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第弐章・徴用と花蘇芳

 久子は徳治に明日の徴用について佐藤部落会長の末意を告げた。

『そうか・・・神経痛を大分治まったのでな・・・いや、儂が行くは・・・』

『でも・・・お体に障らないでしょうか?』

『いや 大丈夫だろう、留多加までだから』

徳治は明日の徴用に自分が出ると、一人で決め久子を労わろうとする温かい気持ちのこもった言葉を発した。この留多加町は日本領有時(降伏前)人口約7千(1941年12月1日時7295人)、交通の要衝であり、樺太庁道新場西能登呂岬線、豊原留多加線、大豊遠節線、小里小原線が交差。亜庭湾に面し、北では豊原市及び真岡郡清水村、西では真岡郡広地村及び本斗郡本斗町、南では留多加郡三郷村、東では大泊郡大泊町と接し、樺太有数の肥沃な土地であり農耕適地が多かったことでも知られる。経済と交通の中心でありソ連の進駐後も留多加町は南樺太の日本地名をロシア風地名に改称する政令に基づきアニワ町と改称され、ここに南サハリン、クリル(千島)列島住民管理局民政署が設置され、郡の中心都市として振興を極めた。
徳治の住む村はこのアニワ町から南は三里半(約13km)程の海岸沿いに離れた所で、冬は深雪に埋もれ交通が遮断され陸の孤島にも等しく、冬期内の交通は馬の従歩に依らねばならない所だった。
部落会長の命ずる食料輸送はアニワ食料公団から村の食糧輸送の使役である。明日のあすの食料輸送の事を話している内に夕食が整えられた。

『食事の用意が出来ました、食卓に着きましょう。』

久子は徳治と広光を誘って自分も席に着いた。陰膳を傍らにシベリアの地に一片の黒パンに命をたくしている、還らざる光男を偲んで、舅嫁は萬感のこもる夕食の箸を取った。粗食ではあるが今宵は明るい歓の匂いが食卓に満ちていた。一方アニワ食糧公団倉庫から一台の馬橇が食糧箕物を満たし夜の町へ姿を消した。平川の馬橇である。平川はブローカーの仲間では親分株であり、それだけに四十個の食糧箕物に25.000ルーブルを支払った事を別に高価とも考えていない。衣服も食糧も切符配給制で人々は食生活に苦しんでいる今、この時の経済事情が食糧ブローカー達に暴利を保障する様な高値で売却する事が出来るからこそ25.000ルーブルを出しても安い買い物なのである。平川は町端の自宅までおおらかな気持ちで伴の若者に馬を追わした。凍雪を進むキーキーと言う馬橇の音を聞きつけた若者二人が早川の自宅から表に出てきたときに馬橇の後を尾けていた黒い若者が

『“ちょっと待ってくれ”』

呼び止められた馬橇に乗っていた平川ともう一人の男は予想しない、しかも機先を制する呼び声に反射的に声の方向に振り返り鋭い視線を泳がせ、母屋から出てきた二人の若者も馬橇に乗る平川に寄り口早な朝鮮語でなにやら話しかけた。平川は当惑気味に歩み寄ってくる人影が近寄ってくる人影に何か癪に触れた口調で

『“何故俺を呼び止めた。お前・・何処の者だ?”』

『“僕はアニワ食糧公団の者だが
この荷物をなぜ夜中に公団倉庫から持ち出した?”』

『“持ち出した?おかしな話だ”』

『“可笑しくない、公団では物を個人に渡さないから訊くんだ!”』

『“とんでもない
俺は今高い金を支払って買って来たばかりなんで悪い冗談はよしてくれ”』

『“食糧統制が厳しい時に君達に食糧品を売るはず無い、変な事を言うね”』

『“人を疑うのもいい加減にしてくれ、この食糧品は警察署の下仕官以上の特配品なんだぜ、それを俺の知人である警察官将校が俺に幹旋してくれた物だ、とんでもない言い掛かりは止してくれ!”』

『“知人の幹旋?下士官以上の特配品だと言うが、しかしアニワ地区の公団では小売配給店のように一般消費者への配給はしない筈だ。
君は誰からこの荷物を受け取った?”』

『“アブラモフ、倉庫番の係長、アキーム・アブラモフ氏からです”』

『“なに?これをアブラモフ氏から?”』

若いロシア人イヴァンはこの裏に何かあると確信し
尚も追及の手を緩めず緊張した面持ちで平川に迫った。
豆を散らした様に散在する農家に灯火の灯る頃やっと徳治は徴用を終へ帰宅した。栗毛は今日の激務を物語るように毛皮に白く凍り付く汗の跡がくっきりと白髪の様に浮出ている。

『久子、今日は栗毛が偉かったぞ』

そう言いと徳治は栗毛の体をブラシで擦り出した。

『あっ、そのような事をなさって御体に障ります。
私 お舅さんの姿を見て安心したのよ。疲れたでしょう!
後は私がしますから母屋に入って下さい。さあ、どうぞ。』

久子は願う様な眼差しで徳治に言うと徳治は母屋に入った。自分に出来る事なら何とかして徳治に苦労させまいと気を使う事が久子の心情である。馬に水を与へ、寸断した干草を飼料桶に入れて久子は畜舎を出た。

『母ちゃん、パンとバター 砂糖を爺ちゃんが町からこんなに買って来たよ。』

広光は色々を指示し得意になって久子に報じた。

『まあ!広ちゃん、良かったわね。お舅さん、これは特配になったのですか?』

『うん、配給店の食糧輸送をした関係で特配になったのじゃ。
パン七キロ、砂糖二キロ、バターが一キロの特配だ。
思い掛けない労賃を貰ったので本当に助かった』

『まあ!・・・』

久子はそれを見て、食糧不足で悩ませる今日、嬉しいやら珍しいやらで頬を硬ばしている。徳治はその素振りを見て

『助かっただろう。お前の嬉しそうな顔を見ればこのわしも自然と愉快になって寒かった事も浸かれた事もすっかり忘れられるよ。どれ、飯にしようか…』

『さあ!どうぞ。広ちゃんも座って!』

徳治は満面に笑みを浮べながら夕食の膳に着き、久子はパン、バター、砂糖を食卓に添えた。

『今夜はパン食かい?』

徳治は食卓を見て微笑み、一家は貧しい食卓を囲んだ。

『広ちゃん?美味しい?』

『うん!美味しい!』

『そんなに一度に食べてはお腹を壊しますよ?』

『だって!?美味いんだもん』

『困った広ちゃんね・・・今夜はすっかりロスケ風の食事なって・・・あら!?お舅さんもう良いの?』

『うん、わしはもう満腹だ。なんだかもう眠気が差して来たよ』

『きっと疲れたんでしょう・・・』

『うん、そうかも知れん。今日の荷物は重かったのでな義でも居なければ如何する事も出来なかった、ロスケは早くしろと急き立てるし大変だったわい…』

『では義ちゃんと二人で積んだの?』

『そうだ!今日の徴用馬は十三頭で隣組から石田、瀬川の爺と山田の義と四人で、わしは義と組んで荷を橇に積み込んでな…
やっと十二時頃までかかってやっと積み終わったんじゃ』

暗い灯りのランプの下で細井親子は食卓を囲み今宵の団欒を語合ってる頃、食糧配給店では食糧箕物が消え他のがわかり騒動となっていた。

『“所長、数えて来ましたがやはり足りません”』

と言いながら店員のボリシャコフが事務所に入って来た。
所長ベスサラボフは眉を動かし

『“そうか、他の荷物にも混じっていないんだろうな?・・・”』

ボリシャコフに確かめながらもう一度、公団から送られて来た送状を見直した。

『“はい、他の荷物は伝票通りですので”』

『“たぶんパーヴェルだろう、大方酒でも飲んで酔って公団から積み運んでいないのかも知れん。まあ、明日パーヴェルに聞くことにしよう”』

日本人馬夫を引率して食糧箕物の受領に行ったパーヴェルは公団箕物係長などと酒を飲み交わし酔いつぶれ配給店に着いてもまだ眠り続けていた。翌朝早く公団に電話を架け終にパーヴェルは唇を痙攣させ所長のピョートロに哀願するように

『“荷物は発送伝票とおりに払い出されているから
日本人馬夫が怪しいと自分は思います”』

『“君は呆れた者だ、公団からの受領数を確認しないばかりか
酒に酔い任務を放棄した結果こうなったのだ。どうする心算だ!”』

所長は吐き捨てる様にパーヴェルを怒鳴り付け、パーヴェルはすっかりしょげかへ首を項垂れ自分自身の虚理を忘れ所長の凝視を浴びている。

『“一刻も早く怪しいと思う馬夫を調べるのだ。
事と次第によっては警察の力を借りなければならない。早くするんだ!”』

所長の指示が下ったパーヴェルは配給店から飛び出した、鉛色の空から雪が舞っていたが体の方は火の様に熱かった。自分の俸給900ルーブルに比較しようも無い15.000ルーブル相当の食糧箕物の紛失している事を今朝、所長より忠告され愕然とした。その事が彼の脳裏にこびり付き離れず日本人馬夫に腹立たしさを覚える。

『“野郎!見付けたら承知しないぞ!”』

そう口走りながら徴用人夫の家を一軒一軒訊ね歩いた。

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