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『釧路の白糠町と十勝の国境に、ウコタキヌプリという山があり、山へ猟に行くときには、必ずこの山に木幣をつくって捧げることになっていた。ここはユケランヌプリともいって、昔、鹿を司る神様が天上から鹿の入った袋を下ろした所でであるという。最近までよく雷鳴がして、鹿の下ろされる音がしたという。足寄や白糠、十勝に鹿の多かったのは、この山に下ろされた鹿が峰を伝って人里の方へ下りて来るからだといい、白糠ではこの山から峰つづきの石炭岬やサシウシの岬に」酒をあげ、鹿を下げて貰うよう祈願した。』釧路でも掲載したので省略
『昔この地を北見アイヌが攻めたとき、ここの砦に立籠もった一族の防戦が強固で容易に破ることが出来なかったので、北見アイヌは一策を案じて砂で鯨の形を作り、その上に魚を棄てて置いた。朝になって鳥や狐がそれを見つけて大騒ぎしているので、砦の連中はよく確かめないで寄り鯨だと思って砦をおりて砂鯨に近寄っていったので、敵に囲まれて散々に破られてしまった。』酒井章太郎・十勝史・更科源蔵・アイヌ伝説集より。
『昔厚岸のアイヌが船で釧路と白糠のコタンを攻めた事があった。この戦いは白糠アイヌが不利になり、この沼地の処で多くの人が戦死し、その屍体に鳥が沢山集まって騒いでいたのでパシクルと名付けられたという。更に音別ヘ寄ったところにフレナイ(赤い川)という小川があるが、この川はその戦いの時、白糠首長が厚岸アイヌの毒矢にあたって倒れ、その血が真赤に川に流れるのを海から見ていた厚岸アイヌは、フレナイと名付けたという。なおそのときの白糠首長の居城は、現在の十勝厚内の海岸にあるオタフンベの砦で、この時最後の決戦がここにて行われたが、この砦に拠って白糠軍は頑強に抵抗したため、さすがの厚岸郡も攻めあぐんでいたところ、ある朝、砦の白糠軍はやかましい鳥の鳴き声に目を覚ましてみると、沖には厚岸軍の船の姿がなく、その代わりに海岸に大きな鯨が打ち寄せられて、それに鳥が集まって大騒ぎしているので、武器も持たずに砦をおりて鯨に近寄ると、その影に隠れていた厚岸軍が突然に現れて攻められたため、散々に敗北してしまった。鯨と見たのは厚岸軍が夜中に作った砂の丘で、そのうえに油を塗って置いたので鳥が集まっていたのである。』白糠町・貫塩喜蔵エカシ伝
『昔この砦に爺さんと婆さんが住んでいた。或る晩婆さんが水汲みに川に下りていったところ、耳輪に月の光があたってキラキラ光って見えたので、厚岸の者が矢で射殺した。その後厚岸勢はきっと爺さんもいるにちがいないと思って待っていたが、爺さんは姿を見せないので、海岸に砂を盛り上げて鯨の型を作り、その上に魚の皮を上げておいたら、鴉がそれに集まって騒いでいるので、砦の中の爺さんは鯨が寄ったのだなと思って砦に出たところ、厚岸方に射られ、着物が破れ睾丸も傷つき、川を跳ねたら川の中に睾丸が落ちてしまった。それでも逃れて音別のあたりまで逃げたが、そこで殺されてしまった。厚岸の連中は勝ちほこって歌をうたいながら沖を舟で通ったら、蜂の大群が飛び出してきて、厚岸軍に襲いかかって刺し殺し、たった一人だけその事実を伝えるために生き残った。それでその蜂のいたところを音別の人が通るたびに木幣をあげ、そこをチノミというようになった。』白糠町・相戸ヤエフチ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より。※厚内と直別との中間附近の海岸に国史に指定されているオタフンベチャシ跡に残された伝説。チャシ跡はお供山型の典型的なチャシ跡で国史に指定。別名で乙部チャシとなっているかも、元々はオタフンベに乙部をあてたものか? 意味は砂鯨ということでしょう。
・旅来チャシの伝説1
『往昔アイヌの首長この居城にして根室北見のアイヌと兵を構えし処の古戦場なりしと口碑に伝う』河野常吉ノート・宇田川洋・アイヌ伝承とチャシより。
・旅来チャシの伝説2
『この砦趾はその昔カムイの作ったものであるという。ある年、好戦的な日高アイヌがこの地を攻めて来たとき、十勝アイヌは旅来にこの砦趾を作った。攻め来る日高アイヌを防ぎ激しく対陣すること数10日、遂に十勝アイヌは日高勢を敗り、十勝を守ることに成功した。しかし、十勝アイヌの酋長は不幸にして敵の矢に当り、深い傷を負ったのである。酋長は傷にもめげずこの砦域に四肢を踏張って立ち、日高をにらみながらタップカラ(神楽)を舞い、舞い終るや、その場に倒れ遂に死んだという。やがて部下達は戦勝の英雄として死んで行った酋長のことを忘れず、この地をタップカライと呼ぶようになったという。』北海道十勝振興局・豊頃町史より
・旅来チャシの伝説3
『聞くタビコライとは首長タビコといえる者昔此城砦に於て戦死せしより名づけたりと。一説には十勝アイヌと日高アイヌ此処にて激戦し、大捷を博せし当時戦勝を祝賀せんが為「タップカル」の踊りを挙行せしより此名称起りたりと云々』安田巌城・宇田川洋・アイヌ伝承とチャシより。※アイヌ伝承とチャシには他の伝えも掲載されている。チャシコツは二つあり道々大津旅来線の海抜40mの高台にあるAチャシコツと、それから100mほど離れた海抜45mの高台に有るのがBチャシコツ。アイヌ民族の伝説があるのはAチャシコツの方という。
『カンガンは総て動物の腸をいう「ピラ」は崩崖なり此地曽て十勝アイヌと日高アイヌ闘争せし古戦場にして、戦死者の腸突出しありし場所なりしより、名づくとも伝へ、又往古一大海嘴ありし節、鯨の腸此ピラに打ち揚げられしにより、此称ありとも云い、又一説には鹿の腸を委棄せし処ともいへり。』北海道庁編・北海道の口碑伝説・宇田川洋・アイヌ伝承とチャシより。
十勝日誌にある『リフンライ・・・・・その上にはトイチセ(竪穴住居跡)が三十余りある。土地の者は小人の住居の跡だと言っている』松浦武四郎・十勝日誌※JR根室本線を望む河岸段丘上の礼文内チャシコツ(第二)跡の事か?
『安骨の原名はチャシコツというアイヌ名で昔十勝アイヌと日高アイヌが戦った跡といわれる。』北海道教育委員会・チャシ台帳。『寛政年間十勝アイヌと釧路アイヌとの古戦場なりと口碑に伝わる所なり』河野常吉・河野常吉ノート・宇田川洋・アイヌ伝承とチャシより。
『昔カシピラ(常室)の酋長がコタノロ(池田町と豊頃町の境界をなしている沢)を襲撃した時、コタノロ軍の伏兵に要撃されてコシピラ軍が惨敗し、遂に退却して豊頃町の小沼に身を投じ全滅し、豊頃コタンが無人の地となったという伝説から生まれた地名であるという。』北海道十勝振興局・豊頃町史より
チャシ跡については豊頃町の史跡となっているので豊頃町で紹介しています。伝説に関しては重複するのでアイヌ伝承とチャシにある話のみ転載しています。
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