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厚岸町の伝説は比較的多いが古老からの聞き取りとは思うも、その出所がハッキリしない話が多い。伝説の出所が明快な「厚岸の半神半人カスンデ」と「納沙布日誌」にある話以外は手持ちの資料ではその出典がよく分からない。
『厚岸チクシコイのアイヌと厚岸アイヌとが、猟の事から争いになり戦争をしたとき、厚岸アイヌに追われたチクシコイアイヌはパラサク岬の次のアイカップ岬で防いだが防ぎきれず、更に退いて次の岬のアイニンカプで防戦したところ、ここでは下から射る厚岸アイヌの矢が途中までしか達しないのに、上から射るチクシコイアイヌの矢がよく敵に当たって、厚岸アイヌはその為敗退してしまったと伝えられる』松浦武四郎・納沙布日誌※アイカップは「矢が届かない」アイニンカプは「矢を放っても中腹までしか届かない」という意味とされるが、伝説は別としてアイカップは不器用とか困難の事で、道として超える事が出来ないと考えた方が合理的。アイカップは他にもある地名。
『昔、船を転覆させるピラッカムイという、おそろしい怪魚が厚岸湾に入ってきた。その時パラサン岬で魚を目刺しにして乾していた女が、それを発見しコタンに知らせたので大騒ぎとなったが、このおそろしい魚はこの岬まで来ると、どうしたことかたちまち石になってしまった。それが今の岬の崖であるといい、昔はこの岬を船が通るときは酒とイナウを供えたものであるという』更科源蔵遍アイヌ伝説集・北海道の口碑伝説
昔、厚岸のコタンにカスンデという非常に雄弁な人がいたが、心が正しくない人であったために人々に嫌われ、遂に自分の叔父の為にに殺されてしまった。然しカスンテは直ぐに生き返って、前よりも悪い所業を重ねるので、とうとう父親もたまりかねて、ある日カスンデが川の中で梁を作っているとき、後ろからカスンデを打ち殺して、下顎は一本の立木をたわめて、その先に縛ってはなし、高い木の上に跳ね上げ、上顎は石を括り付けて川底深く沈めてしまった。そのため今度は生き返る事が出来なくなってしまった。このカスンデは実は普通の人間ではなくて、疱瘡の神様であるパーコロカムイの子供であったので、殺されても殺されても生き返る事が出来たのであるが、父親の為に生き返られなくされたので、痘瘡の神様パーコロ・カムイが非常に怒って、忽ち厚岸コタンの人間を全滅させてしまい、殺されたカスンデを生き返らせ様としたが、木の梢にくくりつけられた下顎だけはいくら探しても見あたらないので、下顎だけは木で作ってやっと生き返らせた。すると、カスンデはパーコロカムイの所に行って、どうにか世界中の人間を全滅させてくれと頼んだ。これを聞いた天上の神々は、何とかしてカスンデの暴れるのを押さえようと、色々心配した結果、夜明けの明星をカスンのところへ嫁にやり、人間の世界への仇討ちを思い止まらせようとした。その為にカスンデが暴れそうになると、暁の明星は家にいてカスンデを慰めなければならないため、時々夜明けの空に出てこない事があるのだという。そういう時はいつカスンデが出て病気を流行らせるかしれないから、気を付けなければならないと言い伝えられている。旧穂別町 宮田タカラモシフチ伝
カスンデは疱瘡神が人間の女に産ませたもので、彼は人というよりも神に近く、彼が歩いていくと暗夜でも水の上に月が浮かんだ様に光り輝いたという。カスンデは北見湧別の有名なイクレシュエの一族の宝物を得ようとして、イクレシュエをそそのかし首長を殺させた。殺されたイクレシュエの一族はカスンデを怨んでこれを殺したが、神性を持っているカスンデはいくら殺しても生き返るので、最後に彼の上顎と下顎を別々にし、上顎の木の枝の股に結びつけ、下顎は石を括り付けて海の底に沈めた。その為さすがのカスンデも再生する事は出来なくなったが、この悪霊の祟りで釧路厚岸のアイヌは痘瘡に罹って死に、残ったものは更にカスンデの恨みの津波にさらわれて、東海一の大コタンを誇る厚岸も見る影もなく衰えてしまった。吉田巌集・人類学雑誌29巻※似た話が阿寒のケンサッのチャシ伝説にある。こちらは悪者で切ってもすくに生き返るのは同じだが、痘瘡や怨念などの話は出てこない。なお伝説に登場するカスンデは実在の人物で厚岸、霧多布の連合軍が宗谷アイヌを襲撃したときの大将だったという。
昔厚岸湖の中のカキ島の所に切り立った様な高い山があった。その山が阿寒の山と仲が悪くよく喧嘩していたが、阿寒の山は兄弟が多いので、一人ぼっちのカキ島の山は遂に喧嘩に負けて、ここを逃げ出す事になつたが、この時厚岸コタンの人達に、形見としてカキ貝を残していったのが今のカキ島で、逃げ出した山は途中霧多布の琵琶瀬で一休みして振り返って見たところ、相変わらず阿寒の山々がこちらを睨んでいるので、そこにも居たたまれず、遂に千島の国後の島まで逃げて行ってそこに落ち着く事になった。それが現在の国後チャチャ山で、チャチャ山の麓の海岸にカキがあるのはその証拠であり、途中で休んだ琵琶瀬にも貝殻が残っているのである。こうした事があった為に厚岸のアイヌが国後に渡ると必ず雨が降るという。それはチャチャ山が故郷の人が来たので嬉し泣きに泣くのであるという。それで昔は厚岸コタンの人達は年に一度は国後に行ってチャチャ山に祈願祭をするのを習わしとしていた。厚岸町 土岐紀文集 ※似た伝説が阿寒と弟子屈にある。
厚岸の町にお供え山(オヤコツ)と呼ばれる小高い丘に枝が下を向いている「逆さ水松」と呼ばれるイチイの大木があります。伝説では『昔首長の老婆がの戦争で毒矢が当たって死ぬとき、手に持っていた杖を地に突き刺し「死んでもこの土地は敵に渡すな」と云って神に祈ったのが根付いたというように伝えられているが、実は厚岸首長のカモイトクという者の妻にオッキニと云って非常に偉い老婆があったが、その老婆の墓に墓標として建てた水松がいつか根付いたという古い伝説である』松浦武四郎・納沙布日誌よりここでは二つの伝説がまとめて書かれている。更に詳しい話が「北海道の口碑伝説」に有り、そこではオッキニはツクニとなっており、宇田川洋氏著「アイヌ伝承とチャシ」の中でツクニは「夷酋列像」に登場するツキノイの事で「逆水松」チヤシの年代を18世紀末頃と。※同著の逆水松チヤシには「北海道の口碑伝説」の逆水松伝説が記載されている。
別の伝説1『厚岸アイヌと釧路アイヌとが戦争をしたとき釧路軍の勢いが非常に強く、いまにも厚岸軍が砦を捨てて逃げようとしている時、一人のボロボロの着物を着た老人が現れて何事かを厚岸アイヌに教えたので、急に厚岸軍が強くなり、釧路軍を撃退してしまった。その老人が持っていた杖を刺して行ったのが根付いたので有るともいう』更科源蔵遍アイヌ伝説集・千野正己輯より。
別の伝説2『昔ツクノイ婆という独身の老婆が此地にいて、吉凶禍福の予言をして、アイヌ達の畏敬を受けていた。あるときこの老婆が、近いうちに恐ろしい疫病が流行するだろう事を予言した。然し多くの者はあまりこれを信じなかったが、まもなく日本の弁財船がここに来て、痘瘡患者を捨てていってしまったので、おそろしい痘瘡が流行したため、老婆の言葉を信じないで避難しなかった人々はそれに感染して、多くの人が斃れた。そのツクノイ婆は長寿を保って死んだが、その墓に平生使っていた水末の杖を立てたところ、それから枝葉が出て茂ったのが逆水松であるという』更科源蔵遍アイヌ伝説集・新島喜直輯。
別の伝説3『寛政年間に国後島の蝦夷の反乱があって、多くの日本人が殺されたが、その時厚岸に殺されるのをみて、日本人可哀想だといって、涙を流し泣きながら、一人の日本人の子供に、自分の下着を頭からかぶせて隠し助け、その子供を松前に送り届けたので、松前藩主から宝物を褒美としてもらった。それを聞いたアイヌ達は、大変この老婆を憎んで殺してしまうと殺気だったので、ビックリした老婆は一本の杖をつきながら逃げて、大きな岩穴にかくれたが、おそろしいのでついにこの穴から出ることが出来ず、杖を穴の入り口に立てたまま死んでしまった。その杖に根が生えて成長したのが逆水松であるという』更科源蔵遍アイヌ伝説集・新島喜直輯。※伝説の反乱はクナシリ・メナシの戦いで1789年(寛政元年)のクナシリ・メナシ(北海道東部地域)のアイヌは飛騨屋の横暴に対して、一斉蜂起、北海道・クナシリ合わせて、和人71人を殺害。この事態に、松前藩は総勢約260名の大軍を派遣して鎮圧、反乱は戦わずして鎮圧される。また別の説では老婆の名前がチイスオイコイノケとなっている。
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