未確認  ◇所在地:沼田町字浅野  ◇Gmap:Gマップ

油谷鉱業殉職者之碑芦別市

油谷鉱業殉職者之碑 芦別温泉(芦別市旭町油谷)の焼肉ガーデンハウス裏には、旧油谷炭鉱の「殉職者之碑」「油谷晨介之碑(油谷鉱業株式会社の創業者)」が建立されている。油谷晨介氏の胸像も設置されていたが、盗難で失われた。殉職者之碑には旧油谷炭鉱開砿以来の炭砿事故等で亡くなられた殉職者名が刻まれている。芦別の産炭地跡で比較的活気のある場所で碑の管理も行き届いているようだ。炭砿のの歴史は大正6年に始まるが昭和18年に油谷鉱業株式会社の所有となり昭和22(1947)年に開坑、昭和23年より月産3,000トンを出炭するに至るもその後の石炭市況の悪化により、昭和40年3月30日に閉山。近隣には整地された油谷炭鉱ズリ山が残されている。 ◇建立年:未確認  ◇建立者:未確認  ◇所在地:芦別市旭町油谷 ◇Gmap:Gマップ

油谷芦別炭鉱と芦別温泉芦別市

芦別温泉 大正6年から久原鉱業株式会社が盤の沢で石炭の採掘に着手したが石炭業界の不振で昭和2年に閉鉱。昭和18に鉱区権が年油谷鉱業所の所有になり、戦後の石炭需要増大で昭和21年に再開発に着手、旧軌道跡を利用しで月5,000屯級の索道を建設、昭和22(1947)年に開坑し、昭和23年より月産3,000トンを出炭するに至る。昭和24年12月に専用鉄道が開通し昭和25年からレオ式選炭機を導入し本格操業にはいり、内外鉱業株式会社を合併して株式会社油谷鉱業所になった。エネルギー革命などで石炭市況が悪化し昭和40年3月に閉山となるが、閉山時の従業員数は230名という。油谷芦別鉱を引き継いで北海道興産北興芦別炭鉱が開砿しているがすぐに解散となったようです。周辺に目立つような遺構は殆どみられず、整地された油谷炭鉱ズリ山が残されている。油谷芦別炭鉱の「十年の歩み」という記念誌に昭和22~23年の頃、囚人を150人くらい使用した事があったと記されていたが、戦後となるとあまり聞かない話だが囚人は各地に道路開削などに出ていたようです。

閉山で油谷の人々は去り商店、小学校、郵便局、病院等はなくなったが、芦別市は昭和46(1971)年に閉校となった油谷小学校の体育館下から湧出していた鉱泉を利用し、昭和47(1972)年に廃校舎を改築し市営の温泉施設「健民センター芦別温泉」を開設し温泉地として再スタート、振興公社に託し昭和47年10月にオープンした。その後に施設の拡充、付近環境の整備、昭和48(1973)年に国民保養温泉地に指定、国民保健温泉地の指定も受けている。昭和54(1979)年に国民宿舎、昭和62(1987)年に国民宿舎の新浴室「ヘルスセンター星遊館」平成元(1989)年には芦別温泉スターライトホテルが開業した。指定管理者も北海道ホテル&リゾート株式会社に代わり施設も順次更新して平成29(2017)年には星遊館がリニューアルオープンしている。健民センターとして整備されているキャンプ場は人気があるようです。 ◇所在地:芦別市旭町油谷1  ◇Gmap:Gマップ

明治鉱業株式会社上芦別鉱業所記念碑芦別市

明治鉱業株式会社上芦別鉱業所記念碑 閉山から17年後の昭和55年に、当時を忍んで上芦別鉱業所関係者一同によって建立された記念碑が上芦別町350の公園にあるが道路上からは見えない。碑文より「思い出の地 この地は、風光明媚で知られる、明治鉱業株式会社上芦別鉱業所の炭砿跡地で、明治鉱業株式会社が昭和19年11月に東芦別炭砿を買収し、本格的に石炭の採掘に着手した。昭和24年以降の最盛期には約1,300名の従業員を傭し月産13,000頓の良質炭を生産して大手炭礦として戦後の経済復興に大きく貢献した。しかし朝鮮動乱を機に世界的エネルギー革命により国はこの対策として石炭鉱業合理化臨時措置法を制定、これに基づき各地で石炭産業の合理化が急激に促進された。この頃、当砿は石炭の採掘が深部に移行する過程にあり保安上の悪条件も重なって合理化が進み希望退職者を始めとし、昭和34年には系列の庶路砿に120名、昭和砿に46名の大量配置転換が実施され、従業員も3分の1に減少した。その後も、石炭産業の斜陽は加速し、坑内条件の悪化に抗せず、遂に昭和38年1月31日を以って閉山に至った。この時、職員48名、砿員328名のヤマの仲間は体育館で行はれた閉山式に集り、お互いの健康と幸福を祈りながらぶ厚い掌に涙の盃を交じつつ再会の日を約し、20年間の炭砿の歴史を閉じた。あれから17年の星霜は流れ、今日もここに金剛山があり、空知川は変りなく流れている。今、私達は志し半ばして職に殉じた、同士の霊の御冥福を祈りながら、この地を、思い出の地として永く後世に伝えるため、市及び有志の方々の御協力を得て、当時の炭砿マン相集ってこの碑を建設した。昭和55年9月14日 旧明治鉱業株式会社上芦別鉱業所関係者一同」※ピーク時には832戸、人口4,000人以上あっとたいう明治地区、学校などの公共機関もあったというが今は閑散としていて当時の面影は僅かに残る炭砿住宅くらいで、冬になるとズリ山の形がわかる程度、採炭事務所付近も遺構は皆無のようです。※上芦別市街より泰山橋を渡った明治地区の公園は半ばブッシュ化している。 ◇建立年:昭和55年9月14日 ◇建立者:上芦別鉱業所関係者一同 ◇所在地:芦別市上芦別町350 (旧明治児童公園内)  ◇Gmap:Gマップ

北菱産業芦別炭砿記念碑芦別市

北菱産業芦別炭砿記念碑 北菱芦別炭鉱は昭和31(1956)年6月に三菱鉱業株式会社所有の鉱区内に祖鉱区を設けて8月に北菱奥6線沢坑を開坑した三菱鉱業の子会社。昭和39(1964)年3月の三菱鉱業芦別鉱業所閉山に伴い鉱区を譲り受け北菱芦別炭鉱本坑と改称。その後出炭量は年間8万~12万屯を数年間維持、昭和41(1966)年8月に本坑を新坑に集約するが、採掘条件の悪化や昭和43(1968)年の大量湧水等で経営が厳しくなり、昭和45(1970)年1月にオンコ区域で露天坑開坑で本坑と稼行するが4月に本坑内の増水等で同年10月30日に閉山。「碑文 かつてこの地には、三菱芦別炭砿(昭和23年開坑~同39年閉山)、北菱芦別炭砿(昭和27年開坑~同45年閉山)の二つのヤマがあった。戦後のわが国経済の原動力として、石炭産業はエネルギー資源の供給という国家的使命を果たし、両砿もその一翼を担って最盛期には年間31万トンの出炭を達成、敢然その使命を遂行した。しかしながら昭和30年代後半からエネルギー革命によって石炭は撤退を余儀なくされ、ついに両砿とも閉山の已むなきに至り、ヤマの男たちも相次いでこの地を去って行った。この碑は、かつてこの地に於いて石炭産業に従事した者たちの足跡を、ささやかながら後世に遺そうとするものである。昭和55年10月11日 三菱・北菱芦別炭砿を偲ぶ会 題字 塚本忠雄 書 碑文 高橋信 書」記念碑は上芦別町の啓南公園内(地図は上芦別草笛公園)にある。 ◇建立年:昭和55年10月11日 ◇建立者:北菱芦別炭砿を偲ぶ会 ◇所在地:芦別市上芦別町30番地 啓南公園内(地図は上芦別草笛公園)  ◇Gmap:Gマップ

三井芦別炭鉱殉職者慰霊碑芦別市

三井芦別炭鉱殉職者慰霊碑 概要「昭和14年、三井鉱山株式会社芦別鉱業所は三井上砂川鉱業所の分身として西芦別町に第一抗が開発され、又、昭和19年太平洋炭砿上尾幌炭坑の一山頼城町に移転、第二坑として開発されました。三井芦別鉱業所は第一、二坑とも生産量、炭質、カロリー、又従業員数は我が国大手炭砿の中に入り、第一坑 第二坑は主に原料炭を主体に生産され、最盛期には年産 94 万屯を生産する大手炭砿で、生活自然環境にも恵まれた「緑のビルド坑」として、常に業界の注目を集めていた優良炭鉱でありました。有限資源の宿命と申しますか、平成4年9月三井石炭株式会社芦別鉱業所として 54 年の歴史に終止符を打ち閉山のやむなきに至り、炭山の火は消えてしまいました。」碑文「閉山から13年、殉職者297名の慰霊碑を建立したいとの願いがかない2004年3月、慰霊碑建立実行委員会が発足、全国に散らばる山の同志からのカンパでこの碑を建立することが出来ました。ご協力頂いた全国の方々に深く感謝し、その名簿はこの碑の台座の中に納めてあります。尚 表面の題字は多くの殉職者の御供養をいただいた禅法寺住職、吉田孝純氏に書いていただきました。石工 株式会社 ヤマト石材」裏面に1940年3月15日から1987年7月10日まで、47年間の殉職者297人の名前が刻まれている。右の三井芦別炭鉱殉職者慰霊碑は、2005年に三井芦別労働組合OBが募金し建立したもので、裏面に開坑以来の殉職者297人の氏名を刻む。このことは新聞でも報道され知っている人もいるでしょう。 ◇建立年:平成16年10月吉日 ◇建立者:慰霊碑建立実行委員会 ◇所在地:芦別市西芦別町 多目的研修センター前  ◇Gmap:Gマップ

三井芦別 石炭産業無名殉難者慰霊碑芦別市

三井芦別炭鉱殉職者慰霊碑 三井芦別炭鉱殉職者慰霊碑の横に一年後に建立された慰霊碑で裏面の碑文より「厳しく困難多き時代に、過酷な環境下、心ならずも殉難された多くの方々の御霊の御冥福を祈念し、殉難された方々の望郷の念、肉親への想い、精神的、肉体的苦痛を考える時、悲しみの時代の再来の無い事を私たちは誓いつづけます。平成17年8月 有志」※この慰霊碑は戦時中の中国、朝鮮半島から連行され死亡した労働者を追悼したもので、2006年に北日本精機㈱の小林英一社長(当時)が自費で建立したものという。建立経過を知らない方がこの碑を見たとき、誰が何時、何処で誰によって、どんな人々が殉難を受け、誰が誰に誓ったかを理解するのは困難で、碑をみた人が内容を想像するのみ。過去の歴史についてもう少し具体的で無ければ意味は伝わらないが、監獄部屋や強制連行され強制労働で斃れていった人々を慰霊し、侵略戦争を再びくり返さないことを日本国民として殉難された方々に誓かう、ということになるのでしょう。 ◇建立年:平成17年 ◇建立者:有志 ◇所在地:芦別市西芦別町  ◇Gmap:Gマップ

頼城 坑夫の像芦別市

頼城 坑夫の像 西芦別町の三井芦別石炭労務課外勤詰所前にあった旧「坑夫の像」は、老朽化で同鉱OBや町内会役員らが保存会を設立し平成9(1997)年に複製像を建立。炭砿が軍需産業で戦争を支えていた時代であり、炭砿での死を「名誉の戦死」とも云った頃、戦意高揚と戦時経済を支えるため美術家も動員された。旧像は昭和19(1944)年に軍需省が派遣した軍需生産美術推進隊彫刻班の古賀忠雄氏(のちに日本彫刻家協会理事長)らによって制作され新像完成で取り壊された。戦後は経済復興を進める中で「坑夫の像」「 敢闘像」などと呼ばれ上砂川や夕張にもあったが、単に石炭増産意欲の向上というだけでなく戦争文化遺産でもあった。芦別の「砿夫の像」は国道452号線沿いで郵便局横の小広場に設置されている。 ◇建立年:昭和19年  ◇再建年:平成9年  ◇所在地:芦別市芦別市頼城町1  ◇Gmap:Gマップ

芦別高根炭鉱慰霊碑芦別市

芦別高根炭鉱慰霊碑 開砿は昭和13年で鉱区の図によれば一抗と二坑が有り、昭和17(1942)年7月に索道(ゴンドラ)原動所が設置され、一坑から芦別駅まで索道が示してあるが、後に引込線が敷設され炭列車に積み替えられた。昭和37年には採掘量20万屯を超えたというが、昭和42年に閉山となり索道と引込線撤去も撤去された。高根町にはかつて高根小学校・高根中学校や劇場もあったというが、いまはわずかに構造物の残骸が多少残っている程度で、集落は消滅し僅かに残る炭砿住宅に面影を見るのみ。かつての一坑付近で道道脇の案内板が設置してある所から緩やかな坂道を上った元高根神社境内に「南無妙法蓮華経」の碑と開坑以来の殉職者名が刻まれた慰霊碑がある。高根炭砿には記録に残るような大事故はなかったようです。2坑口付近で現在も芦別鉱業による露天掘が行われているようです。 ◇建立年:未確認 ◇建立者:未確認  ◇所在地:芦別市熊ノ沢(芦別市高根町34)  ◇Gmap:Gマップ

茂尻炭鉱跡の碑芦別市

茂尻炭鉱跡の碑 大倉鉱業によって大正7年に開鉱され、昭和6年に茂尻炭鉱株式会社として独立、昭和10年のガス爆発事故で95人の犠牲者を出して経営悪化、三菱鉱業(株)が買収し雄別炭鉱鉄道株式会社茂尻鉱業所となります。戦後の昭和21年に三菱鉱業(株)より独立し雄別炭鉱株式会社と社名を変更している。昭和43年に年産50万トンを達成するが、翌年の昭和44年4月に発生したガス爆発を(46名死傷)契機に経営悪化から閉山、昭和45年に会社を解散。閉山後に茂尻炭鉱株式会社が設立され露天掘りが行われるも昭和49年に終掘。後に撤去された立坑付近は民間企業の工場等に転用され遺構は殆ど残っていない。炭砿事務所のあった線路脇近くに慰霊の意味も込めて昭和49年に茂尻炭鉱の記念碑が建立されている。 ◇建立年:昭和49年  ◇建立者:未確認  ◇所在地:赤平市茂尻旭町1丁目  ◇Gmap:Gマップ

鎮魂碑茂尻坑殉難者合葬 赤平市

茂尻坑殉難者鎮魂碑 茂尻炭砿は茂尻炭鉱跡の碑の項に書いてあるので省略するが、鎮魂碑は95人の犠牲者を出した昭和10年のガス爆発事故後に茂尻炭砿山神社境内に建立されたもので、炭砿閉砿後に鎮魂碑は茂尻出雲神社本殿横に移設され、山神社は廃社となり今はない。あかびらふるさと文庫創刊号によると、和10年のガス爆発事故後で閉鎖された坑道に数人が取り残されたままになっているとあった。同年8月に茂尻元町北4丁目14の金龍寺にある八地蔵も建立されている。事故で亡くなった95人だけでなく開砿以来の事故や病気で亡くなった方々をも慰霊する碑となっているようです。茂尻出雲神社、全竜寺それぞれに毎年慰霊祭を執り行っているという。 ◇建立年:昭和10年5月 ◇移設年:昭和41年11月 ◇建立者:大倉鉱業? ◇所在地:赤平市茂尻元町北1丁目21 茂尻出雲神社  ◇Gmap:Gマップ全竜寺 ◇Gmap:Gマップ茂尻出雲神社

住友赤平炭砿 魂碑赤平市

住友赤平炭砿 魂碑 建物の正面入口の付近に魂碑が建立されているが、殉職した人々の霊を慰めるための碑なのか、神社の種類に含まれる碑なのかは未確認、再度調べる予定ですが、両サイドに狛犬が鎮座している。旧住友赤平炭閉山後も機械、電気系統などが稼動時のまま残され、鉱車操作場や繰込場などもほぼ完全な状態で残されており、現在でも動かす事が出来るといわれている。住友赤平・歌志内への朝鮮人連行は約6,000人、中国人の強制連行は住友赤平、住友赤平川○組があり、連合軍捕虜も住友赤平に連行されていた。最先端の技術と働く者を消耗品のように扱った歴史が同居したのも炭砿だった。 ◇建立者:未確認 ◇建立年:未確認 ◇所在地:赤平市字赤平  ◇Gmap:Gマップ

豊里炭鉱之碑赤平市

豊里炭鉱之碑 昭和11年に昭和肥料(株)が橋本炭礦を買収し昭和12年に豊里炭鉱を開坑。昭和14年に日本電気工業(株)と合併し社名が昭和電工(株)となるが、昭和25年には昭和電工が手を引き東海産業(株)に継承される。昭和26年に東海産業の独立企業体・東海鉱業(株)の経営となるも経営は不安定で、昭和30年に明治鉱業(株)傘下に入り経営の安定をみる。その後のエネルギー政策転換や外炭との競争もあり昭和42年7月に閉山、最盛期の従業員は約1,200名、閉山時は660人という。開鉱より30年間の殉職者数は173人、閉山後は5年ごとに慰霊祭を開いてきたが遺族の高齢化で平成29年が最後という。戦争末期の昭電豊里には朝鮮人約1,500人が連行され死亡者29人、中国人強制連行では川口組豊里出張所が死亡者52名をだしたが、殉職者数には含まれていないようです。※炭鉱は朝鮮人連行を進めるなかで朝鮮人用の「慰安所」をつくり、そこに朝鮮人女性を連行、性的奴隷とされた。昭電豊里の慰安所は「太陽館」といった。建物は会社が無償で貸与し指定業者が経営したが利用者は少なかったという。遺構のズリ山は森林になり炭砿があった痕跡はみられない殆どわからなくなった、豊里ふるさと会館に豊里炭砿を再現したジオラマがあり、会館前に豊里炭鉱の碑がある。 ◇建立年:昭和62年頃?  ◇建立者:未確認  ◇所在地:赤平市宮下町3丁目  ◇Gmap:Gマップ

赤間炭鉱の碑赤平市

赤間炭鉱の碑 北炭赤間炭砿は昭和13年に開砿し、昭和16年に北炭赤間橋とあわせて北炭赤間炭砿選炭工場が建設され、末広坑の原炭も赤間炭砿選炭工場で処理され、4キロほど離れた採炭地の坑口と専用軌道で結んで運んだ。最盛期には石炭を積んだ車両が一日に50往復もしたという。エネルギー政策の変更もあって昭和40年に北炭の子会社、空知炭鉱の経営に変わり昭和48年に閉山した。跡地を赤平市が買取り建物の殆どを解体、選炭工場の一部は炭砿遺産として保存された。北炭赤間橋跡付近の道路脇に赤間炭鉱の歴史を後世に語り継ぐため赤間炭鉱OBが中心となって閉山30周年を迎えた平成14年に建立された赤間炭鉱の碑がある。碑文より「炭車の響き川を渡り川面に映える赤間の灯 仲間が流した血と汗の証 炭車の響き山あいに木霊し 黒々ぐろと流れる空知川 長屋の灯りは父母の温もり 炭車の響き無事故の知らせ 今夜もまたまどろみの内に降る雪と眠る 作 目黒貞夫 揮亳 西井魁石(安雄)」※石碑は碑は沿革を記した碑誌を含めて3基ある。◇建立年:平成14年2月 ◇建立者:赤間炭砿碑建設事業協賛会 ◇所在地:赤平市豊岡 ◇Gmap:Gマップ

哀悼之碑歌志内市

準備中 歌志内では古い碑ですが、現在見られる哀悼之碑は昭和29年に再建された碑のようで形がことなっています。歌志内市史には「明治38年6月創業以来、殉職者の追弔法要をいとなみ、その冥福を祈るを例としてきたが、明治38年6月、夕張、幌内、幾春別、空知に哀悼の碑を造り殉職者之位牌を納めている。」とあり台座を含め3m近い高さのある碑だったようです。北海道炭砿汽船株式会社(※以降は北炭と略称ことあり)が最初に建立した哀悼之碑の三笠(幌内)は台座本体、夕張には法塔部分だけがあり、幾春別では見かけなかった。建立当時は北炭系炭山全体の慰霊碑的な役割を果たしていたとおもわれる。歌志内の哀悼之碑は歌志内公園内にあるが全体が凹面鏡のような形で、位牌を納める構造や法塔部分もないので、再建時に現在の形になったとおもわれる。 ◇建立年:明治38年6月 ◇建立者:北海道炭砿汽船(株)専務取締役 井上角五郎  ◇再建年:昭和29年8月 ◇建立者:空知鉱業所 ◇所在地:歌志内市本町 歌志内公園  ◇Gmap:Gマップ

三界萬霊塔歌志内市

三界萬霊塔 この碑は空知にある14炭砿の友子会の発起によって明治41年に建立され、昭和4年になって歌志内と上砂川の7炭砿の渡友子会によって再建された。三界萬霊塔の三界は仏教でいう過去・現在・未来や無色界・色界・欲界を示し、萬霊塔は人も獣も広く生あるものの霊を供養し永遠に祀る塔という事になるのでしょうか・・炭砿で亡くなった友子関係者の慰霊塔と云えるのかもしれません。碑は妙法寺門前・右側に立っているが、妙法寺とは無関係のようです。この年代に建立されてその位置を変わらずにある碑は珍しい。 ◇建立年:明治41年8月12日 ◇再建年:昭和4年8月4日 ◇建立者:友子会・渡友子会 ◇所在地:歌志内市歌神  ◇Gmap:Gマップ

殉職者追悼之碑歌志内市

準備中 歌志内墓地の駐車場前に大きな殉職者追悼之碑が立っています。その正面下段に建立に至るまでの経過が刻まれている。碑文の一部のみ転載する「十五年六月二十四日午前八時突如起オコリタル爆発ヲ知ルヤ余ハ心命ヲ懸ケテ救助ニ死力ヲ盡シ只管卿等ノ恙キヲ念ジタルニ天ハ無情ナルカ遂ニ卿等ハ不帰ノ客トナリテ呼ベドモ答ヘズ余ノ悲嘆譬ヘルモノナク共ニ譬ヒシ卿等ノ惨死ヲ拝スルト俱ニ卿等ノ遺族ニ想ヲ馳ラルトキ余ノ胸中転々断腸ノ思切ナリ・・以下省略」追悼之碑は開北炭砿の経営に当たっていた山田隆義が事故の一年後に建立、碑文から追悼の思いが伝わってくる。事故の経過を記した慰霊碑は珍しく歌志内ではこの碑だけ、また殉職者16名の名前も刻んであった。明治41年開砿の中村炭礦を振り出しに、大正元年には横山炭礦となるが、大正7年に合資会社 開北炭礦、翌年には株式会社 開北炭礦なる。昭和16年に山田隆義氏の個人経営となるも昭和18年に北炭が買収、空知鉱業所神威鉱開北坑となるが昭和38年に閉山、事業は北斗炭鉱に引き継がれましたが昭和45年閉山になっている。旧市営球場フェンス付近に坑口があった。 ◇建立年:昭和16年6月24日建立 ◇建立者:山田隆義 ◇所在地:歌志内市歌神 歌志内墓地  ◇Gmap:Gマップ

無縁者之霊歌志内市

準備中 かつては飢えや病気の為に行き倒れ、引き取り手の無い人が多数でたようです。中にはタコ部屋から放り出された人もいたのではないでしようか・・・殉職者追悼之碑や無縁者之霊は、歌志内の発展を支えた人々を追悼している歌志内市民の心と思います。碑の建立は歌志内市長でした。初期開拓時代での行き倒れていうなら、その多くは監獄部屋(タコ部屋)などで働けなくなった病人や怪我人などが握り飯だけ持たされて放逐された方が多かったという。その比率がどの程度だったのかは確かめようもないが、当時の監獄部屋の実態から推測すると納得のできる話ではあるが。北海道開拓の陰で倒れた多くの方々が無縁者として葬られたことを記憶に度とめておきたい。 ◇建立年:昭和44年8月11日 ◇建立者:歌志内市 ◇所在地:歌志内市歌神 歌志内墓地  ◇Gmap:Gマップ

山霊観音像歌志内市

準備中 道の駅 うたしないチロルの湯に隣接する温泉・チロルの湯の東側で舗装が途切れた所に御堂があり山霊観音が祭られている。チロルの湯の前身となったサンレイ温泉の経営されていた方(建立者)の説明を『歌志内・歴史散歩道』より引用する「ここは住友歌志砿の跡地でして閉砿する昭和46年までに、かなりの数の殉職者を出しています。私の記憶にあるだけでも、昭和34年に14名、44年に17名、そして46年には30名というふうにです。そこで、この温泉は、これらの方々のおかげで成り立っていると考え、昭和55年12月、観音を建立し、霊を慰めることにしたんです」」とある。それをチロルの湯がオープンしたときに移動させようという話がもちあがり、右方向70m程移動させた。結果としては観光者の目から観音を遠ざけることになってしまった。 ◇建立年:昭和55年12月 ◇建立者:サンレイ温泉 ◇移転年:平成4年 ◇所在地:歌志内市中村  ◇Gmap:Gマップ

殉職者之霊歌志内市

準備中 中村八幡神社の鳥居から左側50mほどの所に石垣で囲まれて立っている大きな慰霊碑です。建立者の名前が親友會となっていますが、健康保険加入者が集まり相互扶助を目的とした組織でほぼ全員加入していたという。大正時代に全盛だった友子制度は健康保険の普及や企業の直接雇用などで昭和には廃れて、労働組合や親友會の様な組織に代わっていったようです。慰霊祭は会社が中心になって行っていたと云うが、閉山で住友撤退後は有志の呼びかけで開催をしていたようで、昭和60年に住友歌志内砿殉職者御霊御名の碑を建立する母体になりました。 ◇建立年:昭和17年9月  ◇建立者:歌志内礦親友會改組記念建立 親友會員一同 ◇所在地:歌志内市中村 中村八幡神社付近(中村公園)  ◇Gmap:Gマップ

住友歌志内砿殉職者御霊御名の碑歌志内市

準備中 住友歌志内砿になってからの殉職者157名の名前を刻んであるというが、歌志内でこれほど多くの方々の名前が刻まれた碑は他に無く、大事に扱われるようにと願うのみ。古い記憶をたどり各方面の方にお伺いして建立した記名碑との事ですが、殉職された朝鮮から来た人々の名前は一見して見当たらないが何名か名前が刻まれているという。住友歌志内鉱の砿事業所跡地はチロルの湯がある一帯で温泉は住友歌志内鉱の坑口(密閉)からの鉱泉を活用したもの。 ◇建立年:昭和60年8月4日 ◇建立者:建立委員会 ◇所在地:歌志内市中村 中村八幡神社付近(中村公園)  ◇Gmap:Gマップ

坑夫像 敢闘像かみすながわ炭鉱館 上砂川町

坑夫像 敢闘像 昭和16(1941)年になると炭砿は軍需工業動員法により「軍需工場」に指定され、戦争末期になると炭砿の労働時間は実質15時間前後にも及ぶ厳しいもので、昭和19(1944)年までは出炭量も増加を維持していたが、砿夫も戦争にとられ労働力不足が深刻になっていた。不足した労働力を補うため大陸で労務者を募集し送り込んでいたが、昭和19(1944)年には徴用へと変更される。ベテラン砿夫は少なく、大陸より動員された人々は殆どが素人砿夫で、昭和20年の出炭量は前年の半分近くまで落ち込んだ。軍需省の依頼で終戦直前の昭和20(1945)年、軍需生産美術推進隊彫刻班5名で実在の炭鉱夫をモデルに現地制作し三井砂川鉱業所前に設置された像は「かみすながわ炭鉱館」の前に移設されているが、復元されたものという。戦時下の石炭増産を鼓舞し戦意高揚をはかるため制作された戦時芸術・戦争遺産とも云えるが、戦後は復興を支える石炭増産の象徴となった。◇建立年:昭和20年 ◇制作者:長沼孝三・野々村一男・菅沼五郎・中野四郎・峰 淳 ◇所在地:上砂川町本町北1丁目  ◇Gmap:Gマップ

三井砂川炭鉱殉職者慰霊碑かみすながわ炭鉱館 上砂川町

三井砂川炭鉱殉職者慰霊碑 かみすながわ炭鉱館横にある炭鉱殉職者の慰霊碑です。昭和14(1939)年までの殉職者264名とあり、それ以後も事故は続いており殉職者は320名を越えるようです。上砂川史によると昭和14年に朝鮮人労務者来山とあり、昭和19年8月に中国人労務者入山、昭和20年11月に中国人の送還と朝鮮人の帰国が始まり12月完了とあった。強制連行による中国人は下請け3業者による監獄部屋と三井砂川鉱業所直轄と合わせ1,412人だが、そのなかで202人の死亡者をだしている。資料などによると昭和19年8月時点での朝鮮人在籍者数は2,574人というが、戦時朝鮮人強制労働調査資料集に102人の死亡者名が掲載されていたが、戦争でベテラン砿夫は徴兵され残ったのは高齢の砿夫と動員や強制連行された素人の集まりで事故も多かったようだ。北海道開拓殉難者調査報告書では殉難者数853人、氏名判明者は611人で242人が無縁となるが、その殆どは監獄部屋での日本人や朝鮮人の犠牲者であったと思われ、中国人の殉難受者を含めて慰霊の対象に含まれてはいないことになります。 ◇建立年:未確認  ◇建立者:未確認  ◇所在地:上砂川町字上砂川22番地11  ◇Gmap:Gマップ

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