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にしん街道を巡る旅
追分ソーランラインのにしん街道碑と文化遺産‼

にしん街道碑と文化遺産

ここでは追分ソーランラインエリアの積丹町、古平町、余市町、小樽市にあるにしん街道碑やニシン文化遺産(主に建築物と関連施設)を紹介しています。ニシン文化施設の半分はこの地域にあると云っても過言ではない。

ソ-ラン節の古里積丹の碑MAP

積丹ソーラン節故郷碑2ソーラン節の故郷を自認する積丹町にはソーラン節の碑が2ヶ所あるが美国町と合併する前は国道229号線沿いで神威岬から5kmほど南の沼前駐車公園にあるこの碑だけだった。ただこの碑は正確には積丹国道の開通記念碑でありソ-ラン節とは歌っているが、ソーラン節の故郷積丹の入り口という意味合いで見ると良さそうです。かつてはソーラン節の本家争い(爆)があったのかもしれないが地域おこしや観光の一助になればと願うのみ。はっきりしているのは神威岬を眺められるロケーションの素晴らしいということです。◇所在地:積丹町神岬町 沼前駐車公園 ◇G.Maps:43.287071, 140.348055

しゃこたん場所 運上屋跡史跡標柱 積丹町MAP

しゃこたん場所 運上屋跡シャコタン場所は1706(宝永3)年に初めて置かれ、シャコタン(志屋古丹)場所請負人が置かれたのは1786(天明6)年で、知行主は藤倉八十八、請負人は福島屋金兵衛、1818(文政元)年~場所請負制度が廃止される迄は「岩田金蔵」が請負人で蝦夷日誌にもその名がある。シャコタンの漁場も江戸時代からニシン漁が中核で場所請負制度が廃止されるまでは場所請負人がシャコタンの漁場を仕切っていた。積丹は神威岬から北は江差追分節に「女通さぬ場所がある」とあるように女人禁制とされた海上交通の難所で、日司より小泊への陸路は岩田金蔵が開いたという。この辺は早くから和人の進出があったようで神社の創建は古いのでは1600年代という。◇所在地:積丹町日司町 ◇G.Maps:43.354336, 140.464861

しゃこたん場所 運上屋出張所跡史跡標柱 積丹町MAP

しゃこたん場所 運上屋出張所「海辺の宿・運上屋」の角地に「しゃこたん場所運上屋・出張所跡」の史跡標柱がある。積丹はニシン漁場として江戸時代から栄えた所で、本陣や脇本陣は鰊漁の中核施設だったのでしょう。場所請負制度は明治2年に廃止され、北海道宿駅制の研究の明治前期編で「岩田某宅にて駅努を扱う」と有り駅逓の記録がある。明治4年に岩田金蔵が駅逓取扱人に任命され明治20年に野塚に移転、明治21年に野塚駅逓所と改称するが同年4月に人馬継立所(民営化?)されたようで廃止年は不詳。「海辺の宿・運上屋」は元シャコタン場所請負人だった岩田金蔵がニシン漁が衰退した後に運上家の脇本陣(駅逓舎?)として建てられた施設を利用し旅館業をはじめたのが元という。脇本陣は北海道では本陣(旧会所)以外の通行屋(駅逓)や番屋などの事が多い。◇所在地:積丹町来岸町42 ◇G.Maps:43.330556, 140.394857

旧斉藤家鰊番屋跡島武意海岸

旧斉藤家鰊番屋跡島武意海岸トンネルを抜け九十九折れの急坂を下ると石垣で囲まれた台状の平地があるが、これはヤマカギ(屋号)旧斉藤家のニシン番屋跡地。旧斉藤家の初代、斎藤彦三郎氏(1831~1907)は、鮭魚で使用されていた角網を改良し二代目秋元金四郎とともに定置角網(建網)の開発に成功、嗣子 丈雄は、入舸・余市に計19統を持つ大漁業家となった。その斎藤丈雄の名前が石垣に埋め込まれたプレートに残されている。島武意海岸の素掘りトンネルはニシンを運ぶため明治28年に開削されたトンネルで、ニシンを背負い急坂を登るのは肉体の限界を超える作業だったのかもしれません。島武意の海岸線を航空写真でみると斉藤家の他に番屋が二つあったような痕跡が見える。積丹ブルーの海に隠れた鰊場の遺構です。◇所在地:積丹郡積丹町島武意 ◇G.Maps:43.373086, 140.477544

にしん街道標柱積丹町MAP

にしん街道標柱・積丹町にしん街道の説明板より転載
『積丹の地名は、アイヌ語のシャクコタンから転訛したもので「シャク」は夏「コタン」は部落又は集落のことで「夏の場所」という意味である。

宝永3(1706)年に積丹場所と美国場所の運上屋が設けられると、両場所は次第に漁場として開発されるようになり、その後、明治中期には鰊漁が最盛期を迎え、海が鰊の大群で銀色に染まるほどだったと言われている。鰊大漁と共に人口も増加し、大正6年には11,735人を数えた。鰊が人々の定住を促し町を形成し、文化、歴史を育んだ。

エーヤーレンソーランソーラン ソーランソーラン(ハイハイ)
 エ大島コジマは兄弟島よ エなぜにゴメ島はなれ島チョイ
 エ離れ島でも時節が来れば エ春はかもめが群れ遊ぶチョイ
 エ大漁手拭いキリリとしめて エ一夜千両の網起こしチョイ
 エかもめどこ行く子供つれて エ鰊大漁の美国までチョイ

鰊漁の作業歌でもあった沖揚げ音頭(ソーラン節)の歌詞が、往時の鰊の群来を物語っている。「にしん」に関係した日本海沿岸の各市町村において「にしんルネサンス事業」を展開することで、往時の繁栄された頃の鰊文化を再び蘇らせ、後世に引継ぐとともに、新たな観光ルートの確立など各地域での活性化に繋げる証として「にしん街道」の標柱をここに設置する。』◇設置年:平成18年11月吉日 ◇設置者:どっこい積丹冬の陣実行委員会

開拓初期の北海道で特徴的な事は資源略奪の嵐でありニシン魚も例外ではなかった。◇所在地:積丹町大字美国町字船澗48-5 ◇G.Maps:43.298455, 140.597669

ソーラン節 鰊場音頭のふるさと しゃこたん碑MAP

積丹 ソ-ラン節の碑北海道を代表する民謡「ソーラン節」は日本海沿岸部の民謡のふるさとであるとする。碑文より「鰊場音頭とは、ソーラン節を含めた代表的な四つの作業歌からなって降ります。一、船漕音頭 二、網起し音頭 三、沖揚げ音頭(ソーラン節) 四、子たたき音頭(イサカヤ節) この作業歌を伝承している積丹町鰊場保存会は、昭和五十六年度北海道文化財保護協会から表彰されております。」北海道で働く東北地方から鰊場来ている傭漁夫達は、網の中に入った鰊を大きなタモ(網)で救い上げるときに「そーら、そーら」と掛け声をかけるのが「ソーラン節」の元になったとも云われている。明治18(1885)年に斉藤彦三郎氏が鮭魚に使用されていた角網を鰊用に改良した鰊角網を使い成功を収めて積丹有数の漁場経営者となった。このことが契機となって積丹町をソーラン節の発祥の地として石碑を建立したというが、ソーラン節は行成網を使用していたときには既に唄われていたと思われ、大きな網を使用した時からとするのが自然と思う。碑はゴメ島(宝島)を望む海岸縁に建立されているが建立年月と建立者名が刻まれていない。◇設置年:昭和57年 ◇設置者:ソーラン節保存会? ◇所在地:積丹郡積丹町大字美国町字船澗370-1 ◇G.Maps:43.301292, 140.597429

旧福井家鰊番屋旧ヤマシメ邸MAP

旧福井家鰊番屋美国地区に残る鰊漁盛時の歴史的建造物と石蔵を遊歩道で結ぶ観光の拠点として旧ヤマシメ邸がある。旧ヤマシメ邸は明治39年頃から昭和20年頃まで鰊番屋として使われていたというが、大正初期に建てられた漁家建築ともいう。外観は切り妻、平入、下見板張で装飾も施され、内部は親方家族と漁夫の生活空間が中央の土間で分けられ、前者には欄間、座敷飾り、書院、長押しと格式に差が付けられている。小規模な建網漁業を経営する親方と約25人のヤン衆が共に生活した鰊番屋で、建網1ヵ統に要する雇用者数は25~35人程で、場所の自然条件で異なっていました。平成28年3月に改修工事を終えて「鰊伝習館ヤマシメ番屋」としてオープン、休憩スペース設けられカフェ併設です。回廊付きの漁夫の間はギャラリー等催事や体験学習等多様な交流可能の空間です。◇設置年:大正初期? ◇所在地:積丹町美国町船澗39 ◇G.Maps:43.297344, 140.601140

旧沢田家番屋漁家住宅MAP

旧沢田家番屋国道229号線を余市町から古平町へ向い新豊浜トンネルを過ぎて橋を渡った左側に鰊漁全盛時代の旧沢田家番屋がある。かつては横に美しい外観を持つ旧八反田家番屋が建っていたが火災で消失し、今は八反田家番屋と姿が良く似た旧沢田家番屋だけが残って居る。切妻・平入・2階建で一階は195.7平㎡、二階が56.1㎡と鰊番屋としては小規模のようです。鰊番屋建築の内部は向かって左側が傭漁夫達の居住スペースになる「ダイドコロ」、右側が親方の居住スペースという様式に則っているという。外観は鰊番屋風でも内部を見なければ鰊番屋とは断定出来ないことになるが、それで迷うほど残された古漁場建築は多くない。国道を挟んでセタカムイ道路防災祈念広場があり、トンネル崩落事故で亡くなられた犠牲者の慰霊碑があり、その奥側にセタカムイ岩が見える。◇建設年:大正7年 ◇所在地:古平郡古平町沖町 ◇G.Maps:43.253915, 140.682388

たらつり節発祥の地碑MAP

たらつり節発祥の地碑古平町役場と国道229号を挟んで建っている白い石碑。早い時期からニシン漁で栄えた古平町で「たらつり節発祥」はさすがに???でした。1955(昭和30)年頃を境にニシンの漁獲が激減しスケトウダラやイカ漁が行われるようになり、タラ漁に出た漁師達が船上で歌っていたという。この「たらつり節」は1957(昭和32)年頃に古平の漁師、大島豊吉氏と田村栄蔵氏が作ったという。函館東部の南茅部に伝わる「たらつり口説節」が下敷きになっているとのこと。1990(平成2)年以来 毎年秋に「たらつり節全国大会」を開催しているが、碑は第一回全国大会開催を記念して建立されたもの。◇建立年:平成2年 ◇建立者:古平町文化団体協議会 ◊所在地:古平町浜町 ◇G.Maps:43.265717, 140.639202

漁霊碑古平町MAP

漁霊碑古平漁協前に立ってる大きな碑で「千古を誇る蝦夷地の開拓は海道に始まり魚族に生きる人々に因って一歩を踏みだした」の碑文で始まる古平町開基100年の記念碑。鰊で栄えた町らしいと云えばそれまでだが、開基、発祥、開拓と名のつく記念碑は和人の歴史が全てであるかの様な碑文が多い。北海道では漁業の多くが場所請負という植民地経営方式で開拓されアイヌ民族の酷使を伴った歴史がある。農業では各地で農耕最適地からアイヌ民族を追い出した強制移住の歴史がある。敗者の歴史は埋もれていくがアイヌ語由来の地名を名乗っているのが唯一の救いか。◇建立年:昭和43年 ◇建立者:古平漁業協同組合 ◇所在地:古平郡古平町港町 古平漁協前 ◇G.Maps:43.271607,140.637209

ソーラン節発祥之地碑余市町MAP

ソーラン節発祥之地余市町豊浜の旧豊浜隧道坑口脇でローソク岩が良く見える所に碑がある。風化が進んで裏面に刻まれた文字は半分も読み取れないが「余市の石碑」と合わせて見ると「安政2年鰊枠網漁法発明され鰊沖揚げに合わせて唄われる民謡としてソーラン節この地に生まるユナイ場所キロクバッコ旧土人口伝」と刻まれてるようだ。昭和36年になって旧土人とは驚きで常識を疑うが、この話を伝えたとされるキロクバッコの存在は定かではないらしく詳細は不詳。ローソク岩のあたりで良く鰊が獲れていたこと、ローソク岩から定置網を張っていた事もありローソク岩が良く見える場所に碑が建立されたという。

ちなみに港町旧稲荷神社跡にある阿部引田臣比羅夫之像は北海道文化財保護協会理事今善作氏の主唱と資金提供で、沢町の鰊塚は今善作氏が同氏邸宅敷地内に建立、ソーラン節発祥之地碑はニシン漁場経営をする漁家出身の今善作氏の出身地である湯内に建立されている。◊建立年:昭和36年 ◊建立者:余市町 余市町教育委員会 余市漁業協同組合 余市町郷土研究会 ◊所在地:余市郡余市町豊浜町20 ◇G.Maps:43.248179, 140.709076

海難者慰霊聖観音像MAP

海難者慰霊聖観音像大正6年1月24日午前10時頃、朝は穏やかな日和だったのが天候が急変して猛吹雪に変わり、朝7時頃からカレイ刺し網漁に出かけた豊浜町の漁民41名、余市町全体では72名の犠牲者を出すという惨事となり、犠牲者の41人海難供養碑が豊浜町の墓地内に建立されたが風化で文字は消えている。昭和44年に豊浜町の有志が同年の事故とその前後に発生した水難事故の犠牲者を追悼する海難者慰霊聖観音像をソーラン節発祥之地の近くに建立している。観音蔵は古くは明治44年から昭和41年までにあった海難事故犠牲者を慰霊するものだといい、聖観音像横に御堂が建立されていた。。◇建立年:昭和44年 ◇建立者:豊浜部會一同 ◊所在地:余市郡余市町豊浜町 ◇G.Maps:43.242225, 140.707761

余市 鰊塚MAP

余市ニシン塚余市紅志高校グラウンド横の廃屋(旧今邸園=余市町指定文化財=敷地内)敷地内にある高さ4m以上という大きな碑。見える文字は「鰊塚」とその上に鰊と思われる陶板が埋め込まれている。風化が進んでいて他に碑文が刻まれていたのかは不明ですが、江戸時代から昭和初期まで鰊の千石場所として栄えた余市町の姿が垣間見えるような気がします。海岸から離れている旧今邸園に鰊塚が建立されたいきさつは不詳ですが、今善作氏の敷地内に建立されたのは、今善作氏が湯内でニシン漁場経営をする漁家出身であった事と無関係ではないと思われるが・・・。郷土史研究家で北海道文化財保護協会理事もあった今善作氏は阿部引田臣比羅夫之像の建立を主唱された人でもありました。◇建立年:昭和30年代 ◇建立者:今善作 ◇所在地:余市郡余市町沢町:旧今邸園 ◇G.Maps:43.194166, 140.764934

旧下ヨイチ運上家国指定重要文化財MAP

旧下ヨイチ運上家余市には余市川を挟んで上ヨイチ、下ヨイチと二つの運上屋があったが、現存しているのは下ヨイチ運上屋で松前藩が80ヶ所ほど設けた運上屋の中で唯一現存するもの。運上屋は竹屋林長左衛門が1853(嘉永6)年に建てたもので、江戸期の漁場建築、交易所、駅逓、役所という性格を併せ持った建物群だが、ニシン番屋と共通する特徴も多い。普通は運上屋とするのが一般的だが運上家でも間違いではないようです。運上家の間口は22間あったが1889(明治24)年の改修で16間に縮小される。1976(昭和51)年に嘉永6年(1853年)に改築した当時の古図面を基に改修復元がなされ1980(昭和55)年から公開されている。

竹屋林長左衛門は1811(文化8)年からヨイチ場所の請負人となり1812(文化9)年には場所共同請負人。アブタ、次いでアッケシ場所経営。ヨイチ場所請負は1869(明治2)年の場所請負制度廃止まででした。北海道の宿駅制研究の明治編に「運上屋で駅務を行う」とあり、明治2年から本陣、続いて旅籠屋並みに改められ駅逓として機能していた。

松浦武四郎は弘化3年、安政4年ヨイチ運上家に宿泊「丁巳第2巻 曽宇津計日誌」(秋葉実解説)では「運上屋え入一宿の無心ぞ至しけり」と記録を残しているが、当時は此辺が余市の中心だった。◇所在地:余市町入船町10 ◇G.Maps:43.197908, 140.788299

旧余市福原漁場国指定史跡MAP

旧余市福原漁場幕末からニシン漁を行っていた福原家が所有していた建物群です。以下は説明板より転載「史跡指定 昭和57年2月12日(10.732.17㎡)/史跡指定 昭和59年8月29日( 3.387.88㎡)/史跡指定 昭和62年12月25日( 1.692.40㎡) 北海道の日本海沿岸は、近世よりニシン・鮭魚が盛んに行われ、ヨイチ(余市)場所は江戸時代からニシンの千石場所としてその名を知られ、明治時代には海岸沿いに大きな番屋が立ち並び、ますますニシン漁が盛んになりました。旧余市福原漁場には、敷地や建物が当時のニシン漁場の姿のまま、まとまって残されており、往時の様子を伝えることのできる貴重な遺構として国の史跡指定を受け、昭和58年度より文化庁の補助により保存修理工事に着手し、建物の復元・修理が完了し広く一般に公開するものです。文部省 北海道 余市町」※広い敷地内にある主屋(番屋)は出稼ぎの漁夫の宿泊空間であり、漁夫溜まりは2階建、ニシン漁の最盛期には土足のまま食事ができる構造になっていた。藁製品や食料を保管していた米味噌倉は、外壁と内壁の間に石を詰めるなどのネズミ対策が施されている。書類や衣服を保管していた文書庫や漁網などを収めていた網倉、カズノコや白子を干して製品にした干場、白子干場も当時と同じ姿で保存されていて、ニシン漁でにぎわった当時の漁業経営者の暮らしぶりがわかる。
◇入館料:大人300円 ◇休館日:月曜日と祝祭日の翌日・冬期閉館 ◇所在地:余市町浜中町1501 ◇G.Maps:43.200100, 140.778892

よいち水産博物館MAP

よいち水産博物館大谷地貝塚(国指定史跡=現地は看板のみ)の出土品やアイヌ民族の関連資料、水産博物館という事で表積丹の中心地らしく「にしん漁」関連の歴史や道具などが展示されているが、珍しいのは3分の1にスケールダウンしたミニチュア弁財船。前庭に違星北斗、石川啄木、野口雨情の句碑と復元された八幡山環状列石とにしん船の保津船が展示されている。◇所在地:余市町入舟町 ◇Gmap:◇G.Maps:43.196605, 140.786760

祝津パノラマ展望台・江差追分節名歌碑MAP

江差追分節名歌碑碑に書かれているのは有名な追分節の文句ですが、通説は江差あたりの女性が、漁期に忍路や高島の漁場に行っている愛しい男を追って行きたいが、その手前のおかもい様(積丹岬の大岩)が女人の通航を許さない。せめてそこに近い歌棄や磯谷の漁場で働いて男の帰りを待ちたいという事のようです。

もう一つは当時の新興商人が何とか歌棄と磯谷場所請負の権利を手に入れたが、ニシン漁場が年々北上することから、何とかして忍路・高島の場所請負の権利を手に入れようと暗躍するも、事破れて全面的な敗退となった。そのことを書いた落札が喝采を受け歌詞になったのだというが、それだと歌詞としては夢も情緒もない代物となるが。◇所在地:小樽市祝津3丁目 ◇Gmap:◇G.Maps:43.238043, 141.009234

祝津パノラマ展望台・北海浜節民謡碑MAP

北海浜節民謡碑北海浜節
春は春はソーランヤン衆の声も 遠く呼ぶよぶ黄金の波は(ソイ)
せめて波風おだやかに サアサ今日も船は行く⌒
ピリカピリカ乙女に思いをよせて 波に舵とれこの腕をー(ソイ)
 ただよう海原果てもない サアサ明日への夢がわく⌒
 海の海のせつなさ潮風夜風 赤いネオンが波止場に見えて(ソイ)
 忍ぶ小樽のなかじゃもの サアサ北海浜節よ⌒
千葉勝友氏作詞作曲の北海浜節民謡碑を聞いたことはないが、小樽の忍路、高島の漁場が舞台のようで、この辺で漁業に携わっていた方には知られていたようですが、ヤン衆という言葉の意味をしるニシン場の漁夫達には受け入れられなかったのでは・・ニシン場で漁夫は敬意を込めて年齢に関係なく若い衆と呼ばれ、ヤン衆は使われなかった言葉のようです。◇所在地:小樽市祝津3丁目 ◇G.Maps:43.238073, 141.009453

小樽市鰊御殿旧田中家母屋 漁家住宅 道指定有形文化財MAP

小樽市鰊御殿明治から大正年間にかけ鰊魚で繁栄した日本海沿岸の漁場経営者は豪華で大規模な母屋や番屋、蔵などの施設を建設、それらの一部は今も残っている。この建物は泊村に漁場を経営していた田中福松の住居兼作業場の母屋で、1891(明治24)年より6年の歳月を掛けて完成した。昭和33(1958)年に北海道炭鉱汽船株式会社が創立70周年を迎えた記念事業として現在地へ移築復元。日本海沿岸を代表する鰊漁場の漁家住宅ですが小樽生粋の歴史的建造物ではない。

館内には、にしん漁やにしん加工に使われた道具や、番屋で暮らした人々の生活用具や写真などを展示、鰊御殿でもらったパンフレットには「鰊魚を営むためには、多くの労働力を要した。網元はその多くを東北や北陸地方に求め、漁の始まる3月には多くの漁夫が集められた。網元の中には200人以上の漁夫を集める者も現れ、彼らの宿舎を兼ねた網元の家は大型化し、豪放さの中にも繊細な建築美も兼ね備え、その美しさから鰊御殿と呼ばれるようになった」※この田中番屋では多い時で120人の漁夫が寝泊まりしたという。ニシン漁が盛んだった頃は網元や鰊御殿という言葉は使われていないが、網元は戦後のTVドラマで普及したらしく、鰊御殿は観光用の造語という。鰊漁場経営者は網元ではなく親方もしくは旦那衆とよばれたという。◇所在地:小樽市祝津3丁目228番地 ◇G.Maps:43.237974, 141.015679

旧近江家番屋漁家住宅MAP

旧近江家番屋祝津には旧青山別邸、旧茨木家中出張鰊番屋、旧白鳥家鰊番屋と石倉、旧近江家鰊番屋など鰊で栄えた往時の姿を残した建物が多い。旧近江家鰊番屋の正面は南を向き、中央の曲面のある屋根がかかっている玄関を入ると土間がつながり、その左を親方家族のための座敷を配置、右側を漁夫の寝床に区分しています。漁夫用の室内は天井が無く、小屋組みが露出した吹抜けで、その構造は梁が対角に架かる珍しい作りで、祝津で最も古い番屋の形を伝えているという。特に青山・白鳥・茨木は祝津御三家と言われ、鰊漁で巨万の富を築いた。番屋は道道小樽海岸線の北端、小樽鰊御殿の手前側にあるが非公開、外観を見るだけなら特に問題はありません。ただ駐車中の車両が多く建物を見るなら早朝がよい。◇所在地:小樽市祝津3丁目280 ◇G.Maps:43.235831, 141.014458

旧白鳥家鰊番屋漁家住宅MAP

旧白鳥家番屋小樽海岸通り線で小樽水族館駐車場の手前にある番屋。1873(明治10)年建築の木造1階建漁家で1995(平成7)年に小樽市指定歴史的建造物になっている。番屋の取り壊し計画があったが、それを知った小樽市内の料亭店主が1994年に番屋を取得し「料亭群来陣」としてオープンしたが今は廃業しており、時々イベントなどで利用されているようです。番屋の外観は往時の姿を残しているが、商業施設として使用するため内部はかなり変わっているという。残っただけでも吉とするべきか、近くに旧白鳥家の石倉もある。◇所在地:小樽市祝津3丁目191番地 ◇G.Maps:43.235831, 141.014458

にしん街道標柱小樽市MAP

にしん街道:小樽市にしん街道の説明板より転載
『忍路高島及びもないがせめて歌棄磯谷まで北海道の代表的民謡である江差追分の一節に登場する高島場所。その中心となったにしん漁場が、かつて、にしんの千石場所と呼ばれた、ここ祝津であります。

小樽のにしん漁は、松前藩の追にしん漁場の拡大政策によって、江戸時代後期の寛政5(1793)年に始まります。その後も小樽沿岸では、場所請負人の手による大規模なにしん漁が展開さていきます。明治2(1869)年に場所請負制度が廃止されると、にしん漁は民間に開放されます。明治中期から大正年間を通じて豊漁に恵まれた祝津では、今なお三大網元と称される青山家・白鳥家・茨木家のにしん親方衆が相次いで誕生し隆盛を極めました。その茨木家の初代当主である茨木與八郎(山形県遊佐町出身)氏によって明治後期に建てられたにしん漁場建築物が「茨木家中出張番屋」であります。

このたび、茨木誠一氏はじめとする関係者の長年の願いであった同番屋の修復事業が完了することを記念して、にしんで栄えた北海道日本海沿岸の市町村を結ぶ「にしん街道」の標柱をこの地に設置することにより、にしん漁の歴史と文化を後世に語り継いでいくものです。』
◇設置年:平成二十二年六月吉日 ◇設置者:北後志風土ツーリズム協議会 ◇所在地:小樽市祝津 番屋通り 茨木家中出張番屋隣地 ◇G.Maps:43.234275, 141.013260

茨木家中出張(でばり)番屋漁家住宅MAP

茨木家中出張番屋祝津のニシン場三大親方衆であった茨木家によって明治後期に建てられた「茨木家中出張番屋」は、昭和30年代前半まではニシン漁に従事した従業員が寝泊まりしていた。30年ほど前からは住む人も絶え閉鎖されていたが、平成22年にニシン番屋を修復し、地域コミュニティ施設としてよみがえる。鰊漁場は主要施設である番屋を中核に付属する各種の蔵や船揚場(袋澗を含む)、加工用の施設、干場等の敷地や施設を含めた群体であり、鰊番屋の規模は漁場の大きさの指標となる建物であり、こうした施設群を伴わないニシン漁家建築物(鰊番屋)は豪華であっても文化的、歴史的価値は半減する。そういう意味で言うと元番屋でもあった茨木家 漁家住宅、茨木家中出張番屋、石倉、神社などニシン漁場建築群がまとまってあるのは祝津ではここが一番といえるでしょう。横の坂の上に1863(文久3)年建立という小樽市指定歴史的建造物の「恵比寿神社」があります。◇開館期間:5月~10月 休館日:毎週火・水曜日 見学料:200円 ◇所在地:小樽市祝津3丁目 ◇G.Maps:43.234456, 141.013297

茨木家 漁家住宅旧茨木輿八郎番屋MAP

茨木家 漁家住宅明治2年の場所請負制度廃止後に自らの才覚で台頭して来た新興勢力で、祝津ニシン漁場三大親方衆のひとりであった茨木家の漁場建築群が固まってあり、その中核に位置するのが茨木家漁家住宅(旧茨木輿八郎元番屋)で、初代当主である茨木與八郎(山形県遊佐町出身)氏によって建てられた。道路に面して立つ平屋の主家とその裏側にある2階建ての離れからなっています。前庭の周囲には四角形の花崗岩を立てて道路との仕切りとし、建物の正面右には庭を取り囲む板塀と門を設けられている。玄関は来客用と家族用に区別され異なった屋根を持ち、建物細部には草花をモチーフとした彫刻が見られる。離れの建物は親方の居間や客殿として使われていたと案内してくれた方に伺った。建物内部は非公開で外観のみ見学可能。◇所在地:小樽市祝津3丁目 ◇G.Maps:43.233735, 141.012762

旧青山家 漁家住宅北海道開拓の村MAP

旧青山家住宅かつて祝津の三大親方衆であった「青山家」の本邸で内部の見学も出来ます。番屋として見るなら豪勢な趣向で、瓦葺き屋根と破風屋根、漆喰塗りの外壁と煙出し、玄関の雲形の木鼻は寺院拝殿を思わせる造りです。敷地内には母屋、網倉、船倉、石倉、文庫倉、海産干場など多数の施設が移築保存されており鰊漁場の建物が集約的に保存されている所は極めて少なく貴重な施設群ですが漁場跡としてみると狭い。◇移転先:北海道開拓の村 ◇所在地:北海道札幌市厚別区厚別町小野幌50-1 ◇G.Maps:43.047094, 141.500626

小樽貴賓館 旧青山別邸国登録有形文化財MAP

小樽貴賓館 旧青山別邸昭和60年に小樽市の歴史的建造物第3号に指定された旧青山別邸は、鰊漁で巨万の富を築いた青山家の三代目青山政吉と娘、政恵が金に糸目をつけず、山形県酒田市から宮大工を呼びよせ6年半余りの歳月をかけて建造、往時の栄華を伝える別荘で、約1500坪の敷地内に木造2階建てで、建坪は190坪。家屋の中は6畳~15畳の部屋が18室の豪邸。祝津には鰊で栄えた往時の姿を残した建物が多い。旧青山別邸の観覧は有料となります(大人・中学生以上 1,080円) ◇所在地:小樽市祝津3丁目63 ◇G.Maps:43.231742, 141.007896

石狩挽歌記念碑

石狩挽歌記念碑イメージ小樽に住んだ事のある作詞家「なかにしれい」のヒット曲「石狩挽歌」の石碑が、旧青山別邸の入口の左手にある。自然石を組み上げた台座に石狩挽歌の歌詞が刻まれ、その上に石狩挽歌記念碑の文字がある大きな石柱が乗っている。この鰊漁の挽歌は今でもカラオケで唄われているとか。◇所在地:小樽市祝津3丁目63 旧青山別邸内

オタルナイ運上屋跡石碑・説明板MAP

オタルナイ運上屋跡この地域には江差追分「忍路・高島及びもないがせめて歌棄・磯谷まで」にある高島と忍路、オタルナイの3ヶ所に運上屋があった。オタルナイ運上屋の設置時期は明らかではないが享保年間と考えられており、元々はヲタスツにあったらしい。知行主は松前藩重臣の氏家氏、場所請負人は恵比寿屋岡田家でしたが、1865年に場所請負制度の廃止後に本陣となるも、1866年の火災により建物は消失。メルヘン交差点そばに「史跡オタルナイ運上屋跡」の石柱と看板がある。明治以前はニシン場の中心にいたのが運上屋でした。◇記念碑:史跡脊柱と説明板 ◇所在地:小樽市堺町6 ◇G.Maps:43.191045, 141.007079

旧 猪俣安之丞邸観光旅館 銀鱗荘MAP

観光旅館 銀鱗荘余市町の漁場経営者で実業家であった猪俣安之丞氏が明治6年に建築した建物を、明治33(1900)年に3年の年月をかけて建替えた入母屋望楼付きという豪華な建物で、越後の宮大工(棟梁米山仙蔵)が設計施工したという。木造一部2階建、原型は延べ450平方mともいわれるが、昭和13年から14年にかけて現在地へ移築され原型が大きく損なわれたというも、旧邸宅の原型を最大限残した設計をしているので往時を彷彿させる建物で有る事には違いない。現在は観光旅館「銀鱗荘」として利用されており、内部の造りは建設時とはかなり変更され、その特徴を言うと「宿泊出来る豪華な鰊御殿」ということになるようですが、図面を見た印象では漁家住宅の片鱗もない。公式サイトはこちらから 銀鱗荘◇所在地:北海道小樽市桜1丁目1-13 ◇G.Maps:43.180896, 141.035356

蘭島の鰊塚小樽市

蘭島の鰊塚碑はニシン漁場経営者でもあった水産加工業の丸山氏が鰊への供養として建立したもので、蘭島海水浴場の中間部で公衆トイレ横にある。

碑誌『にしん にしん にしん 俺は汝を恋して五十有余年 恋は果てんとす 今一度群来よ 忍路の海へ・・・幻の魚 昭和五十四年六月 建立者 本間栄太郎』※JR蘭島駅はもともと忍路と呼ばれていたというが明治39年に蘭島に改められたという。そういうことで碑誌にある忍路の海というのは納得できるでしょう。蘭島海水浴場は蘭島に駅が出来た翌年の明治36年に、蘭島海岸に休憩所を設けたのが始まりと云い北海道海水浴場開設発祥之地の碑もある。隣の余市町にも鰊塚がある。◇所在地:小樽市蘭島1丁目 ◇G.Maps:43.201301, 140.856151

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