序章・片栗の香り(続)

『“静かにせ~”』

怒鳴られると同時に久子の顔に拳で火の出るほど撃ち貫いた、久子は顔を押え側方に仰け反った。よろけた所を相手の兵士に後襟を掴まれ、その場に引き倒された。桟を得たりと二人の兵士は一度に襲い掛かり、抵抗する久子を国道沿いの原生林に中へ担ぎ出そうとした。

『助けて、誰か来て、広光、広光!』

力にならない我子の名を力の限りの叫び声で限り周辺に助けを求めたが、母屋からも隣り家からも離れていて何の反応も無く久子の顔は血の色が失せ

『“騒ぐな、叫んだとこで誰も来やしない”』

『“静かにしやがれ!”』

抵抗する度に兵士の拳が久子の顔に容赦なく飛んで来る。遂に森に仰向けに平伏させ抵抗する彼女の胸部と腰部に一人づつ膝乗りなって押さえつけた。久子は慄き涙声で尚も救いを周辺に叫び続け兵士から逃れようともがいた。
しかし兵士は弱い兎を捕らへいたぶる虎狼の如く強引に彼女を犯そうと迫る。淫情に悶える兵士の手は強引に最後の着衣を引き裂き膝を割った。白い彼女の太腿がさっと表れ 兵士の目は異様に輝いている。

『“おい、ジジチェンコ二等兵、お前は後だ。藪に潜んで見張っててくれ!”』。

ジジチェンコ二等兵を退けたデミチェフ上等兵は桟を得たりと久子に覆い被さって来た。久子は半ば観念し夫に謝罪を乞う気持ちになった、それが不貞を犯す妻の保嘖のように感じられてきて、久子は決意した。

『(死んでも屈辱に塗れようか!)』

ぐいぐいと膝を割り開こうとするフェチカの腕力に渾身の力を振り絞って拒んだ。
このためフェチカは益々狂える野獣の如く激怒し

『“静かに横たわれ!”』

怒鳴りながら尚、久子の顔面に拳を続けざまに叩き込みながら迫ってくる。久子の叫びは悲鳴となり一段と懲りに木霊しフェチカは久子の大きな叫びを聞きもう一度痛めつけようとした。

『“殺すぞ、殺すぞ!”』

身動きするなら殺すぞと言ってビシッビシッっと叩き付ける。久子はもう是までかと観念したその時、デミチェフは何かに驚き急に浮き腰に為ったその隙に身を反転しその刹那、久子は自分の目を疑った。
久子の目に映ったのは二人程の日本人が喚声を上げながら木立の合間を逢うように走って来る所だった。最初現場に着いた男は煮え滾る憎悪を満面に表し物も言わず走って来た勢いそのままにフェチカの腰部を蹴り抜き、次の男も同じように蹴り上げた。虚を衝かれたデミチェフは他愛も無く地面に腹這いになった。

『この野郎、ざま~見やがれ!』

『ねえさん、大丈夫だったか?』

涙を拭きながら男達に灼ける様な恥羞を耐えて
取り乱された服装を繕っている久子に彼等は問い掛けた。

『はい、御陰様で』

久子の声は疲労で掠れ、顔や腕の所々に血が泌み黒く腫れあがり野良着は引き裂かれている。その姿を見た別の男が歯軋りしながら問いかけた。

『怪我は無かったかね? 俺等が国道を通らねば酷い目に遭う所だったよ。』

合槌するかの様に別の男が言う

『口惜しい請った』

敗戦に依って同邦に加えられる屈辱の数々が如何に残忍極まるものであるかを真の当たりに見せ付けられた男達の心は、煮え滾る灼熱の憎悪で雁字搦められ、ある顕示を受けた様に一つの義務を感じていた。

『糞、非道な野郎だ』

『やっちまえ、袋叩きにしろ』

誰とも無く叫び異様な殺気に満ちてきた。
地面から起き上がったデミチェフは擬然として日本人を睨んでいる。

『この野郎、謝れ』

一人の男が久子の痛々しい姿を指示し吼える様に日本語でフデミチェフに怒鳴りつけた。しかし日本語の分かる筈の無いデミチェフは蛙の顔に水を打った如く効き目がない。デミチェフはこの言葉をかき消すように藪に潜んで居る戦友を呼んだ。

『“おい、ロベルト、ちょっと来い!”』

ロベルト・ジジチェンコは既にこの光景に愕然としていた。しかし同僚の呼声に応じ日本人の所に歩みより心の衝動を制し戦勝国人の虚勢を張り手帳を取り出し

『“さあ、なぜこの男に手向かった。手向かった者は誰だ、姓名を言え!”』

下手な日本語で虚列する日本人を叱責した。それに勢いを得たのか

『“おい、お前、名を忘れたのか、何故言わぬ!”』

語気を荒げ蹴った男に拳を振り上げ詰め寄った、それが男達の癪にふれ

『俺か、俺の名は後藤又衛門様よ、貴様等に本名など言えるか、馬鹿野郎』

そう言うと逸早くデミチェフの顔に拳が飛び別な一人の日本人が怒鳴った

『皆黙っていられるか こんな野郎に長い間苦しめられて来たんだ
半殺しにしてしまえ・・』

又別な男が叫んだ。

『殴れ、殴ってしまえ』

ソ連の国策である産業拡張五ヵ年計画の政令に基づき、同朋の自主的な行動に制限を加え労働能力のある青年男子は総て各産業部間に徴用し、強制労働に従事させられていた。ソビエト政府の政令のもと、同朋を敗戦国人として庄迫を加えられている彼等のやるせない感情には、憤懣を常に胸中に燻らしていた。それが今炎となって燃え上がった折も折り、この日本人の一団は冬山造伐に杣夫として強制徴用になり、人里はなれた酷寒と想像を接する厳しい自然に晒される深山に行かなければならない一団、それだけに気も荒んでいる。

『この野郎、ぶん殴ってしまえ』

『オッ、やれ、やれ、半殺しだ~』

一団は口々に喚きたてながら兵士を捕らえて一度に襲い掛かった。殴る蹴るの私刑が始った。兵士の仗威も誇りも一瞬のうちに吹き飛んでしまった。兵士の顔は見る見るうちに鼻血で染まり、青黒く腫れ上がり一見目を背けたくなる様な惨めたらしさに変化した。久子はふと勝家山田の主婦さんがいつも話していた事件を思い出した。それはやはり眼前の争いに類似していた。ソ連軍の進駐後まもなく軍政が廃され民政に移行した頃だった。
ある日二人の兵士が荷車を引いて山田の叔父、三浦の家に燕麦を略奪に来た。ところが2人の兵士は何の武器も携えていない徒手空拳であることを察知した三浦の者たちは、いきなり棍棒を用いて兵士を殴りつけ半殺しにして追い返しこの勇を近隣の者達に誇示していた。数日後この兵士の一味が報復の襲撃、三浦は銃弾を受けて病院に担ぎ込まれ、臨終が近づいた苦しい息のもと

『人は時と場合によっては小を殺してでも大を生かさねばならぬ…このように荒みきった世の中に處して行くには、このことがこのことが大切だったんだ。帝國軍隊の時を誇る往時の日本人の気性が俺の不幸を招いた、その為にお前達のこんな悲しい思いをさせて済まぬ。時代は変わった、皆そのことを自覚して生命を永らえてくれ』

そう言い残して息を引き取った山田の叔父・三浦事件を思い浮かべた久子は、この兵士にもしものことがあればと考えると、自分のために真剣に怒っているこの男達に災いのかかることを憂慮せずにはいられない。

『皆さんもうこの位で許してやって下さいませんか
後で復讐されては皆様方にご迷惑がかかりますので!』

久子はおろおろしながら一同に口を入れた。

『おかみさんそんな心配は無用なんだ、どうせ俺らは造伐山で一日三平方メートルの木材切らなければ夜も飯場で寝ることもできない身の上、まったく拷問的な作業で生地獄以上の辛さの俺等にそんな気使いはいらないさ』

『まあ~でも』

久子は言葉に詰まった。この荒みきった男たちの争いをおどおどと一人胸を痛めてみていた。無事に生還できる当てのない徴用と云うなの強制労働に駆りだされ、捨て鉢な感情になっている男達の逆鱗に油を注いだでき事ともいえる。久子はこれがどんな結果になるのか暗然として争いを見守っていた。そのうちに二人の兵士が地面に這い蹲るようにしてぐったりとなった。

『とうとうのびやがった。』

『良い懲戒になった。こんな奴に弱みを見せりゃ後の為にならんざまあみろ』

『いい焼きが効いた、痛かっぺ、はっはっはっ』

男達は倒れている二人の兵士の傍らに人垣を作り今までの鬱憤を霽らしたかのように話している。地面に伏した兵士が低い声で何かを言っている。復讐を宣言しているらしい。そのとき人垣の後側に居た三十一・二才の胸に田中と記名した男が

『ちょっとやり過ぎましたね』

久子に視線を移した。久子の胸を黒い翳が覆う、山田の叔父の死が頭に浮かんでくる。叔父の死んだときに比較すると治安も落ち着いた今日、あれほどの復讐がないまでもこの兵士の意趣返しのある事は免れないという予感にとらわれていた。

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