南宗谷、北オホーツクの昔話とアイヌ伝説‼

トイラムシの由来 (猿払村)

地名に有る由来とか伝承は単純な内容が多いが、これは松浦武四郎の「戊午日誌」から『往昔は本名トイカルシと云し由也。其名義、魚を多く取りて持ち帰ることもならぬほど捕れしが故に、此所にてその腹を割りて捨、軽くなして帰りしが故に号しとかや。腸を投げ捨しと云儀也』西蝦夷日誌では『昔魚(の臓物を)捨てたる故事あり』と明治以前に記録されのは簡潔な事この上ないが、明治も末頃以降になると、脚色された内容の伝承話がやたらと増えてきて戸惑う。ただ武四郎の西蝦夷日誌や戊午日誌にしかないのは昭和後半まで世に知られる事がなかったため、後続の創作民話がないという皮肉な現象も有る。

モケウニ沼の謎 (猿払村)

猿払村・モケウニ沼

今のモケウニ沼に関する伝承ですが内容からすると本来は沼のことではなかった様です。最も古い上原熊次郎の記録では『昔時、蝦夷共(アイヌの人達)氷海の開けし頃、水豹猟に沖合に出し処大風にてしけに相成、溺死せしもの夥敷、此の海岸に寄りし屍骸を爰に埋めしに字になすという』凡そ30年後の松浦武四郎の日誌では『ケウニ・此処より子供の屍骸上がりし故事有』『ヲンネケウニ・昔大人の屍骸が流れ来たりと』と内容に変化が有る。最初は海岸がケウニ、武四郎が訪れたときは海岸がヲンネケウニ 内陸がケウニと伝承に変化が有る。モケウニ沼を真ん中にして3つの沼が並んでいるが一番大きい沼がモケウニとなっているのを不思議に思っていたのだが、モは「mo-kew-i」のモで「小さい・骨・所」と云う事になり、沼の大きさとは無関係と云うのが判って納得した。ケウニ自体は非常に意味が分かりずらい地名で蝦夷語地名解では「chi-ni」とし枯れ木としたが伝承からすれば「骨」でしようね。間違っても観光協会のサイトには出てこない話。

箱チャシとライチシュカラブ (浜頓別町)

ライチシュカラブは松浦武四郎の蝦夷日誌に『ライチャシ・此処に蝦夷の大将死せしと云う城跡有・土器杯時々掘り出すとかや』『シヲチャシ・古塞有るなり』西蝦夷日誌に『ライチシカ・死にて泣いた所』と。つまり死者の為に泣いた所と言う地名にはそれなりの伝承が有ったと思われるが、蝦夷語地名解では『アイヌは諱て実を語らず』と有る。ライチャシとシヲチャシは距離的に離れているが何らかの関係が有るかもしれない。大将は誰だったのかは不明だが「シヲチャシ」に関しては新岡氏の説を要約『シオプまたはスオプの、プが消えた形、シオプ(スオプ)は箱の事、箱の様な形の館と考えると磯谷則吉の「蝦夷道中記」に享保元年ここの酋長はシリメキシユと呼び、7間(12.74m)四方の大きな家に住み、柱は1本も使わず、四方から棟を寄せかけ、屋根は笹で葺いていたと。田草川伝次郎の西蝦夷日記にも、トンベツ乙名シリメキシユヱとあります。この酋長の名が記録からなくなる頃から、この地名が現われ武四郎の日誌に出てきます』と有る。素直に考えるとシリメキシユヱが亡くなって泣いたと云う事なのかもしれませんが謎にしておきましょう。

カムイエトの大亀伝説 (枝幸町)

枝幸町・カムイエト

松浦武四郎の記録には亀を示す記載は無いが、江戸期の「北陲日記」には『土人云。此間海中有大亀。有時浮出。即岬神也。船者必酒』と「ここに大亀が棲み、土人がこの岬沖を通行する時、海中に酒を注いだ」と誌されている。亀に関する伝承はオホーツク海では他に稚内に有るだけの様で少ない。亀は海を支配する神とか海を支配する長老とも言うとの事で、神話とのつながりが深い生き物という。つまりこの大亀は、岬の神だったと云う事になります。カムイエトの別の意味も含めて興味深い話です。

オホーツクのオショロコツ (枝幸町)

枝幸町ウスタイベの北海岸に、オソルコツという小さい湾が有る。オショロは元来尻の事としたが知里真志保博士は別説、ただ地形としては大差ない。そのオショロコツには伝説が残されている事が多い。なぜならこの尻の持ち主がアイヌ三大神であるアイヌラックル、オキクルミ、サマイクルのいずれかを指す(この三神は兄弟ともいい、また後二者だけが兄弟神とも云う。また日高シベチャリ川から東、十勝、釧路、北見と石狩川あたりではサマイクルが唯一の絶対神で、逆にシベチャリ川から西のシュムウンクルたちはオキクルミが最高神でしている様です)ので伝承が有るのは当然と云う事になる。ストリーとしては『海岸で、死んで漂着した寄鯨を拾いあげ、大きな串に刺して焼いていました。カムイが少し油断しているうちに、焚火の炎が串の根元につき、燃え出して串が折れ、それに驚いたカムイは、思わず尻餅をついてしまいました。その跡はへこんで、今は湾(窪地)になって残っている』主に海岸段丘上の尻の形に似た窪地にこの名が有る。海中に岩がある場合は鯨を焼いた串が折れて、岩になった。串の材料は大抵の場合は大きな蓬の幹と云う事が多い。

枝幸町名起原の伝承

枝幸の地名起源については色々な説が有るが、地名が複数で有る事はアイヌ語地名では珍しい事ではない。ただ地名と関連の深い伝承も有るので紹介しておく。西蝦夷日誌には当時の世話役アイヌが松浦武四郎に説明した内容『エは喰、サシは昆布の事と。昔し飢饉の時北海岸(オホーツク沿岸)の土人此処へ来たり、爰にて命を保ちしが故に号しとヒカタ申口』と記す。枝幸町のHPでは「アイヌ語の「エサウシ」から転化したもので岬の意があります。また頭を浜に出している事から名付けられた」と有るが、当時の枝幸アイヌはエサウシとは違った解釈をしていた。

郡(こおり)の沢埋蔵金伝説 (中頓別)

郡の沢は埋蔵白金と云う事だが、頓別川の本流を挟んで、中頓別町の松音知対岸の沢の話。兵知安川流域が砂金の優良鉱区で今も砂金公園が有るが本流筋は白金も出た。その頃に郡の沢である夫婦者が採金していたが、当時の白金は値が安く夫婦は採取した白金を、捨値で売るのが惜しくビール壜につめて保存した。この夫婦が死ぬ前か、どこかに去った時かは不明だが、そのビール壜を地下に埋めたという。その後何年かたって戦争が始まると貴重な白金資源を求め、海軍がその噂をきいてここに探しに来たと云う。結末は不明のままですが、管理人が学生の頃は郡の沢ではなく「ババ殺しの沢」になって、埋められたのは砂金と噂が一人歩きしていたが、珍しいのはコールドラッシュ時代の楽しくて怖い話と云う事。

川尻チャシ・オタヌプリの伝説 (枝幸町)

北見幌別川の川口から少し奥に入った湿原に、大小2つのチャシ趾がある事は昔から知られていた。どちらも幌別川の流れが丘の一部を島のように取残したもので、オホーツク文化期からアイヌ文化期まで利用された様です。松浦武四郎の地図や記録にもモシリナイと有るがチャシの記載はどの日誌にも有りません。多分伝承を伝える人がいなかったのでしょう。何故か川尻チャシの伝承が見られる様になるのは、昭和に入ってからで奇異と云うしかありません。それと共通しているのはハマナスの花が終わる頃と云う事で秋というのがキーポイント。これだけのチャシと文化の継続が有れば伝承は残っていても不思議では有りませんが、原型は著しく変っているでしょう。ただ戦争の相手が天塩アイヌとかオロッコというのは気になりますが。元ネタになっているのは「北方文明史話」の幌別の鯨と更科源蔵遍「アイヌ伝説集」らしい。此処では最悪のパターンを紹介しておきます『ニシナイ川と次のモシリナイとの間の湿地にある山。オタヌプリは砂の山の意。昔この上に砦が有って、敵に攻められたとき、此の岡に鮭の生皮を敷いたので滑って上れなかったと云う伝説がある。更科源三・枝幸町地名解』これを読むと砂山を砦としていますが、この位置は本来のチャシそのもので、砂山は別にあり大正5年の暮に大暴風で消失。つまりこの砂山が消滅した後に作られた話と云う事が判る。まして鮭のシーズン、冬に備えて戦どころでは無いはず。つまり伝承としては致命的なミスが2つも有ると云う事になる。

チトシュマコタンの幽霊伝説 (枝幸町)

枝幸町・ウカウシュマと同類の岩

西蝦夷日誌では『人家跡多し死に絶たる村跡に幽霊が時々出ると云う。故昼計歩行ねばならぬと云う故事有り』と。伝承と云うよりは怖い噂というニュアンスが強い、信仰心の厚いアイヌには強烈なインパクトを与えろう。廻浦日誌では「此所も古くは十余軒有り、近年まで五軒残りし由なるが今一軒もなし」と。チーは我、トシュマは走り過ぎる。お化けが出るので昼間に走ってコタンを通り抜けないとならない云う事・・貴方の背後には幽霊よりもっと怖いカミさんが・・・そんなことはないとは思うが・・

カムイウシ (ウカウシュマ) (枝幸町)

枝幸町・カムイウシ

海馬と熊王が戦った岡島の伝説、岡島という地名は西蝦夷日誌ではウカヲシュマ、永田解でウクワ・シュマとしています。ウクワは取るという意味から、手玉に取って投げるという事で「古ヘ山中ノ熊王ト海中ノ海馬(トド)ト戦ヒシガ、熊ノ力ヤマサリケン、海馬ヲ取リテ引キ裂キタリシガ、神来リテ其熊ヲ取リテ引キ裂キ、海岸ニ投ゲタリ。其熊ト海馬ハ岩ニ化シ、遂ニ海馬ノ上ニ熊ヲ置キタル岩石ニナリシト云小説アリ」と説明。西蝦夷日誌では『昔、熊と海馬と角力取致し、熊海馬を押して其まま岩に化したりと。今そのいわ岡に有るよりに号と』有り、ここの地名はウカウ・シュマが原形で、重なり合った海岸の岩を指したのかも知れません。その近くに有った大岩を蝦夷日誌では『カムイウシ・木幣を立て祭るなり』といい「心霊ある所(岩)」という意味らしく神聖視されていた。枝幸町史によると、現在の熊石という岩の様で、近年まで漁夫たちが祀っていたと云う。岩に文字が掘られていたが判読出来ず。

ヤアマウシの栗伝説 (枝幸町)

問牧の北にも有る地名。松浦武四郎の西蝦夷日誌では「ヤアマウシ 本名ヤムニシヤヲマナイなり。往古神が栗を拾い玉ひしがドングリの実と思ふて捨置れしが生えたりと故事有り」と当地の伝承を記している。「yam-ni-us」で栗の木の事だが「分類アイヌ語辞典」によれば元々北海道には栗は無かった。アイヌの間には「クリは本州からの移入を示す神話がある」と知里博士が書いている。もしかするとそれと関係有るかもしれないが、山臼の語源としても気にはなるところです。

落船山の伝説 (枝幸町)

音標の西に落船山という山があり、船を逆さに伏せたような形で、昔北前船と呼ばれた帆船が、エサシ場所やモンベツ場所に交易に往来していた頃、ある時大竜巻が海上に起こり、沖を通行中の帆船がこれに巻きこまれ、遠くの山中まで飛ばされてしまいました。そして、現在の落船山があるところまできて、逆さに墜落しました。そしてそのまま、山になってしまいました。ですから、この山の付近には、今でも当時の金具などが、落ちているそうです。もちろん松浦武四郎の記録にはない話です。多分山の形が似ている事と、山麓を流れる川の名が、オチプニサンから其まま日本読の落船山ヘ、絵に描いたような和人作伝承と云うことです。オチプニサンの意味は「そこから舟材を海の方に下ろす所」と云うことなので、落船山とは見事につながりません。でも楽しい話では有りますが

失われた伝説と伝承話の本物は・・・

音標岬の南東約15kmに浮かぶ周囲1kmのゴメ島を、蝦夷日誌ではチエシチシで「昔しは此の島に人家ありと云い伝う也」と、西蝦夷日誌では「トンナイウシモシリ」でトンナイウシへ「島から爰え弓射たる故事有り」と記す。松浦地図は“チエシキチ⇔chi-e-kisi”で、チエキシを新岡氏は「我等の水上に浮いた油玉」とし島を神聖視して呼んだらしいと。また海岸にクオナイと呼ばれる所があって、これらの言葉は天地創造の伝説などにも出てくる事が有り、失われた伝説があったかもしれない。【参考の伝承】戦に関する伝説では季節が鍵を握る。史上有名なアイヌの反乱や抗争は春から夏まで、勝ち戦でも秋には中止している。これは秋が彼らにとって冬に備える大切な季節で、この時期に戦をしていると冬には餓死する運命がまっている訳で、秋の戦など殆どあり得ない話になる。神話の世界では絶対神として西部はサマイクル、東部はオキクルミと云うのが一般的(一部例外は有る)で、時には義経(判官)や弁慶に置き換わるが、これが異なったり、神ではなく普通のアイヌの子供とか女性になるのは殆どあり得ない事。義経(判官)や弁慶に置き換わっているのは其の内容が意図的に変容されている可能性もあり得る。口承では長い間に内容が変化しているため、史実との関連を確認する事は難しいが中には想定出来る話もあり、伝承話を見る時はこの点に注目してみよう。観光パンフレットでアイヌ伝説の紹介が時にはあるがまともな紹介は稀。『少なくとも伝説というからには、江戸期か明治期の文献や記録にでてくる、物語を対象にすべきであろう』との新岡氏(枝幸郡のアイヌ語地名著者)の主張は最も妥当な見解。

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