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第四章・雛菊の咲く人権擁護院(続)

 ガラス越しに一目で解る狭い事務室に三人の事務員が執務し、その中に二十歳前後の日本人女性事務員が居た。
日本人娘の姿を見て徳治は今までの鬱厭に満ちた重苦しさが急に軟ぎだした。

『(あー良かった)あのー、院長先生は居られますか?』

二人の蒼い目が怪訝そうに徳治に集まっている。

『私は院長先生に御願いがあって参りました。どうか先生に会わせて下さい、御願いいたします。そしてこの手紙を渡してくださいませんか?』

徳治はそう言って二通の封筒を事務員に差し出した。

事務員は差し出された封筒を持って去ったがすぐに戻って来て

『此処では御話出来ませんのでどうぞ、こちらにおいで下さい』

『はい、ありがとう御座います』

院長室に案内された徳治は丁寧に腰を屈め一礼した。院長は徳治の携えた手紙を読んでいたが、これより目を離し、事務員が通訳しながら

『遠路はるばるご苦労様でした、貴殿の事情一切はこのビンジュコフ村長の御手紙で良く解りました。とにかくお座りになってください』

院長の机の側にある椅子を薦めてくれた。ビンジュコフ村長からの書簡には十二名の日本人徴用馬夫の徳治の無罪を立証するアリバイ証明が同封されている、この書簡を見ただけで真意の程は解らないが実に不審である。真昼にこの老人が同僚の目を盗み単独で果たしてこの様な窃盗が出来るものだろうか?しかもベレスネフが酒に酔ってあの寒い中を四,五時間も揺れ動く馬橇の上で眠り続けるのも妙だ、実に矛盾している。いったい何を持って事件の決め手としたのか、あるいは作為的検挙と言う事も考えられる。もしそうだとすると早く検察庁から起訴証本を取り事件についての調査と分析を試みようと考え始めアンナ女史は徳治の差し出した弁護料を封筒から取り出し数えた、千ルーブルしかない。
アンナ女史は厳しい面持ちで

『“お爺さんこれでは足りません。事件の再調査するので大変費用が掛かります。
最初四千ルーブルの弁護料を納めていただきたいのですが”』

手にした千ルーブルと徳治の顔を交互に見詰めながら事務員を介して言った。

『えっ、四千ルーブル?』

徳治は疑う様に事務員に聞き返した。

『そうなんですの、お持ちありませんの?』

『ええ』

『困りましたね、折角先生が貴方の事件を御引き受けて下さると言って下さるのに。何とかならないのですか?』

通訳の娘は気の毒そうに徳治を促そうとした。千ルーブルでさえも久子が徳治の無罪を信じて隣近所から頭を下げ借り集めた貴重な千ルーブルなのだ、それ以上の途方もない四千ルーブルの弁護料の請求に徳治は困惑し、如何すれば良いのか見当もつかない。しかしそれなら自分の冤罪がどの様になるのかを通訳がまだ一言も言っていないのが気になった。

『通訳さん、私は無罪になれるんでしょうか?』

弁護料の言い訳よりも一縷の期待を押し隠せずに通訳に聞いた

『さあ、有罪、無罪は先生が事件の調査分析をなさってみた結果でないと断定的な事は申し上げれませんが』

『結果後?』

『そうなんです』

『(あー困った事になった、それに弁護料も無いし)』

徳治は通訳との会話で憂慮に満ちたおろおろ声になった

『でもお爺さん、先生が弁護を引き受けになったからには安心ですわ。先生は民族的差別の無い正義感の強い方です、先生は間違いを絶対許しません。先生がお引き受けなさったのは必ず無罪になると言う見通しがあっての事です。しかし弁護料を支払って頂かない事には何とも出来かねますが』

通訳は追い駆ける様に徳治に言う、徳治は深い溜息をついた。

『でもお爺さん、胸の所に光っている鎖は時計じゃありませんの?』

『はい、そうでですが 其れが何か?』

『ちょっとその時計見せてくれませんか?』

突然に時計を見せてとは何故だろう?徳治は不審の目を黙然と通訳に向け、その視線を受けた通訳官は説明する様に

『お爺さん、市民市場でその時計を売れば弁護料になるかも知れませんよ』

その説明を聞いた徳治は自分の思いすごしを心に恥じて

『えっ、そうですか。ありがとう御座います』

通訳は差し出された時計を手にし頬に微笑を浮かべた

『良い時計をお持ちですね
これなら市民市場で三千ルーブル位になると思いますわ』

『えっ、これが三千ルーブルもの高値で市民市場で売れるんですか
それじゃあよろしくお願いします』

ソ連製の時計は旧型の外張りは鉄皮製の物や、型のゴツゴツした物が多く、これに比較すると日本製の時計は優雅で機械も精密に出来ている為、指導者の中には日本製の時計を欲しがっている者が多い事を知っている通訳は

『えー約束は出来ませんが多分大丈夫ですよ』

それはソ連が戦争の為長い間精密機器製造に制限を加えていた名残でもあり、通訳はその事を徳治に簡単に説明した。ジッとして通訳と徳治の会話を見守っていたバラノフスキー女史はその懐中時計を見て奇異な感じに捉えられ

『“何の話をしているの?”』

二人の会話に割って入ったバラノフスキー女史に、通訳は弁護料に絡む時計の事について話し合いの結果を具体的に告げた。

『“そうでしたか、ちょっと私にも見せてください”』

『“パジャールスタ(どうぞ)”』

時計は通訳からバラノフスキー女史に手移された。徳治はバラノフスキー女史の取調べを二時間程で済ませ、人権擁護院を出た頃は一時を大分過ぎていた。
今朝二人連れ立って村から来た山下と平川の家で落ち合い又二人連れ立って村に帰る事になっていた徳治は

『遅れたかなー?』

町端の平川宅へと歩みを速めた。警察署の薄暗い電灯の下に山下は留置されていた。黙然として思考に耽った山下はふいに扉の方へ顔を向け

『おやっ』

と、驚きの声を上げた同時に、荒々しく体で扉を押し開けながら

『“さあ!入りやがれ”』

と、山下の居る側に日本人の男が二人の兵士に押し倒される様に転がり込んで来た。 尚、兵士はその男を睨み据えながら語気を荒げ

『“静かにしていろ、明日はユジノサハリンスクの拘置所行きだ”』

一喝して扉が閉まった、実に一瞬の出来事である。男は口惜しそうに閉められた扉を叩きつけながら

『畜生、蹴りやがったな』

男は腰を擦りながら鋭い眼つきで山下を一瞥。山下はその男の姿を見てさすがに怖じ気つかざるを得なかった。顔は不精髭が伸び汗と垢と塵で生肌も見えない様な面相で、山下はこの男の顔を見てしばし呆然とした。男は胡坐の上に両手を置き首を前にたれ、肩で大きく溜息をしぽろぽろと胡坐の上に涙を落とした。

『貴女は何故此処に?』

殆ど無意識に聞いたのだが、男はポツリと

『人を殺したんですよ』

山下は好奇心を押さえられずに続けて

『へー、何か訳があったんでしょう』

『戦争のせいさ。戦争が俺の人生をすっかり狂わせてしまったんだ。戦争は人類の悲劇だ。ねえ、君真岡の惨劇を知っているだろう』

真岡の惨劇、誰もが知ってるあれの事か

『聞いた程度だが、何でも九人の電話交換手が自決したとか、その事か?』

それは昭和二十年八月二十日、午前六時過ぎにソ連軍が真岡に上陸した血生臭い追憶である。二十日朝、八月には珍しくも真岡港は一寸先も見えない濃霧に包まれていた。それが日の上がる頃に次第に薄れ、視界がはっきりして来るのにつれて、沖に大きな艦船が停泊しているのが町民の眼に映り、敗戦寸前の暗い情勢の中で引き揚げを待って見物していた町民の間に引き上げ船と噂が乱れ飛び、それも束の間、艦砲の轟音が天地を震撼し弾丸が町中に破裂した。男は穏やかな水面を思わせる表情で過去の追憶を語り出し、自己の苦哀を吐き出し煩応する様に頭髪を掻き毟った。
家族を背負い引き揚げ列車に乗り、その列車への銃撃で生死の狭間で焼野の雉とて及ばぬ子を思う崇高なる母を失い、止まった列車の山影へ群れを成し逃げ惑う群集にも銃撃が注がれバタバタと地に横たわる屍。余りの凄惨さと絶望を映し出す死した妻と妻に背負われる死した我が幼子の地獄絵図。銃声と泣き叫ぶ絶叫の二重奏から連れ出す、自己の責を守り乗客を守り抜き力尽きた乗務員の誇り

『私は悲しみと絶望が胸の奥で込み上げて来てこの現実を凌駕し、理性的な判断を以って自己を規律し正しい信念に向って強く生きる等と言う夢も希望も戦争の野蛮さで奪われ、堕落し荒んだ男になり、遂に審判慮罰の日が来た』

生々しい戦争の傷痕と人生の悲哀を宿した陰影を宿した想いで言った。山下は熱心に同病者同士が相憐れみ慰め合う心情になり

『全くだ。人の運命は計り知れない。私も戦争で狂わされた一人だ。君、聞いてくれるか?私の運命(はなし)を』

十年来の知己の様に打ち解けあい、胸の奥で蓄積されている己の不安や秘密を隠せない表情で、男は眼を輝かせている。朝鮮半島で暖流と寒流が交わり日本海随一の鯵の漁獲場となっている慶尚北道浦項町付近で生まれ、徴用により樺太へ連れてこられここで終戦を迎え村役場の通訳になった。
知合いも増え縁談話が持ち上がるも金が無く、結婚費用の為に強盗殺人。
山下は犯行の経緯を打ち明け勇気が出たのか、思い出すまま犯行を語り、神前に懺悔する様に男に全てを語った。
何かを見極めようとする男の視線と意味ありげな笑みを見落として

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