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にしん街道を巡る旅
日本海オロロンラインのにしん街道碑と番屋‼

オロロンラインのにしん街道碑

オロロンラインは石狩市から稚内市までを結ぶ海岸沿いの国道沿線の通称で、共通しているのはにしん漁で発展してきたという歴史を共有していることでしょう。現存する最北のにしん番屋は礼文町まで、にしん漁で一喜一憂した時代がありました。

石狩元小屋 運上屋棟弁天歴史公園MAP

弁天歴史公園 運上屋棟かつて横町の辺りにあったという石狩場所元小屋(運上屋)を、旧ヨイチ運上屋を参考に下見板張りの壁と石置き柾葺き屋根の建物として現代風に縮小・再現し、観光案内所(観光協会事務所)となっています。元小屋とは石狩川および支流に設置されたイシカリ十三場所の元締めである事から、元小屋と呼ばれていたが普通は運上屋(会所)と称した。明治の初めは石狩本陣とも称していましたが、場所請負制廃止でその役目を終えます。石狩場所請負人であった村山家は屋号を「阿部屋」といい、最盛期は三代目伝兵衛の頃で東蝦夷地11場所、西蝦夷地7場所を請け負っていた。1706(宝永3)年に宗谷、留萌場所のほか石狩場所を請負、1806(文化12)には石狩十三場所を請負うが、6代目伝兵衛の時に場所請負制度が廃止され一漁場の経営者となる。石狩場所は鮭場で基本的にはニシン場でないが、他の請負場所にはニシン場が有るので掲載した。雇漁夫もニシン漁を終えると鮭場に行く人も多かったようです。ここで働く漁夫を「石狩ヤンシュウ」と呼んだとも云うが、ニシン場の「ヤンシュウ」と同じで侮蔑的な意味合いもあり漁夫達には使われなかったようです。◇所在地:石狩市弁天町38 弁天歴史通り ◇G.Maps:43.247900, 141.353579

弁財船投錨地の碑MAP

弁財船投錨地の碑アツタ場所最初の場所請負人は阿部屋とされ文化7(1810)年頃より松前の浜屋与三右衛門、天保から弘化にかけて宮川増蔵、嘉永5(1852)年より場所請負廃止まで浜屋与三右衛門となっているようです。運上屋は元々アツタ(厚田川口)に有ったがオショロコツ(押琴)に移転したと云い、安政5(1858)年頃より和人が定住してから本格的な漁場開拓が始まり、江戸期末期から明治初期の頃迄は厚田の中心地だった。押琴の入江には当時の地図にある弁天のソリと中瀬(Googleマップの航空写真でみえます。)と呼ばれた水中の張り出し岩礁の間にあったというが、今のオショロコツには人家の痕跡もない。当時は陸路はなく唯一の交通手段は弁財船など海路によるものだった。松前武四郎の「西蝦夷日記」でオショロコツの項によれば、和人は1万人もいたとなっているがこの狭い湾内に1万人は無理そうだが、厚田全体で見るならオーバーな数字ではなさそうだ。また蝦夷日誌に「弁天社運上屋の上にあるなり」とあるが、今は元押琴弁天社の手水鉢、唐獅子は八幡神社に再設置され、龍沢寺に村山伝兵衛が寄進したという鰐口があり、アツタ運上屋からの文化遺産が残されている。◇建立者:旧厚田村 ◇所在地:石狩市厚田区厚田区古潭50 ◇G.Maps:43.357140, 141.427937

厚田村発祥之地碑MAP

厚田村発祥之地碑厚田村発祥の地碑が弁財船投錨地の碑と並んである。約300年前から和人が往来し明治時代から昭和初期までニシン漁で栄え、最盛期の明治14(1881)年には人口は1万2000人を超えたというもニシン漁の衰退で過疎化が進んだ。運上屋が置かれたアツタ場所の拠点であった押琴・古潭地区に明治3年1月に開拓使厚田出張所(旧厚田運上屋を使用)が古潭村に設置され行政の中心地となった。また開拓使出張所が廃止された年に三面山龍澤寺に運上屋が払い下げられ、今も同所に三面山龍澤寺があることからアツタ運上屋は厚田運上屋は古潭側にあった事になる。維新後も厚田行政の中心地だったが開拓使出張所が廃止され交通網の整備と共に中心街は厚田に移っていった。◇建立者:旧厚田村 ◇所在地:石狩市厚田区厚田区古潭50 ◇G.Maps:43.357140, 141.427937

にしん街道標柱石狩市厚田区MAP

にしん街道標柱・石狩市厚田説明板より転載しました
「あつた」の地名は、歴史を遡ると松前藩の「新御国絵図」(寛文元年1661年)に見ることができます。また、天保11(1840)年以降は増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになりましたが、それまでは厚田場所が西蝦夷地の北限でした。「にしん」の北上とともに松前、江差方面の漁夫も北上し、松浦武四郎の「西蝦夷日誌」(嘉永三年 1850年)オショロコツ(押琴)の項によれば、訪れる和人は1万人もいたとされています。押琴の泊は、弁財船(千石船)が三十隻も停泊できる良港で運上屋も建てられ、古潭、押琴一帯は大変な賑わいを見せたといわれています。「にしん」は魚偏に非ずという字を書き、米の取れない蝦夷地では米(と同様の価値)であるという意味で、単位も米と同じ石が用いられたといいます。厚田が再び「にしん」で群来ることを願い、往時の繁栄と記憶を後世に引継ぐとともに、新たな観光ルートとして確立し、地位の活性化につなげるため、この「にしん街道」標柱を設置します。◇設置月:平成20年7月吉日横 ◇設置者:社団法人石狩観光協会横 ◇所在地:石狩市厚田区厚田12番地4横 夕日の丘駐車場横 ◇G.Maps:43.403193, 141.430939

豊魚記念碑MAP

豊魚記念碑明治24(1891)年に建立された碑で、碑文は風化で判読困難だが一部を転載『明治廿四年ノ鰊漁期タルヤ風伯暴威ヲ震ハズ海神怒ヲ發セズ為?ニ漁夫??ノ念ナク楽シテ海上ニ其業ヲ執ルヲ得 一名ノ災害ナキノミナラズ本郡開闢以来未曾有ナル五萬石餘ノ捕獲ヲ得タルハ偏ニ天資神護ノ為ス処ニシテ漁業者? 者誰カ其神恩ノ廣大ナルヲ感戴セザルモノアランヤ』簡単に言うと明治24年は風神が暴威を振るわず海神は怒らず海が穏やかで村始まって以来の五万石(375百屯)の漁獲量が有った。是を記念して建立されたのが豊魚記念碑で、今の貨幣価値に換算すると約375億円という漁獲量になり、厚田がニシン漁を中心に発展し最も活気があった時代を伝える碑です。ニシン漁で石数が刻まれた碑は他に知らないが、江戸期から蝦夷地の産物は鰊、昆布、鮭などの海産物で特に鰊は松前藩の経済基盤を支えた主要産物でした。米の取れない蝦夷地では米(と同様の価値)であるという意味で、単位も米と同じ石が用いられたという。生ニシン1石=200貫=750kg、生ニシン3千尾(中型で4千尾)が目安、鰊が良く捕れる漁場は千石場所とも言われた。ちなみに鮭の1石は40尾という。本当に米がとれなかったかというと疑問で、北斗市にある「北海道水田発祥の地碑」では元禄5年の開田で米の収穫に成功しているとあり、松前藩では経済基盤を支えるニシンが採れているので米を作らせなかったといえるのかもしれない。幕末から明治初めはコタンが厚田の中心地でしたが、明治24年当時は厚田に中心が移っていたようです。◇建立年:明治24年  ◇建立者:厚田村有志  ◇所在地:石狩市厚田区厚田 厚田神社参道 ◇G.Maps:43.400929, 141.433703

旧佐藤家住宅戸田旅館MAP

旧佐藤家住宅 厚田・安瀬出身の佐藤松太郎氏は当時の漁業長者番付表では東の横綱の地位を占め石狩から厚田、浜益の沿岸に99ケ所あった漁場のほとんどを所有していたという鰊漁場の親方で実業家でもあった。また厚田小学校改築に当たり一万三百円寄附するなど、教育や村のために資金を提供したと云い、道会議員も努めたが大正7年に小樽の別邸にてスペイン風邪で他界した。鰊漁で財を成した佐藤松太郎氏が明治37年に厚田に母親の隠居宅として建築した建物で明治の面影がみられる。建物正面は改変が著しいが玄関は鰊番屋かと思うような造り、側面は建物本来の様子を残しかつて鰊の大漁で沸いた栄光のおもかげが漂っている。現在は旅館として使用されており内部は非公開です。見てみたいという方は宿泊を!! ◇築設年:明治37年 ◇所在地:石狩市厚田区厚田5 ◇G.Maps:43.397624, 141.433174

旧木村家鰊番屋漁家住宅MAP

濃昼の旧鰊番屋明治33年に建てられた築115年の旧木村家ニシン鰊番屋、以前は「濃昼茶屋」という料亭として活用されていたそうで、内部は一部改装されているようですが、今は誰も住んでいません。外観は他の鰊番屋とは趣がかなり違う印象、かつてケムリダシの両端に洋風の棟飾りが付いていたというが今は見られません。このケムリダシは残存する鰊番屋の中では最大かも、いまは建物の再利用を検討されているようです。番屋は1度放火された事があり、地元の方は人が住んでないので放火などによる火災を心配していた。◇築設年:明治33年 ◇所在地:石狩市浜益区濃昼 ◇G.Maps:43.478753, 141.391205

にしん街道標柱石狩市浜益区MAP

にしん街道標柱・石狩市浜益区説明板より転載しました
『浜益はアイヌ語で「ヘロカイリシ」(鰊が沢山獲れる所の意)と呼ばれていたほど、古来から「にしん」の漁場として知られていました。江戸時代後半には「にしん」のシメカスが関西方面に運ばれ、木綿や菜種の栽培を支えました。明治から大正時代は、浜益の「にしん漁業」の最盛期で、道内屈指の漁場として建網は454を数えました。しかし昭和30年を最後に「にしん」は突然姿を消し、当時の「にしん番屋」が「はまます郷土資料館」としてその名残をとどめているのみです。近年、浜益をはじめ石狩湾沿岸では「にしん稚魚放流事業」が行われており、資源の回復に期待がかかります。浜益が再び「にしん」で群来ることを願い、往時の繁栄と記憶を後世に引継ぐとともに、新たな観光ルートとして確立し、地域の活性化につなげるため、この「にしん街道」標柱を設置します』平成20年設置。浜益と濃昼に旧鰊番屋がありますが、活用されていいるのは旧白鳥家番屋だけ、同じ公園にある浜益100年記念碑は昭和46年の建立。◇所在地:石狩市浜益区浜益630番地1 浜益中央公園内 ◇G.Maps:43.599868, 141.383871

はまます郷土資料館旧白鳥家鰊番屋MAP

旧白鳥家鰊番屋説明板より転載「この建物は、もと(屋号)白鳥家が経営した鰊建網漁場の番屋で、明治32年に建てられたものです。鰊漁の歴史とともに歩んだ番屋も、昭和30年以降の漁の衰退によって放置され、崩壊寸前にありました。昭和46年浜益村は、開村百年の記念事業としてこの番屋を修復・復元し浜益村郷土資料館としたものです。管内には当時、鰊漁場に使用された漁道具を主体にその中で生きた人々の知恵や技術を正しく伝える数々の資料を展示し、郷土の文化遺産を明日への浜益へ受け継ぐ資料館として一般に公開しています。」水産庁の『未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選』に選ばれている。安政3(1856)年に浜益に来住した白鳥栄作は場所請負人の下請負で鰊漁業経営を始めた。栄作の後を継いだ白鳥浅吉は漁業の拡張をはかり、狭くなった番屋を明治32(1899)年に新築したというが、これより20年も前に建設されたという説もある。鰊漁場の中心施設である番屋建築は親方用と傭漁夫用の異なる性格をもった空間を一つの建物内に併存させた特異な建築物で、俗に「鯡御殿=観光用の造語」と称される漁家建築です。展示内容は番屋内部の実生活のほか、網おこしから鰊の処理、働く雇人の仕事の様子など鰊漁場の姿が総合的に理解できるような構成で一般公開されていいますが冬期は休館。◇所在地:石狩市浜益区浜益 ◇G.Maps:旧白鳥家鰊番屋

旧高橋家番屋増毛消防団第五分団

旧高橋家番屋石狩市浜益との境になっている毛町雄冬市街地にあり民宿として利用されていたが解体されたようで、現在は同地に雄冬生活改善センター及び増毛消防団第五分団の建物として再現され、下階が消防団の車庫になっている。再現と云う意味では内部は別物と思われ外観は似ているが同じなのは煙出しだけのように見える。公開施設ではないので外観のみ見学可能。増毛町に近年まで存在していた伊達家ニシン番屋は解体されたようで更地になっていた。◇所在地:増毛郡増毛町雄冬43-1 ◇G.Maps:43.737332, 141.338647

銀鱗の滝

銀鱗の滝岩肌を滑り落ちるように流れる滝で、黒岩トンネルの直ぐ横(岩老側)にある。名前の由来はこの滝の近くにニシン番屋があった頃、漁を終えた猟師がこの滝で衣服を洗い、ニシンのウロコで銀色に光ったという説話から。国道工事で滝の大きさが変わってしまった。高さ約10m、幅3mくらい 所在地・増毛町岩老 黒岩トンネル横、近くに駐車公園あり。◇所在地:増毛郡増毛町 岩尾 ◇G.Maps:43.789990, 141.372700

にしん街道標柱増毛町MAP

にしん街道標柱・増毛町説明板より転載
『増毛町の「にしん漁」の始まりは宝永3(1706)年、松前藩 下国氏がマシケ領を知行していた頃とされています。江戸中期(1750年頃)松前の商人村山伝兵衛がマシケ場所を請け負っていた頃には、松前地方に於ける「にしん漁」が不漁となり、石狩場所までの漁場が許され、この頃の「にしん」は身欠き鰊や数の子として食用に供されてはいたものの僅かで(農業?)への肥料として主に使用され、内地からの需要も増しつつあったため、〆粕・肥料として生産されていました。安政年間(1854~1860)では極端な不魚が続いたためにしんを求めて北上が続き、明治に入り「にしん漁」も増毛、留萌、天売などに漁場の中心が移ってきました。また、漁業技術も刺し網から建網(角網)へ、船も□船から大型船へと改良され「にしん漁」も飛躍的に発展しました。往時の資料から大正中期~昭和20年代にかけて増毛の「にしん」漁獲高は全国一位を誇っていましたが、昭和28年を境に「にしん」漁獲高が激減し、昭和33年を最後に増毛の「にしん漁」の隆盛も終焉を迎えました。この標柱は「にしん」で栄えた日本海沿岸地域が歴史と伝統を後世に引き継ぎ、地域の活性化に繋げる証してして設置したものであります。』旧式の大砲モニュメントがある秋田藩元陣屋 第二台場跡・陣屋展望台に「にしん街道」の標柱がある。前は暑寒別川河口で川を挟んだ対岸は海水浴場、秋には遡上する鮭の観察も出来る。◇設置月:平成23年9月吉日 ◇設置者:増毛町・増毛町観光協会 ◇所在地:増毛町別苅1 台場跡 ◇G.Maps:43.854492, 141.509652

旧商家丸一本間家商家建築MAP

旧商家丸一本間家呉服商に始まり鰊漁の網元、海運業、酒造業を営んでいた旧商家丸一本間家だ。かつてこの地に丸一本間家が雑貨店を経営していたが1880年に火災で焼失。しかし呉服店舗、雑貨店舗、酒造蔵、居宅倉庫などを次々と建築し、1920年には現在の姿となった。その建築様式は切妻瓦葺きに軟石張りで屋根瓦の一枚一枚には家紋が彫り込まれ壁面や門柱には洋風の装飾が施され、和風の伝統様式に洋風の技術や意匠を取り入れた建物となっており、2003年には国の重要文化財にも指定された。増毛町では1997年にこの建物を増毛町文化財と指定し建物を復元、2000年からは建物内部を一般公開している。木骨石造りの呉服店舗と呉服蔵があり、その間の玄関を入ると、軟石を敷き詰めた通り庭の奧にコの字型で天井の高い木造平屋建ての居宅と木造一部三階建ての付属家など計5棟あり、590平方m2の広大な床面積の建物内部を見学できる。◇所在地:増毛町弁天町1丁目27 ◇G.Maps:43.857867, 141.525191

国稀酒造MAP

国稀酒造町中にある日本最北の酒蔵で増毛でニシン漁に働く雇漁夫の為に1882年から、増毛で酒造りを始め今に至る。酒蔵は見学可能でいくつも並んだ巨大な貯蔵タンクや重厚な扉の石倉でできた資料室には酒造りに使用していた道具や酒器、そしてこれまで販売されたお酒の各種が展示され、試飲コーナーでは全種類のお酒を試飲できる。◇所在地:増毛町野塚町 問い合わせは国稀酒造迄 ◇G.Maps:43.857958, 141.523071

千石蔵のニシン船MAP

国稀酒造のニシン船千石蔵というより国稀のニシン船という方が一般的かもしれない。石蔵には丸一の屋号が見えるので旧商家丸一本間家の石蔵とわかる。増毛はニシンの好漁場「千石場所」として賑わったが増毛は道内有数の漁場として留萌地域の商業の中心地として栄えた。現在も続く旧商家丸一本間家はニシン全盛期に増毛で財を成した商家で、酒造業や呉服服、雑貨商など多角経営でニシン漁も営み、その時代に使用た倉庫が千石蔵。元々は増毛港にあり漁具の保管に使用していたが大正年代の港拡張に伴い現在地に移転。現在は夏季のみ無料開放している。ここでは明治から大正、昭和の初期にかけてニシンの千石場所として栄えた当時に使用された、増毛で考案された「ダルマハギ」という構造をもつ大型のニシン船2艘のニシン船が保存されている。貴重なニシン船で彩色まで鮮やかに残っているのが珍しい。またニシン魚の仕組みを模型で併せて展示しているので、ニシン魚の様子がよくわかる。◇所在地:増毛郡増毛町稲葉海岸町 ◇G.Maps:43.858435, 141.524862

増毛運上屋跡MAP

増毛運上屋跡松前藩の商人、村山伝兵衛が松前藩より1751(宝暦元)年に増毛場所を請負、増毛に出張番屋を設け、1840(天保11)年以降は増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになり、その頃から和人が定着が増えていったようです。出稼ぎは蝦夷地を代表するニシン番屋で、増毛も「ニシン場」として栄えてきた町のひとつ。比較的古い歴史的建造物が多くその中心にあったのが「運上屋(宝暦5年開設、明治4年廃止)」でした。増毛運上屋跡を示す遺構はありませんが、港町市場の建物の前(遠藤水産)に史跡標柱があります。場所請負制の廃止にともない運上屋は廃止され、明治政府に引き継がれた時の場所請負人は伊達林右衛門でした。◇所在地:増毛町港町4-26 ◇G.Maps:43.855959, 141.528564

旧石田家番屋漁家住宅MAP

旧石田家番屋国道231号を留萌市街地方向から道道94号へ左折し、阿分発祥の地の標柱の近くにある2階建ての赤い屋根が特徴の番屋住宅ですが、一見して番屋住宅には見えない。明治中期の築で、母屋が現在も住宅として使われている。個人住宅であり非公開なので敷地外から外観のみ見学可能となります。近年まで伊達家の鰊番屋が別苅にあったが解体されてしまったようです。旧石田家番屋の近くに阿分発祥の地碑がたっている。◇築設年:明治中期 ◇所在地:増毛郡増毛町阿分46 ◇G.Maps:43.882056, 141.592862

旧関家鰊番屋漁家住宅MAP

旧関家鰊番屋旧佐賀家のにしん番屋から数百m増毛町寄りの国道沿いにある豪壮な造りで一目で番屋とわかる。寄棟・平入・平屋のようで中規模の鰊番屋ですが、現在は住居として使用され一般公開はされていない。明治25(1892)年に岩田貞次郎が鰊番屋として建築し後に栖原家の所有に代わり、明治38(1905)年頃に関家の所有となった。当時の留萌、増毛は鰊の千石場所と呼ばれ、道内の鰊漁獲高の常に1割以上を揚げる好漁場であったという。関家は明治35年頃に礼受村で鰊建網漁業の権利を買い親方となったが、昭和31(1956)年には鰊漁から撤退し流し網漁へ転換、昭和63(1988)年より住居として使用され現在に至る。鰊漁家建築の形態にも地域性があるというが増毛地方では従来のケムリダシではなく三角形のトップライトだったり腰折れ形式の屋根などがあり、昭和になってから建てられた番屋は機能性を重視し装飾的な要素は少ないシンプルな建物になるという。◇築設年:明治25年 ◇築設者:岩田貞次郎 ◇所在地:留萌市礼受町 ◇G.Maps:43.906402, 141.612326

にしん街道標柱留萌市MAP

にしん街道標柱・留萌市説明板より転載
『ここ留萌は「にしん漁」で栄えた北海道日本海沿岸の町です。江戸時代の天保11(1840)年に当地への出稼ぎが解禁されると漁獲量も飛躍的に増加し、明治30年頃には全盛期を迎え、それ以降昭和30年まで百年以上の長きにわたって繰り返された「にしん漁」は留萌とは切っても切れない縁で結ばれることになりました。北海道の日本海沿岸各地で行われた「にしん漁」は、江戸時代から日本の経済を支えた主要な産業ですが、往時の栄華を偲ばせる原風景は歳月と共に失われつつあります。かつて「にしん漁」が行われていた各地を結び「にしん街道」とすることで、先人が作り上げた「にしん文化」を後世へと伝えるため、この標柱を設置したものです。』標柱は佐賀番屋入り口にある。◇設置者:北海道留萌市礼受町 史跡:佐賀番屋敷地内 ◇G.Maps:43.913961, 141.617378

旧佐賀番屋国指定史跡MAP

史跡 佐賀番屋往時のニシン漁場景観がそのまま残されたにしん番屋で国指定史跡。ここで使用された漁撈具も多数保存され、そのうち3745点が重要有形民族文化財にも指定されています。佐賀番屋の説明板より「佐賀家漁場は江戸時代の弘化元(1844)年に佐賀家八代平之丞が留萌で初めて礼受にニシン漁場を開き、それ以来昭和33年まで113年間にわたってニシン漁を営んできた漁場です。佐賀家は最盛期には12ヵ統のニシン建網を経営していましたが、礼受のこの場所は元場と呼ばれて佐賀家の留萌における根拠地として代々受け継がれてきた場所です。史跡として指定された地域は佐賀家漁場のうち、主として漁場施設が現在まで保存されてきた地域です。現存する施設は江戸時代から明治初頭にかけての建造と考えられる母屋(番屋)、明治36年建築の製品を保管しておくトタ倉、船を収容しておく船倉、網を収容しておく網倉、沖揚したニシンを一時貯蔵しておく廊下、漁場の守り神である稲荷社などです。また、船着き場、ニシン粕の干場、ニシン粕を炊いた竈跡があり、往時のニシン漁場の姿をよく残しています。佐賀家漁場には重要有形文化財に指定された留萌のニシン漁撈(旧佐賀家漁場)用具(平成7年12月26日指定)及び多数のニシン漁業経営関係文書が残されており、総合的には往時のニシン漁の実態をみる事ができます。留萌教育委員会」※残念なことに建物内部は見学できない。留萌官内最古の鰊番屋であり場所請負人の下請負としての漁場経営から始まったと思われる。番屋の建物にはケムダシがなく望楼もないシンプルな形で母屋と呼ばれている。建物の豪華さや規模は余市の福原漁場に及ばないが、敷地の広さでは佐賀番屋の方が圧倒しているようです。◇所在地:北海道留萌市礼受町 ◇◇G.Maps:43.913961, 141.617378

にしん街道を巡る旅・日本海オロロンライン-ミニギャラリー

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