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タイトルはアイヌ語地名を巡るとしてありますが・厳密にいうと下記の地名はアイヌ語由来の地名でアイヌ語地名ではありません。原型のアイヌ語は音訳或いは和訳され本来のアイヌ語をそのまま継承しているのは河川名に希に見られるていどです。従ってここではアイヌ語由来の地名をアイヌ語地名としてあります。釧路の語源には3つの説があると云われてきました。釧路が文献に登場するのは200年ほど前の『東蝦夷地名考』からで“クスリ”で自ら作る路→浜に出る。次に上原熊次郎の『蝦夷地名考』でも同じ“クスリ”で越える路→西別、斜里に越えるとし路のルートが変わる。松浦武四郎は他に“クスリで温泉”としているが、前記の説に加え、渡し場から弁天社を越えて此所に来る路、クスリで薬の事と云うと当時の聞き書きを残している。永田氏の地名解ではクッチャロの転訛とするがそのどれもが説得力に欠くが、はっきりしているのは200年以上前にクスリと呼ばれ、その意味は統一していなかった事だけ。ただアイヌの方は屈斜路湖の事を昔はクシリオンネトーと云い、クシリは温泉の事でそのまま利用出来るのがヌー、飲める温泉はクシリと云うとの事。ヌーと云う言葉は武四郎の記録に度々出て来る。温泉が入っているので川は凍らず冬も交通路として使えた。川の方はクシリシペッと云った。屈斜路湖コタンの強制移住で地名が移動したと言う説も有る。
武佐は釧路以外にもあるがその土地により意味合いが微妙に異なり何とも確定がしづらい地名と云う、地名解では採録されていない。イラクサの事をモセと云うが“mosa”とも呼ばれていた様だと山田秀三氏は北海道の地名の中で書かれていた。
釧路市内の地名で地名解では?としている。古い上原熊次郎地名考では“カチロコイ この山辺にカチロコイと囀る鳥の有る故字になすという“と書いているが、更科源蔵氏の地名解には“アイヌ語でカンヂャラコイと云う腰白ウミツバメのこと”と老婆に教えられたとあったが、東蝦夷日誌にもカツラコイチリと言う鳥の記載がある。
地名解では“オニ・オプ 寄木ある處 小川の名、槍ありし處といふは非なり”としている。オプなら槍の柄のこと。寄木ならば“o-ni-o-pu”とでも解したものか・・puだと川尻に倉の様に盛り上がった木(流木)がある状態と云う事になる。釧路の旧名では鬼呼と凄い字を当てられていたが、知人の厳島神社を弁天様と呼んでい事もあり弁天浜に変えた様だ。鬼呼では縁起が・・
地名解では“オウコッ・ナイ 合川 二川合流する處に名く”と“o-ukot-nay”で二つの川が川尻で合流する川の事を言う。nayがpeになっている地名も有るが道北の興部町もそのひとつ。
地名解では“アトロ・ウシ”とあるのものか・・“楡皮を沼に漬す處‘アチョロ・ウシ’と言うのは急言なり”と“at-iworus-to”で楡皮を水に漬つけている沼と云うくらいか・・かつては小さな沼があったという。
今の灯台付近の地名で地名解では“シレト岬”と、松浦図ではシリエトになっている“sir-etu”で地の鼻→岬の事になるが海から見るか灯台の前に行かないと岬感は無い。元々この地はアイヌ信仰の地でもあった様で伝承も多い。港湾の工事でなくなったが、岬から二条の巨大砂岩岩脈が沖に向かって走っていたカムィルイカ(神の橋)やその先にあった暗礁(ペンリィ・リリとパンケイ・リリと呼ばれていた)のペンリィの語呂が合ったのか弁慶のソリと云われた。伝説もいい加減なのが紛れているので鵜呑みにはしないこと。
知床に続く高台で地名解では“オラロマイ 深沙の處‘オラリオマイ’の急言、一説‘ウラリマイ’朝霧多し故に名ずく”と。オラリは河口付近の深く埋もれる部分の事の様だが、釧路と云う事で“ウラル・オマ・ナィ”で・霧の有る沢・というのが霧の町釧路らしい。
釧路市の東部に広がる地名で沼の名前。地名解では“ハルドル 向ふ地‘アルドル’と同じ詞なり‘シレド’岬の向ふの地を云う。直訳すれば一間半のと云ふ義なり此地名處々にあり松浦氏‘ハル’は食料と説きたるは非なり”とした。それで云うと春採湖は食べ物の豊かな沼というよりも岬の向こうの沼となるが、ハルトル・トの記録もあり春採の沼とも呼ばれた。
茂尻矢は大川町付近一帯の地名だが今は遺蹟の名前に残されているだけ。地名解では“ムシリヤ・ペッ mushiriya-pet 川島”と書いている。旧釧路川にあった中島は埋め立て工事で今は無くなってしまった“moshir-ya”は川岸に近い島を云う様です。モシリヤチャシ跡はその形からお供え山と呼ばれ国の史跡に指定されている。
釧路市内の海岸沿いに現存する地名です。地名解では“ペトマイ川 petomai 注ぐ處 一水来りて釧路川に注ぐ“これでは何の事か判らないが別途なら分かる。“pet-to-oma-nay”と云うのが本当らしい。川が沼に入っていく所と云うことの様です。別途になると松浦武四郎の記録では“ヘツホウ 小川有、是川の倅と云儀也”と小さな支流の川を云った様だ。
古川町の旧名阿寒太の事で地名解では“ラカン・プト rakan-puto うぐい産卵川の口 文化帳安政帳等 並に‘ラカンブト’に作る、後人‘アカンブト’と言ふは古くにあらず“と書く。昔は古川町で阿寒川が旧釧路川に合流していた。その川筋はまだ残っていて阿寒川の古川町なのかも。地名解の説は噸化に有ったと云うオンネ・ラカン・トーとその川口のラカン・プトの地名を知らなかったのかも。阿寒川の川口はアカン・ブトと呼ばれたとの事。
釧路市南浜、仲浜、寿町の旧名で噸化の字を当てトンケシと呼ばれていた。現在は南浜、仲浜、寿町に分かれてかつてトンケシをしめすものは何も残っていない。かつて旧釧路川の河口付近に小さな沼(オンネ・ラカン・トー)がありその周囲の地名で地名解では“ト・ウン・ケシ to-un-keshi 沼の端”沼の下の端という意味のようです。
釧路と白糠町の境界付近の地名川名で地名解では“オタ・ノシケプ ota-noshike-p 濱中 安政帳‘オタノシケプ’と有るに従う”オタ・ノシケ・プで砂浜の真ん中のものかららでた地名。元々はオタ・ノシケ・オマ・ペッと呼ばれたと。オタノシケップ川は今は一旦海岸に出た後は海岸線を東流し阿寒川で合流するが昔は旧釧路川まで延びていたと。砂浜の真ん中の者〈川〉と言う意味になるようです。
庶路手前の海岸の地名で地名解では“コイドイェ浪潰 東風強きとき波打越す處”としている。海岸を平行して流れていたり斜めに海に注いでいる所では、波浪の強い時には波が砂浜を越えて川に流れ込み時には川の流れを変えてしまう事がある“koi-tuye”で波が破る事を言う様で各地に多い地名のひとつ。恋問という上手い漢字名を当てた。
釧路管内の川の中では庶路川は滝が多く名前の付いている滝に限っても4滝あり数では阿寒と並びついで音別川、落差で云うなら庶路が一番で地名解では“ショ・ロロ shio-ri-oro 瀑布高き處 大雨の時瀑泉飛ぶ”とすこし変わった表現の様にもとれるが滝を見たなら納得する。
地名として残された所は多くはなさそうで地名解では“チ・ノミ chi-nomi 祭場”とある。東蝦夷日誌に「文化度新道切始めの時、役人より土人に神酒を賜りし處也と」我ら礼拝する場所の事との関わりを想像出来る。となりの音別にはチノミ台と言う地名がある。
地名解では“poro-so 大瀧 幅二丈高五六丈”と書いてあり庶路の語源となっている滝。白糠町のいう庶路大瀧は庶路川本流にかかる不動滝の事での落差は5mと高さが合わない、大正時代に丸太流送の為ダイナマイトで滝壺を爆破したという話もあり高さは変わっているかもしれない・・東部久須利誌では“ホロソウ 此処高五丈計の大滝有”と、ホロソウが不動滝と呼ばれた理由は?だが不動明王の石碑と関係有るかも。
俗に珍名の地名にあげられる沢の名前だが地名解にも記載のある川“オレウケ・ナイ oreuke-nai 曲川”とあるその内容は“川尻潰裂して曲がりたる川なりと土人云う”と。それにしても庶路川や茶路川はアイヌ語の地名がほぼそのまま残されている。中にはクイズそこのけの首をかしげるようなものもある。
今はオンネチカップ川のみ。地名解にある“chika-o-p チカオプ”はない。“chika”はチカと呼ばれるキュウリ魚科の魚で秋から冬にかけての釣り魚としてお馴染みだがアイヌ語ではないかも。一般的には“onne-chikap”でオジロワシの成鳥を言うらしい。
白糠町の市街に近いところにある川名。地名解では“シラリカプ shirarikap 潮溢る處 舊地名解に云う潮満ちる時は此川及びウワッテ川まで一面に潮溢る故に名く”とあるが、これだと川に潮が入り溢れるともとれてしまう。山田秀三氏は“shirar-ika-p”で潮が岩を越える処と説明している。その場所は石炭岬であるとも、潮が満ちて来て岩が白く波立っている状態の所を云ったもの。
白糠町内を流れる川の名前で集落の地名、地名解では“チャロ charo 川口”とあるが普通チャロという時には沼があるのが普通だが此川にはそれらしき沼がない。それに源流部までチャロの名前が付いている。昔は沼が有ったのかも、この後の部分でも書くが不思議はまだある。音別川の地名と交錯している様な印象だ。
茶路川の支流の川名で地名、地名解では“オ・サッ・ペ o-sat-pe 涸川尻”形の違いはあっても川尻が乾くのであればこう呼ばれる事が有ったと云うことの多い様だ。
茶路川の支流の川名で地名。地名解に記載無いが“o-nitat”で川尻の湿地くらいの意味か。他には“o-ni-tayw”で川尻の森くらいしかないが、地形図で見る限り本流としばらく平流した後本流に注いでいる。
茶路川の所で書いた不思議のひとつ。地名解では“タンタカ tantaka 比目魚〈カレイ〉川の名 厚岸、及び西別に同名有り”となっているがタンタカとは釣りをする人なら一度は聞いた事があると思うが俗に座布団とも言われるカレイで通称はタンタカ、鷹羽カレイとも。ヒラメとは全く違うカレイだが、元々はどちらもシタンタカ本当のカレイと呼んだらしい。津波の時ヒラメがこの山まで上がったと言う伝説があったらしい。
河口近くで茶路川と合流し太平洋に注ぐ。地名解では“ウワッテ・ペッ uwatte-pet 連枝川 ‘ウワッテ’は五指を開きたる形なり此川支流多し故に名く”パシクル沼裏側を流れる川で鮭釣りファンには馴染みの川かも。手の指を広げたように支流が広がると言うが確かにそんな川。
地名解では“コイカクシヨオロ koikku-sho-oro 東の滝川”あまり聞かない地名だが、川の名前としては日高や太平洋岸の川には時々見受ける“koyka-kus-so-oro?”東を通る滝の所か? 恋隠とは上手い字を当てた。
音別と白糠町の境界に位置する沼。地名解では“パシュ・クル 鴉 此処の沼口に附したる称なり往時海霧の為に船路を辨せず鴉聲を聞き船を海岸に着けたる故事あり”と鴉の声に助けられた土地の伝承を書いている。それにしても鴉が地名になっているのは此処くらいか“pash-kur”更科源蔵氏は嘴太鴉であると断言。石炭と烏貝もパシュクルと言うとも?。
音別の町の東側を流れる小さな 川の前で地名。地名解では“フーレ・ペッ hure-pet 赤川”当字は色々とあるが北海道では比較的多い地名、川名である。湿地帯を流れる川は薄いコーヒーブラウンの様な色をしている事が多い。
音別川は音別市街を流れ太平洋に注ぐ。地名解では“オン・ペツ on-pet 腐れ川 此川に上りたる魚は直ぐに老いると云う”が現実離れした話。その他にも水が良くないという説が幾つかある。それとは別に“o-mu-pet”川口が塞がると言う説もあります。ただ水勢はなかなかのもので魚類の遡上もあり渓流釣りに通う人もいる。よほどの偶然が重ならない限り川口が塞がる事はなさそうだが。
音別川の左支流の名〈当HPでは下流から上流を見て左右を表現〉で三滝の沼が水源近くにある。地形図には沼が二つあるが“トウンペ⇔to-un-pet”沼に行く川と云うくらいの意味か。音別にも同じような名前の川がある。
音別川の左支流の名前で地名。川はかなり奥が深い川で支流に三階の滝がある。地名解には載っていないが同名の川が中標津町にある。ムリの解釈については草の種類と草の生育している状態を意味するものに別れ、草の種類もその地によって異なっている。此処のムリがどんな草だったのかは判っていない。
音別近くの地名で駅名、地名解では“サッ・ペッ sat-pet 涸川 水少なくして鮭上らず”と書いてある。最も古い記録ではサクベツ夏の川となっている。昔は海岸を東に流れ音別川に入っていたと云うが今は市街近くで太平洋に注いでいる。魚類の遡上もありその水量からも涸れ川には疑問が残る。支流にはポンサツベツ川があるが此の場合は支流に限って考えた方が無難かもしれない。
中流域から湿原を流れ下流域はキナシベツ湿原の海岸近くを西に流れ直別川と合流し太平洋に注ぐ。地名解では“キナ・ウシュ・ペッ kina-usi-pet蒲川”蒲が群生する川と云う事になる。キナシベツ湿原はそれ程大きな湿原では無いが湿原の周囲に人工物が殆ど無いという稀な所です。
直別は浦幌町との境界にある集落と川の名前。地名解では“チュク・ベッ chuk-pet (秋・川)夏日水涸れ、秋大いに張る”とある。何故秋の川なのかこれからは理由がわからない。秋川の川名を時々目にするが知里地名小辞典には“chuk,-i チュク秋 地名の中ではチュキペ chuk-ipe 秋の魚→鮭を意味する事があったらしい”と、つまり秋の川は鮭の遡上する川になる。夏の魚の場合は“sak-ipeサキペ→マス”となる。尺別川の一番妥当な解釈か、知里博士の地名アイヌ語小辞典は頼りになる。明治年代には直別川河口部左岸に渡船と施設駅逓があり説明板が浦幌町側の国道ぞいにある。
松浦武四郎爺に由来する地名と言うことで紹介。旧名西幣舞を幾つかの町に分割する時、釧路という地名を全国に知らしめ、弘化2年、安政3年、安政5年の三度に渡り釧路を訪れている松浦武四郎氏に敬意を表し、昭和7年に町名の一部を改め松浦町としたと云う。各地に松浦武四郎の記念碑などは多いが、町名が松浦氏に由来するのは珍しい。武四郎が釧路に足跡を印した当時の状況はの蝦夷日誌、久摺日誌、竹四郎廻浦日誌、東蝦夷日誌の中で克明に書き記している。松浦町は松浦公園、松浦通り、松浦橋、松浦郵便局と、ここではなんでも松浦である。松浦郵便局には弊舞公園にある松浦武四郎蝦夷地探検像の記念スタンプスタンプが有る。付け加えると松浦武四郎は釧路市の名付け親でもある。
幣舞は町名が細かく分けられる前はこの辺一体の地名だったが、今は公園付近だけの地名となっている。地名解では“ヌサ・マイ 木幣ある處”“ヌサ・オマ・イ⇔nusa-oma-i”で祭壇があり神事が執り行われたのであろう。祭壇は今の幣舞公園の付近に有り“ヌサ・オマ・ナィ・チャシ”が元名の様です。幣舞と当てられた字からも地名の由緒を窺い知る事が出来る。釧路は啄木の方が圧倒的に有名であり松浦武四郎の銅像が有るのは意外な印象も有る。元々松前藩の知領であり請負場所が置かれていたが、幕末には幕府直轄となり久寿里会所となる。武四郎の記録によると釧路はアイヌに対する抑圧と迫害が酷かった地域であり、運上屋の城下町でもあった。その釧路に和人で唯一人アイヌを養護した松浦武四郎の像が有る事は意外な気もする。幣舞公園にはエカシが指差す阿寒地方を見る松浦武四郎の像は釧路川上流を調査した安政5年から百年を記念して阿寒国立公園観光協会が有志の寄付を元に建立された。碑文をよむと、武四郎が阿寒の地を調査し景勝を紹介した功績を称え、阿寒国立公園の父として顕彰している。評価の基準が全く違っているのだ。
基本的な参考文献は地名のトップページに、弟子屈・釧路地方に限れば※森と大地の言い伝え・チカップ美恵子著がお勧め。
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