第壱章・二房の杜若(続)

 まだ顔も知らない父親に関心を深めるようになった我が子の成長を感心するともなしに見つめながら、今まで身に耐えきれぬ程の苦労に耐え抜いてきたその生き甲斐を感ぜずにいられなく、その想いが涙となり留まることなく後から後から流れ落ち目元を熱く濡らす久子であった。

『久子、これはご先祖様の庇護だぞ。ほんに挫けぬ、挫けぬ!』

徳治は同じ言葉を繰り返しながら寝間の襖を開き正面に安置している仏壇の前にぬかずいた。久子もそっと立ち上がり

『さあ~広光もおいで』

広光の手を引いて仏壇の前にそっとぬかずいた。
徳治は封書を供えて、真新しい位牌を手にし

『婆さんこれ、光男からの手紙だよ。これもお前さんの庇護の御蔭だよ』

向かいに座っている人に語りかけるように、今年の春まだ残雪の散在する四月の末。光男の安否をを口にしながら死んでいった妻の位牌と在りし日の写真を見比べながら感傷深げに瞑目した。

『お父さん、この手紙は夫が一緒に帰った様な気がしません。私には夫が帰ってくる合図の様な気になるんです。本当にどれほど安堵したことか。本当に良かった・・・本当に』

本当に久子はそう思い。徳治は

『そうだ!そうだとも、光男の事だ、必ず元気で帰って来るさ!』

喜びを満面に表し相槌を打った。やがて三人は涙に濡れる手を神前に合わせ

『神様、光男が無事帰るように加護してください』

細井家は明るい希望に満ちていた。その頃アニワ食糧公団倉庫より一台の馬橇が食糧箕物を満載して夜の繁華街へと姿を消そうとしている。その馬陰をニーナの夫、アキーム・アブラモフがじっと消え行くまで見守っていた。

『“どうやら成功だな”』

一人呟きながら人気の退けた倉庫事務所に戻ってポケットに捻り込んでいた札束を掌(て)にし、不安から解放されたように笑みを浮かべながら帰宅の途に付いた。そのころアブラモフ宅ではスープ鍋をペーチカから食卓に移しパンと肉缶詰、バターを食卓に運び夕食の膳を調え終えたニーナ婦人が、ペーチカ傍の椅子に腰を下ろし編み掛けの靴下を編んでいた。

『“こんなに編んだのにまだ帰らないなんて今日は如何したのかしら
あら、来た、来たらしわ”』

戸外でふとかすかな物音がした。
急いで玄関の扉を開いて見たが誰もいない。氷の様に固くなった雪の街路を歩む人馬の音が、ギッギッとニーナの耳に虚しく響いてくるだけ。

『“あら、耳のせいだったのかしら?居間に戻り又靴下でも編もう・・・”』

静まりかえった室内に秒針を響かせいる時計の音が気になり、ニーナは編物に集中する事ができず落ち着かない。針は刻々と刻んで短針は十時、待つ身の長く重苦しい苦痛に耐えているとやがてアキームが帰って来た。

『“お帰りなさい私心配したのよ、如何してこんなに晩くなったの?”』

『“ごめん、お金を都合するために晩くなったんだ”』

『“まあ~そうでしたの、で、お金の都合ができまして?”』

『“うん、やっと都合してきた。これだよ!”』

アキームはポケットより札束を取り出してニーナに渡した。

『“まあ、良かったわ”』

ニーナはアキームの出した紙幣を数え出した。

『“24500、25000、25000ルーブル、誰から?誰からこんな大金を?”』

『“う~ん、まあ良いではないか。明日早速送金してやるといい。”』

『“本当ですの、それじゃあ御承知して下されるのね”』

アーロンはニーナの心にこの上なく明るい希望を灯してくれた。ニーナの両親は本国のコーカサスを臨むアルマヴィルにあるコルホーズ(集団農場)で20年働いていた。ところが大祖国戦争(独ソ戦)と労農民警監察総局の度重なるノルマで健康を損ね、臥床する日が多くなって来た。そんな訳で母は息子と離れ暮らす事が心寂しく、アルマヴィルから息子の住むサハリンのアニワへ移住する為の旅費を送金して欲しいと言う母からの便りがアニワ警察署に務めているアンドレイ・バルイシェフ警察中尉の所に届くも、貯えの乏しいアンドレイはこの便りに応えるのは難しくたった一人の姉ニーナと義理の兄、アキームの所に数日前に訪れ、アキームが母の移住旅費としてニーナに渡したお金である。

『“では早速明日送金するわ、私本当にこのお金の事を心配していたのよ、貴方はやっぱり力があるのね、これで両親がアニワに来る事が出来ると思うと嬉しくて!本当にありがとう・・・”』

両親と別れはや5年のニーナ、この間は兵馬倥偬(ヘイバコウソウ)の一時に過ぎ去ったと言える今、桃源の平和を楽しむ時が訪れた。アーロンは元衛生曹長、ニーナは衛生伍長で彼等は陸軍病院で相思相愛の仲になり恋愛の末、故郷で彼女の帰還を待っている野中の一本木の様に四辺に身寄りのない両親とアキームとの間で悩み、その心情を察し尽くした弟アンドレイの奔走で二人はサハリンで現地除隊をし、アニワで結ばれ現在の職に就いた。
両親の一族は十月革命の際の混乱でエステルにより断罪され殺され、両親はこれを免れるため処々を逃避行しこの間乳幼児であったニーナの姉と兄を亡くした。母はこの事を話す度に目に涙を浮かべ暗い表情になり、人生に深淵の悲哀を堪えたこの両親をアニワに呼び心からの孝養を尽くす事がニーナとアンドレイ姉弟の願いだった。

『“貴方、お腹空いたでしょう、本当に感謝しているわ・・・”』

『“いや別に、考えて見れば男って馬鹿者さ”』

『“あら、どうしてなの?”』

『“うん、お前の為に俺は生きている様なもんじゃないか、ふっふっふ!”』

『“もう~嫌な笑いね”』

ニーナは一寸戸惑いながら夫の顔を見て心から御苦労様と夫を労り、媚の含んだ眼差しで夫の顔を窺いながら食卓の上に置いてある缶詰の口を切りペーチカで温め直した。スープを食卓に移し夫に食事を勧め、食卓に着いた程無くニーナが

『“あら”』

二人だけの世界は誰かが訪れる音で破れ
扉の開く音と同時に弟、アンドレイが入ってきた。

『“サーシャ、よい所に来たわね”』

ニーナの表情が数年ぶりの喜びに満ちた姉に感じられ唯、漠然とした期待感がアンドレイを微笑ました。

『“良いときに来たって何?赤ん坊でも出来たの?
それともなにか御馳走でもしてくれるの?”』

そう言いながらアンドレイは食卓を一暼した。

『“んもう、そうじゃないのよ、お金よ、お金。
この間から心に懸けていたあのお金がやっと都合出来たのよ。”』

このお金の事で姉の家に訪れたアンドレイである
自分の期待が的中していた事を喜び視線をアキームに向け

『“やあ!どうも義兄さん、こんなに早く出来るとは思いませんでしたよ”』

アキームは今晩の出来事をそっとアンドレイに囁き
それがニーナの耳にも届き、夫の言葉に驚愕して

『“やはりそうだったのね、私、嫌よ・・・”』

『“心配する事は無いから大丈夫だ。
なに、日本人の言葉の余り通じない者を利用して、明日の食糧受領者の日本人馬夫に渡す数を渡さずに、渡した事にしたのさ。犯人は日本人さ”』

『“でも私なんだか妄想に近い計画に思える”』

アンドレイがニーナに

『“姉さん、そんな心配無用だよ”』

サーシャ自体周到な計画を既に成算しているのか
剃刀の様な険しい表情を眉の間に閃かしている。

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小説・哀歓の虹

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