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第六章・同胞に咲き乱れる北社

 海辺に臨んだ国道沿いの村端の漁師の家である。もう時計の針は午後十時になろうとしていた。もう子供たちは深い眠りの鼾を立てている。

『ほんとうにひどい吹雪になったな~
こんな吹雪の夜でもソ連の沿岸警備兵は巡視しているのかな~』

工藤は、先日沿岸警備兵が壁に貼った
レーニンの肖像画を意味ありげに見詰めながら妻に囁いた。

『まさか、いかにロスケとてこの様な吹雪には出歩かないでしょう』

『それもそうだな~どうしたんだ?』

妻みよは、沈鬱な表情になってじっと聞き耳を立てている。

『どうした?又何時もの恐怖症の始りか?』

工藤は嘲笑うかの様に意にしない。

『ちょっと静かに!』

みよの眼は慄きに震えている。ビュー、ビューと吼える様に聞こえて来る吹雪の音に混じってトン、トンと表戸を叩く音がする。

『おっ、誰か来た様だ!』

今度は工藤が木石の様に耳を澄ました。この吹雪の夜、誰も来る者の居ない村端の一軒家、みよは何かに取り憑かれる様に夫の顔を憂い気に見詰め

『警備兵なのかしら?・・・』

それはたまたま夜中沿岸警備兵が堅く閉ざしている表戸を叩いて夫婦を呼起し茶の間に土足のまま上がりこみ巡視をさぼり居座って夫婦を困らせる事がしばしばあった。又もその歩哨の兵士かと思い込み、みよはギョっとしたのである。
しかし耳に響いて来る声は

『御晩です、御晩です。助けてください・・・』

気力の無い日本人の声だ・・・

『日本人の声だ!』

工藤は妻に同意を求めるように言った。

『そういえばそのようですね!』

『何の用事だろう今頃、とにかく開けてみようか』

『ええ』

みよもやっと釈然とした表情で夫に傾き、夫を見送り。工藤は表戸を開け、表戸の軋む音を耳にして席を立った。土間に全身雪だるまとなった男が立っている。

『何卒、今晩お宿して下さいませんか・・御願いします!』

工藤に縋る様に一晩の宿を願い出た正直そうな老爺が既に物を言う気力さえ失って悲痛な顔を向けて工藤の前に立っている。この男はようやくアニワから平原道路を通り抜けて人家に辿り着いた細井徳治であった。この激しい吹雪の夜、今時分がこの男を救ってやらねばこの男はすぐ雪倒となるであろう。すでに死の影が見え始めている。そんな幻影が工藤夫婦を押し包んだ。

『いいですとも、こんな時は皆お互い様ですよ、遠慮なく御泊りなさい』

工藤は相手が警備兵だ無い事にほっとしたのか、心置きなく彼にそう言った。

『まあー、大変寒かったでしょう・・・』

みよも老爺に近づいて夫の言葉に随う様に言った。工藤は徳治を居間に招き入れた、脱ぎ捨てた靴に中には雪が解けたのであろう水が溜まっている。ズボンも絞れる程にずぶ濡れに濡れている。全く超人的という言葉がピッタリと当てはまる程、この凍った激しい吹雪の中をよくここまで無事に来れたものである、その奇跡に等しい目の前の爺にみよは驚きの目を見張った。徳治は葉の根も合わぬ程にガクガクと震えている。みよは急いで部屋を暖める為ストーブに薪を入れた。

『さあ、ストーブの傍らに寄ってください、すぐに燃えてきますから』

ストーブはすぐに燃えてきたが徳治の小刻みの震えは依然として止まらない。

『あっ、ズボンを脱がなくては。冷たいでしょう・・・』

みよは気付いた様にそう言って、濡れたズボンを脱がせ、桶に湯を取りズボンの藍で斑に潤んだ足を拭いてやってから

『さー、早く着替えてください、風邪を引いては大変ですので・・・』

そう言ってそう言って徳治に丹前を差し伸べた。

『ありがとう御座います』

徳治は頭を垂れながら

『本当に御宅の御心使いにはお礼の言葉もありません』

夫婦に謝意を述べて心温まる思いで丹前に身を包んだ。体の動きは疲労の為か、何となく弱々しく打ち沈んでいる。それが傷ましく工藤の胸に沁み込んで来る。

『爺さん疲れたでしょうな・・・ゆっくりと休んでください・・・』

『はっ、はい・・・』

まだ寒さが除かれないのか、震え声である。工藤はこの様に冷え込んだ時は、熱いお茶でも飲めば早く体が温まるだろうと考えていた。徳治の濡れたズボンを水洗いし側の干棚に架けようとしているみよに

『おい 爺さんにお茶をいれてくれ・・・』

小声でみよを見上げた。みよも既にその事に気付いていた様に

『ええ、今すぐに・・・』

軽く傾きながら又も薪木をストーブに入れ終わると茶器を取り出しながら

『本当に寒かったでしょうね、まだ振るえがとれませんの?さあ、熱いお茶ですよ。どうぞ召上って下さいませ、そじて、ゆっくりくつろいでください』

徳治を労わる様に一服の茶を勧め、徳治の飯を炊くために台所に立った。ストーブは音を立て燃え出し赤く灼けてきた。その熱気が徳治の顔を次第に夕日を映した様に染め、部屋は一段と暖かくなって徳治の神経もやっと暖を感じる程になってきた。徳治の胸に仄々と暖かい夫婦の誠意が流れて来る、それが潮騒の様な安心感となって全身を潤してくる。だがこの安心感もものの二分間とは続かなかった。熱いお茶を飲んだ故か、胃がむかつき重苦しい気だるさが全身を覆っている。徳治は灼ける様なストーブの熱さの為と感じ後方に静かに居座退がった。ストーブを挟んで対座している工藤を額に汗を沁み込ませて

『爺さんもそろそろ熱くなった様ですね』

徳治が後方に退いた事を体が温まったものと理解したのである
工藤の問いかけに徳治は

『えっ・・・』

かすかに答えたきり、喘ぐ様に唇を動かし夢遊病者の様に視線を宙に泳がせ、何か言葉に詰まったのかと工藤はジッと徳治の顔を見守った。しかし、そうでもないらしい、瞼を閉じたその態に不審を抱き

『どうしたのかね?』

徳治の顔を覗き込む様にして聞いが
徳治はそれに応えず横に滑るように崩れ落ちた。

『おい!爺さんどうした、しっかり、気を確かに!』

大声で呼び起こそうとしたり、擦ったりして見たが口が利けないのか

『うん、うん・・・』

苦しそうな擦れ声だけ、急激な徳治の変わり方に夫婦は困惑した顔を見合せ、どう処置していいのか分からずただ狼狽するだけ。やがてみよは気付いた様に降伏当初より壁に掛けてある富山売薬の袋に手をかけた。神薬がある

『飲んでおくれっ、薬だよ。飲まなきゃ駄目』

みよは神薬を水に溶いて、必死の思いで徳治の口に当てたが、もうそれを飲む力も残っていないのか、薬液はただ頬を濡らすだけで体はぐったりとし、まもなく昏睡状態に陥った。

『まあ、どうしましょう、死ぬんじゃないでしょうね?』

みよは不安げに夫に訊ねた。しかし工藤はこれに応えずみよの不吉な予感を振り切る様に台所に行きかけ、みよは訊ねる様に

『貴方、如何する心算なの?』

夫を呼び止めたみよは柳眉を逆立て困惑の戦慄に慄いている。工藤は驚きと狼狽ともつかない焦燥感に駆られて、飯茶碗と、水を割って晩酌の代用にしているアルコールの入れてある一升瓶を台所から持って来て

『オイッ、注射液の入った小箱を出してくれ・・・』

『小箱を? あっそうだ』

大急ぎで注射液の置いてある戸棚の引き出しから小箱を取り出した。工藤はその小箱から小さなアンプルを一本一本つまみ出しながら小さなアンプルの文字に目を留め

『ビタカンフル、あった、これだ、これに違いない・・・』

彼は降伏時、壊走する軍より薬物を手に入れ、後程その薬物の薬理作用を聴き学んでいて、その中に、ビタカンフル・強心剤、という記憶があったのだ。これも日本人医師の居なくなった時の心細さが彼をそうさせたのだ、いまその記憶が彼の脳裏に閃き、実際に薬を見てその記憶を確かめたのである。工藤は軍用小型注射器を取り出し茶碗の中に入れ、それにアルコールを注ぎ

『うん・・・これで消毒は出来た』

と、次に手際良くアンプルの注射液を注射器に吸入すると、不器用な手付きでおそるおそる腕の皮膚を摘み上げ針を刺した。

『うん・・・』

工藤の口調は勤息にも似ている確信の無さが面に出て、妻にも隠せないのだ。
だが、こわごわと強心剤の注入を終へ、二人は深刻な表情でじっと昏々と眠る徳治の容態を見守った・・・沈鬱な二十数分ば瞬く間に過ぎ、工藤は徳治の脈に触れ息の根を殺した。

『うん・・・脈が戻って来た様だ』

今までか細がちな鼓動が次第に正常に力強く脈打ち始めた様に感じられる。

『注射の効き目が表れて来たのでしょうか?』

『うん、そうかも知れない 効いては来た様だ。はっきりしないが雪倒れ同然のこの老人をストーブの傍で急に温めたのが却って悪かったのかも知れない』

吐息の様にみよに言いつつ、昏々と眠り続ける徳治の顔を見ている工藤の胸に妙に不安な感じが突き上げて来る。今から二年程前の春、彼岸の頃で、同じ村の小型漁船が風雪を超えた激しい大時化の為に水浸しになって海岸に打ち上げられた。その船中にただ一人残っていた漁夫が半凍になって弱りきっていた。その漁夫をストーブの傍で冷え切った体を温めた所、急に意識を失い眠るように死亡した事があった。
人々の話では急に栽温した事が悪かったという噂が伝えられていた。
この老人も半凍になっていたのだろうか?

『(急に温めたのが悪かったのだろうか? 助かるのだろうか?)』

と、その事が先程から彼の意識に棘の様に突き刺さっていた。

『もしそうだとしたら・・・』

いたたまれない程の不安感に責められ隣家の助力に頼ろうと考え付いた。

『なあ、俺一人では駄目だ、二年程前の事もあるし・・・
誰かを呼んで来なくては、ちょっと隣まで行って来る・・・』

『えっ・・隣に? 駄目ですよ、この吹雪。貴方にもしもの事があれば大変です』

だが工藤はみよの言葉を聞き入れず表戸を開いた。しかし、その瞬間 強い風と共に雪がさっと吹き込んできて誰かの応援を求めたくとも隣家から程遠い一軒家、外では猛吹雪が闇夜に向かい吼狂っている。
みよは吹雪を見て夫の身の危険を慮り心を乱し夫の腕に縋り

『ねえ、致し方無いではありませんか。
おやめになって下さい、お願いですから・・・』

夫の行動を止めようとする彼女の目は夫の顔に注がれている。その上目遣いの瞳に夫の意図を阻止しようとする必死の決意と涙が含まれている。
それが工藤の胸に電流の様に伝わって来る。
彼は肩で大きく吐息し

『うん、ひどい吹雪だ・・考えても見れば
戦前と違って何処に行ってよいのやら・・・止めよう、止めよう』

自問自答する様に打ち沈んだ面をみよに向け

『そう、是非そうしてください』

安堵した様子のみよに呟くように

『そうだ、もう一度注射をしてみよう、奇跡が起こらんともかぎらんからな』

やがて夫婦は奇跡を念じつつ二本目の注射を終えて昏々と眠る徳治の顔から目を離さずに吹雪の吼音を聞きながらじっと見守っていた。夜も更けてきたので久子は床に就いたがなかなか寝られない・・・何時しか眠ったのであろう、ふと眼を覚ますと物音一つしない静かな朝である

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