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第壱章・二房の杜若

 久子の心を今日来るか明日来るかと脅えさせた兵士の復讐は一週間を過ぎても姿を見せない。ようやく穏やかな和やかさが彼女の胸に満ちてきた。

『久子ちょっとお茶を出してくれないか』

台所で夕食の準備をしていると、舅 徳治の呼ぶ声が聞こえた。濡れた手を拭きながら茶の間に出て行くと隣家の山田が居た。

『いらっしゃいませ』

軽い挨拶の後お茶の用意を整えて久子は再び茶の間に現れた。

『田中さんから便りが来たよ!』

徳治は茶を一口すすってから久子に一通の封書を差し出した

『今日山田さんの息子さんに頼んでよこしたんだ
息子さんと同じところで働いているそうだ』

『それじゃ今日息子さん山から下ってこられたの?』

『そうだ用事があってね』

徳治は付け加えて言った。あの晩に佐藤部落会長の指示で久子を助けてくれた徴用人夫の一団が部落にそれぞれが分宿になった。田中は久子の家に宿泊した人であった。田中等徴用林業夫は十数里もある遠融地から徴用になったのだといっていた。田中は久子よりも四から五才位の年上で東京外語の出身であるという、温厚そうな人格であるがどことなく笑う陰に哀愁を漂わせている。久子は夕食後燃えるストーブを挟んで田中と対座し語るともなく互いに身の上話を語った。
田中はソ連軍が眞岡港に上陸する際銃撃で母と妻子を失い血の繋がる人は誰も居ない天涯孤独になったのだという。まだこの悲しみから抜けきれないのであろう、手紙には一宿のお礼と久子への激励と慰めと田中自身のことが細々と綴ってあった。久子はこの手紙の奥底に秘められている田中の心中を思うと、それが久子自身の現実的な不安、光男の安否に変わるのであった。

『全くいやなこっちゃ、徴用、徴用ての』

山田と弱々しい徳治の会話が台所に居る久子の耳へ聞くともなしに聞こえてくる。

『この間自宅の息子と娘が徴用になったがわしは不服で堪らんで 一軒の家から一度に二人も徴用するなんて』

山田は佐藤部落会長の処置に腹を立てている様子である。久子にはその気持ちが良く理解することができた。久子が兵士の屈辱に塗ようとしたあの日、この部落にも造伐山に第一回の徴用があった。ソ連政令によるところもさることながら、徴用人員の選定に佐藤部落会長の私心が絡んで暗い感じを部落に投げかけているのだ。
北国の短い秋が駆け足のように過ぎ去り農村部落では収穫が終わる。これを待っていたかのように冬山造伐の徴用が第二・第三・第四と実施され、山野が深雪に埋もれる頃には各家庭では主婦と満十六才未満の子供と六十才以上の老人が部落に残るだけで働ける男女は全員徴用になった。 十二月になると樺太特有の寒波が押し寄せてくる、日没になると電線がキーキーと無気味な音を立てて鳴り吐息も真白に凍てつく厳寒、人々はこの寒波の訪れを凍れが来たと言う。

久子は身も凍る様な凍れを身に感じながら畜舎で馬草切りに手がはずんでいた。この時ギシッギシッと凍雪を踏む足音が聞こえて来た、久子はふと仕事の手を休め畜舎の入り口に視線を注いだ。

『なに、広光でないのよ。どうしたの?帽子を被らずうろうろしていると耳が凍るわよ、さあさあ早く家に行ってなさいね』

『だって、他所の小父さんが来て居るんだよ、母さんを呼んで来いって』

部落会長の佐藤だった。佐藤は如才なく毛皮外套を着たまま赤々と燃えているストーブの傍らに座した。

『あの麦茶でほんとに恐縮ですがどうぞ』

『これはどうも、嫁さんこうも寒さが厳しけりゃ煖が一番の御馳走じゃて
なぁに年はとりたくないものじゃ』

佐藤は麦茶を口にしながら

『ところで爺さんが見えんが何処へ行かれたのかな?…』

『はい隣の山田さんまで』

『爺さんのこのごろの容態はどうだね
遊びに歩くところみればもう治癒ったのだろう』

『いいえどうやら痛みが薄らいだだけなんですの』

『それじゃ治癒ったのも同様でねえか、明日徴用にでてもらおうか
この部落から食料を運ぶために馬匹を八頭出役させるようにビンジュコフ村長さんがこの俺に厳命したのだ』

『えっ、うちのお父さんに?
あのように病み上がりで体が弱っていますのでその様な仕事は出来ないと思いますが
何とか他のところで御都合していただけないでしょうか』

最近徳治は目に見えて髯や髪に白いものが増えて額や頬の皺も深く、歩くときは何時も両手を後ろに組んでいる有様で年寄りめいたというより、病気がまだ治療していないといった方が納得できる。久子は徳治の体を慮り哀願する様に佐藤の顔を見あげた。その語調には深い憂いが沁みでていた。佐藤は首を横に振った。

『いや他に人が居ないのでここに来たのだ
是が非でも出てもらわねばならん』

『でもお父さんには無理ですわ!』

『それじゃそうだ嫁さんに出てもらおう村長の命令なんだ
敗戦国人として異国に主を受けている悲しさ
村長には文句ひとつ言えないじゃないか!これも時勢じゃ』

『でも・・・・』

『出られんというのかね、そんな了見は俺は大嫌いじゃ
嫁さんも知っているとうり村の働ける者は全て徴用で遠地に出て
村には老人と婦人と子供しか残ってないんだ
そこのところを解かってもらいたいものだが』

『嫁さん 村長の命令なんだ 何かい それともどうあっても行けないと言うのか』

佐藤は語気を荒げて言った。村の食料販売店に配送する食糧輸送の使役である。ほどなく徳治が帰宅した。

『お祖父ちゃん寒くなかった?』

広光が甘えるように徳治に取りすがった。

『ちっとも寒くはないさ、こんな厚い毛皮の外套を着ているのだからな』

徳治は広光の頭を愛撫しながら楽しげに笑って、見せ厚い毛皮の外套を慮辺に脱いだ。それを久子はそっと壁にかけた。

『お爺ちゃん 寒いと神経痛になるの?』

『あら、この子、お父さんの神経痛を心配しているのかしら?』

目を丸くして徳治を見上げている広光から徳治に視線を移しながら久子は

『うん 爺々思いだね 広光は』

徳治の神経痛には、この寒気が一番の毒である事が幼子の心まで暗くしているのだと思うと、徳治は何か急に胸の底に熱いものがわだかまって来るおもいだった。(・・光男、光男、お前は死んだのか?・・)徳治は久子の入れてくれた麦茶を飲もうともせずに濃い茶の色を見つめたまま、又じっともの思いに沈んでいる。
いま徳治の体を激流の様に渦まいている悩みを久子は慰めることが出来ないのが、又久子の不安を誘う。(・・あなた・・どうしているの・・どうして何も知らせてくれないの!・・)久子も徳治につられて、次から次へと沸いてくる不安に苦しんだ 一日、一日と命を縮る思いでいる徳治の心情を察すると久子はその場に居た堪れずにそっと立ち上がった。

『あっ、そうだ手紙が来ていたんだっけ』

徳治は思いついた様に久子を呼び止めると壁に掛けてある毛皮外套を指しながら

『ポケットに封書が入っているよ』

『封書ですって』

『田中さんからではないのか』

徳治は無然として答えた。誰からも手紙など来るはずなどない今
久子は自分の耳を疑った。

『山田の子供が郵便局から持って来てくれたんだ。』

当時、田中は終戦期の日本人及び朝鮮人等の思想を取締る秘密警察に勤務していた。一ヶ月程こな雪の降った寒い夕暮れ時に大きな荷物を背負った田中が造伐山から突然下山して来た。

『あら、どうしました。体加減でも悪くなさって』

その事は久子等、村人達を不振がらせ。田中は

『友人の就職幹旋で今度秘密刑事の仕事をする事になり
それで嫌な徴用からやっと解放になったと言う訳で』

その様な事から久子の家に立ち寄った田中は、玄関の上り框で徳治と久子に告げ、その晩徳治と久子の薦めで田中は一泊。その後二度ほど田中から音信が遇ったきりで、しかも手紙は二度とも泊まった時の礼と月並みの事を書いてあった。文盲故一文字も読み書き出来ない徳治は田中からの手紙を疑う様になり

『お前に読んで貰おうと思ってな そのままポケットに入れてわすれていたんだよ』

悪びれなく言い放ち久子は

『これでしょうか』

手にしたソ連製の角封筒を不審気に思いながら取り出した。

封書の裏面を見た一瞬久子の顔色がさっと変化した。

『まあ!あの人から!夫からの手紙よ、手紙が来たのよ』

『何!光男、光男からだって!』

『良かった 良かったわ』

二人の声は善悦に打ち震えいる。
久子は震える指で封を切り懐かしい夫の文字に歓喜を感じ読み始める。

『皆様如何にお暮らしですか? 戦争が終わってから三年永い事自分めの消息を待ちあぐんだ事でしょう それもこれも戦争の生んだ不幸せ、致し方ありません』

久子は何時の間に自然に涙が滴り落ち字がかすんで見えた。

『今、この便りも皆のもとに無事到着するよう祈りながら記ためています この便りで悲嘆の涙に毎日幾度溺れ疲れ切った皆に幾分なりとも安心してもらう事が出来るのなら幸いです。体は至極壮健にて表記の捕虜収容所で労働に従事しています、老いた父母、そして自分の応召のときの久子とその背中に背負われた広光の面影が瞼より離れず捕虜生活は望郷に明け望郷に暮れると言った所です。』

久子は喜の涙で字が見えなくなり、じっと聴き入る徳治の目尻にも涙が膨れている。

『あー 無事で生きていて良かった、ほんに良かった。
明日から儂もお前共々人生に新しい活力が湧いて来ると言うものだ』

徳治は涙を堪え思い詰めた表情で久子に言い放ち、それが久子の感動を尚いっそう誘う。久子は側で自分を見つめ肩で息をする広光に

『広ちゃん!お父ちゃんが元気でいたのよ。
これ、お父ちゃんからの手紙なのよ。嬉しいでしょう』

『広の父ちゃん帰ってくるの?』

聞き返した広光に

『あ~帰ってくるとも』

徳治の言葉で広光は茶の間をばたばたと歩き回って喜びを表している。

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