第参章・エゴイズムに染まったアイスランドポピー

 徳治と義三少年がアニワ警察署に着いた時には既に受付の丸い電気時計の針が九時を少し過ぎたばかりであり、徳治は額の汗を拭きながら昨日の呼び出し状を受付に差し出した。受付の警察官が側に居た警官に何かを命じとすぐその警官が

『“私の後に付いて来なさい”』

先になって歩いていき薄暗い廊下を九十度左に曲がったと思うと
突き当たり部屋のドアを押し開け中に入り

『“この部屋です。入りなさい”』

部屋の中央に丸机が置かれ、三つ添えられている椅子の一つを指差し

『“この椅子に座り、待ちなさい”』

徳治に言い残し義三を連れて出て行った。徳治は部屋の中を注意深く見回し、左側の大きな本棚の上の大きな置時計を発見した、その時計の時を刻む音が自分の運命を刻む様締め切った狭い部屋に異様に響いてくる。時計が九時半を示したその時、何かを話しながら次第に近づいて来る靴音がコッ、コッと響いて来る、徳治ははっと聞き耳を立て(・・・来たらしいぞ・・・)と腑抜けた精神を凛と慣らした。ドアが開きバルイシェフ警察中尉とそれに随う様に若い女性通訳官が入って来て、丸机を隔て中尉は対座した。通訳は二十歳前後の黒髪と黒い瞳の小柄な女性で日本人との混血を想わせる顔立ちである。 (・・・もしや・・・)徳治は噂の通訳官を思い出し(・・・間違いない、スミだ・・・)漠然と恐ろしくなった。
だがそれを押し隠しながら立ち上がりバルイシェフ警察中尉に恭しく一礼し、アンドレイはそれを制する様に

『ヤアホソイサン、ドウゾスワリナサイ』

強いアクセントのある下手な日本語で穏やかに言い放ち、スミは窮鼠の如く影を潜め、徳治の頭から爪先まで動かす事が出来ない程の凝視を浴びせながらアンドレイと何かを話していたがやがて鞄から白紙とペンを取り出し通訳するよう命じ

『細井さん、何時何処で生まれ 何時樺太に移住しました?』

と穏やかに聴いてきた。

『はい、明治十八年八月十日、秋田県で生まれ
大正七年に今居る所に移住しました』

『それは西暦何年ですか?』

『西暦さあ?年を取ったせいかちょっと解りませんが?』

『それでは身分証明書を見せて下さい』

質問に応えて徳治はポケットから身分証明書を取り出しスミに差し出した。スミは差し出された身分証明書を受け取りそれを見て中尉にその旨を報告し又中尉と何かを話し合っているのを徳治は内容が解らないので黙ってそれを見ていた。話し終えるとスミは徳治に向かい

『細井さん、貴方が何故、何の為に警察に呼び出されたのか解っているでしょう』

『いいえ、全く心当たりがありませんが?』

否定する様に徳治は言った。

『ダメです!そんな嘘を言っては、本当の事を言わなくては!』

スミは威嚇的に机を叩いた。無論徳治は何の疑惑で呼び出されたのかは察していたがそれを供述する事で自分の立場が不利になるものと思い
今更考えている様な顔をして沈黙した。

『隠してもダメです!』

スミはドラガノフ准尉が嫌疑を被せた様な事を詰問し、これに対し徳治は抗議めいた口調で否定し、徳治との応答を中尉に伝えた。中尉は数枚綴りの書類を取り出し、徳治の目の前に示しつつ怒声で徳治の目を睨むように詰問し始めた。徳治はロシア語で怒鳴る中尉の言っている事は解らないが、その素振りから只事ではない事を感じ取り(あ~何とした事だ。わしは奴等の謀略に捕らえられるのか?それとも俎板の鯉となるのか?)そう思うと顔から血の色が引いていくのが自分でもはっきりと解った。スミは山田義三と四文字で署名してある所を指差しながら

『この書類は山田義三の調書です、これこの通り山田の署名があるでしょう。所で貴方は山田と二人で馬橇に荷物を積んだそうですね?』

『はい!積みました』

『山田は貴方の馬橇に四十五個の荷物を積んだとはっきり言いましたよ、公団の方でも貴方が四十五個の荷物を積んだ事を証明していますよ。
さあ!隠さず盗んだと言いなさい!』

『私は先程申し上げました通りその様な覚えがありません。
山田義三もその様な事を言う筈は無いと思います』

徳治はスミの詰問を強く否定した。

『貴方は私を侮辱するのですか?』

スミは憮然としてこの事を中尉に告げた。中尉は眼鏡の奥で”キラリ”と陰険な目を光らせ徳治を睨み、大声で詰問するので徳治は困惑し体中鳥肌が立っていた。中尉は又何かをスミに話しかけ語り終わるとスミに更に通訳を続ける様に命じた。

『“細井さん 強情を張るのですね ソ連政府を馬鹿にしているの?どうなんです、答える事が出来ないのですか?馬鹿にしているの?
座ってはいけません!起立しなさい!”』

命じるまま徳治は無言のまま立ち上がった。

『“細井さん、目を瞑りなさい。そして良心に呵責されるまでじっと黙想しなさい、ソ連国家は人道的な国家です、これが昔の日本警察なら貴方は直に棍棒にて拷問にかけられるでしょう、ソ連国は日本の様に野蛮ではありません。だが!貴方に馬鹿にされる様な生易しい警察ではありません”』

スミは食い込む様な視線を徳治に向けて来た。
その時呼び鈴が続け様に鳴り響いた、署長室からの発信である。

『“あー僕だ!”』

(徳田の件かな?)と立ち上がり

『“こいつを留置場へ連れて行け!”』

バルイシェフ警察中尉は、日本人及び朝鮮人関係の捜査主任であり呼び鈴の用件をそう理解したのだろう。ベシカレフ警察少佐で署長は徳田事件の関係書類を前にして

『“アンドレイ君、この事件はロシア人刑事では犯人を摘発する事が困難だと考えている。訳は日本紙幣だ、日本紙幣が殺しの動機だとすれば犯人はロシア人以外だ、だとすれば日本人や朝鮮人と言葉がよく通じない君等捜査陣が訊き込みをしたって不充分にしか行われない。これが大きな壁となり捜査を長引かせ、迷宮入りしそうな気がする。所でこの件に関する君の意見が聞きたいのだが”』

署長はバルイシェフ中尉に事件に対する見解を求めた。

『“はい全く、未だに有力な情報はありません
僕もこのままでは迷宮になるのではないかと心配しております”』

『“それでは決まった、ユジノサハリンスクから日本人刑事を派遣してもらおう”』

既に半ば迷宮入りになりかけたこの事件を日本人刑事に当たらせれば、案外早く解決するかもしれないと数日前から署長は考えていた。
徳治は留置所の独房の片隅で垢で薄汚れた毛布が一枚ある粗末な寝台に焦酔しきった体を横たえ、留置されていた。暖の取れない部屋は日の落ちる夜と共に厳しい寒さで凍てつき、刺す様な冷気に体の心まで泌渡り歯の根も合わない程がたがた震えていた。あまりの寒さに耐え切れず頭を持ち上げ寝台の上に座り込んだ。(極寒だと言うのに火の気の無い留置所へ入れられ地獄の責め苦に遭わされるとは何と言う事だ、然し何故?何故バルイシェフ中尉はわしの申し出を退けたのだろう?・・もしかするとベレスネフの罠に嵌められたのかも知れな。だとすると、バルイシェフ中尉はこれからどの様な処置を取るだろう。
そんな事よりこの寒さでは朝までわしの体が持つか、眠りでもしたら凍死してしまうぞ、せめて光男が帰る日まで、帰るその日まで大事な体なんだ、久子は家で寝ずに待っているだろうがこの有様を知ったらどんなに驚き悲しむ事か?力にならないわしを頼りに生計を支へ光男、只光男の帰る事を信じきるあの子がこのわしにもしもの事があったならどれ程落胆する事か?)徳治の体は生きてるとは思われない程に冷え切っているも思考回路はより冴え、考えれば考える程次から次へと脳裏に不安が漠然と湧き出てくる。足先がじっとしていても痛むほど冷え切っていた徳治はじっとして居れずに、板張りの床上を小刻みに震える体を温める様歩き始めた、だが体は容易に暖らず脳裏に浮かぶ不安と戦うために歩き続けた。(くそ!わしにも終に破滅の運命が降りかかって来たのか、この状態では四、五日居たら命は助かるまい。どうせバルイシェフ中尉の取調べに依って留置所で凍死するか、無実の罪を被るならこんなに痛苦を喰らう事は無い、盗んだと言って警察署から釈放され一日でも早く家に帰り刑の執行される日まで穏やかに体を休めた方が)徳治はふとその様な事を考えた。徳治は諦め切ったがすぐ一つの希望(おもい)が頭をもたげて来た、鎌倉時代の宗教家「日蓮」が佐渡島で”捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”と教えた事を思い出したのである(捨て見よう、そうだ捨て見よう。
国家最高司法の代行機関、裁判所ではバルイシェフ中尉の様な一方的な取調べはしないだろう、わしの釈明に裏付があれば必ず潔白な身である事を証明できるのだから、久子は心配するだろうが明日、死んだつもりでバルイシェフ中尉に盗んだと言って帰ろう)徳治は虎穴に命を賭けなければ自分の釈放が望まれない事を自覚した)アキームは夕食後、食卓に肩肘を立てその掌に頬を支えじっと考え込んでいる。

『“ねえ貴方、何を考え込んでいるの、憂鬱そうね
紅茶でもお飲みになったら?”』

ニーナは紅茶に入れた砂糖を溶かしながら夫に薦め、媚のある笑みを浮かべ夫の顔を覗き込む。アキームは窓ガラス越しの凍える様な星空を眺めながら沈鬱な面持ちで

『“別になんでもない”』

『“あら、如何して?
貴方なんだか憂鬱そうな顔をなさって少し変ですよ。”』

『“そうか、顔にまで表れているのか”』

ニーナの顔を見詰めながらアキームは焦然とした眼差しでそう呟いた。
ニーナは聴き取れたその言葉が胸に突き刺さり

『“如何致しましたの?何か間違いでもあったの?”』

自分を労わるニーナの気持ちにアキームはつい

『“いや、あの事が公団の人に発覚された様なきがするんだ”』

意外な言葉に愕然としたニーナの顔を見た。夫の顔を窺い胸を掻き毟られる様な不安に襲われたが、急に思いついた様に立ち上がり今日の夕刊を見せ

『“貴方、先程アンドレイが参りまして、僕の取調べで磐石の固めになった。絶対自信を持って事を運ぶから姉さんは安心して。それで世間から注目を引くため新聞に情報を提供したと、言っていたわ”』

ニーナは夕刊紙を卓上に開き見せ、二号活字の鮮やかに並んだ部分を指差した。「アニワ食糧公団・食糧箕物盗難事件、日本人一老人、有力容疑者として抑留される。明朝まで犯行の一切を自供するものと予想される。」

『“これこの通り書いてあるでしょう、だから大丈夫よ。”』

『“ところが、結果的にこの新聞記事がいけなかったんだ。”』

アキームは重苦しそうに首を横に振りそう言って
その記事を見ようともしないで語り出した。

『“今日の勤めが終わるちょっと前イヴァンがその夕刊を携え、係長、夕刊見ましたか?珍しい記事が載っています。
そう言って夕刊を私に差し出し、私が記事を見入っているとイヴァンが、係長、この老人可哀想にね?可哀想でしょうと、私を告発する様な口調で話し掛けてきて新聞から目を離し、私を観察し全てを知っていると言う様な態度で迫って来るのが感じられ、イヴァンの本心を探るため今晩必ず来る様にして来た”』

アキームは目を閉じ又何事か考え込んでいた。

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