☆更新情報など☆
トップメニューとレイアウトの一部を変更しました。
各地に点在する炭鉱遺産はその多くが廃墟というのは無く消滅という道を辿っている。残された遺蹟も自然の中に飲み込まれやがては姿を消す運命。その中でも歌志内に残っていてまだ当分は見られそうなものとしては二つの立櫓とズリ山ですが、ズリ山は緑化などで一見しただけではズリ山とはわからないでしょう。また炭鉱と関係のありそうな施設跡も時々みかけます。
旧住友歌志内砿の厚生施設として建てられ昭和28(1953)年にオープンした劇場・映画館で、住友歌志内砿の閉山後は利用される事もなく廃墟同然の状態に陥っていたが、昭和59年放送の倉本聰のドラマ『昨日 悲別で』のロロケ舞台になったことで、市内の有志によって保存運動が展開され、これに伴い会館の一部も改修され、映写室には当時使用された映写機が保存されている。「昨日 悲別」のブームが去ると訪れる人は減少し、建物の維持管理も困難となりしばらく閉鎖されたロマン座ですが、再度修復されて2008年より軽食喫茶を営業して再開され、四季の節目にイベントやコンサートの会場として利用されている。詳しくは悲別ロマン座のサイトで、最近のことはロマン座FBの方が早いです。冬期間は閉鎖しています。詳しくは悲別ロマン座のサイトで、最近のことはロマン座FBの方が早いです。冬期間は閉鎖しています。◇所在地:歌志内市上歌1 ◇Mapコード:43.522673, 142.052834
北海道炭礦鉄道株式会社が空知炭鉱の社員合宿所として建設後、幾度となく増改築を重ね昭和2(1949)年には別館が建築された。昭和29(1954)年に社員合宿所を分離・改造し、接待専用クラブとなり、炭鉱本社幹部、来賓等、限られた人達の接待、会食、宿泊等の迎賓館として閉山まで使用された。建物の一部は撤去されたが西洋風の本館と数寄屋造りの別館を修復し「こもれびの杜記念館」と名付けて保存している。かつては普通の人が近づけないような施設だったようですが、今は一般公開されているようです。公開期間は5月1日~10月31日、建物内部の見学は事前予約が必要で希望日の1週間前までコミュニティセンター迄、外観を見るだけなら制限なし。◇所在地:歌志内市本町74-4
移設経過の碑より少し長いが転載「上歌志内地区における開砿は、明治28(1895)年である。以来、昭和28(1953)年の住友赤平炭砿との合併まで掘り続けられた。この間、石狩石炭・坂炭砿・住友坂炭砿・住友鉱業歌志内鉱業所上歌志内砿などと名称を変えている。2度の災害(大正末期・昭和初期、ともに70数名殉職)をはじめ、様々な出来事があり、石碑が建立された。山神社周辺に散在していた石碑は、それらの出来事を物語っているのである。この度、住友赤平炭砿がこの地区からの撤退を決め、土地を道庁に返却する事になった。地元の町内会有志と歴史資料保存会は石碑の散逸を惜しみ、一ヶ所に集めて保存し、後世に伝えることにした。本日、その完成式典を挙行したのである。なお、そのための諸経費は、住友赤平炭砿を初めとする市内の有志と、地元の町内会有志などから醵出された。昭和62(1987)年10月10日 歌志内歴史資料収集・保存会 厳堂謹書」住友上歌志内砿事務所跡を公園に整備し石碑9基を移設、新たに住友石炭上歌志内砿斜坑坑口跡の標柱設置、平成20年8月には旧住友石炭・上歌・赤平・通洞坑入口の碑が建立されている。◇建立年:昭和62年10月10日 ◇建立者:歌志内歴史資料収集・保存会 ◇所在地:歌志内市上歌 上歌史跡広場 ◇Mapコード:43.525091, 142.057327
上歌志内にあった馬頭観音ですが発起人や世話人の名前には北炭系と住友系の方達の名前があるとのこと。馬を使役した運送でどちらの炭砿でも請け負っていたという事でしょうか。いずれにせよ大正から昭和初期は坑内で馬が活躍していたということでしょう。山神を祭っていた神歌志内神社参道近くに建立されていたのを、歌志内歴史資料収集・保存会が昭和62年に上歌史跡広場に移設されました。東光地区にも大きな馬頭観音碑があったようですが確認できず。◇建立年:大正14年5月13日建納 ◇建立者:石巻熊吉 ◇移転年:昭和62年 ◇所在地:歌志内市上歌 上歌史跡広場
山神社山道の右脇に設置されていたが、元々は竪坑の傍に建立されていたのを炭住を建てるため移転させたという、神社も同様の理由で二度移転したとのことです。最初に建立された場所から推測するなら、上歌志内砿では大正13年と昭和4年に70人以上が亡くなる事故があったので、坑内に入る人々にとっては安全祈願という意味が込められた碑でもあったと思えます。山神社にあった狛犬と同年月に建立されているので同じ人達によって建てられたと考えられています。狛犬(小)二体、狛犬(大)二体、石灯籠二体は山神社にあった石碑でしたが、歌志内歴史資料収集・保存会が昭和62年に上歌史跡広場に移設したもの。神社がそこにあるよう雰囲気が漂っている。◇建立年:昭和13年5月 ◇建立者:上歌志内礦 救護隊員一同 ◇移転年:昭和62年 ◇所在地:歌志内市上歌 上歌史跡広場
北海道では滅多に聞かない名称だが、土地に土着し主としてその土地を伝統的に領有する神の事で、北海道では地神という事が多い。地域によって言い方は色々とあるようですので、此の地域に住まいした人々の出身地と関わりがあるのでしょう。敗戦直後の食糧難の頃にはこの碑のあった急斜面も切り開かれて畑になり、その畑と山の境に地主神の碑が建てられ豊作を祈ったのでしょう。僕は初めて見たタイプの碑でしたが、山神社近くで笹藪の斜面にあったのを、歌志内歴史資料収集・保存会が昭和62年に上歌史跡広場に移設したもの。◇建立年:昭和21年9月吉日 ◇建立者:上歌地神碑建設世話人会 ◇移転年:昭和62年 ◇所在地:歌志内市上歌 上歌史跡広場
碑文を転載する。「昭和30年代住友赤平・上歌砿と合併に依り、通勤、通院、買物に約四百段の階段を裸電球だけで降りて坑内電車で赤平砿までかよう。帰りも又大変な背の重荷を感じて黙々と歩いた仲間達で旧住友社員上歌現住者にて設立記念とする。上歌在住協賛者(氏名省略) 立活皆真ナリ 平成20年8月11日 建立」※仕事も買い物も通院も今は密閉されている坑口から入って戻って来た歴史があった。第三者か見れば只の坑口であるが、ここに住み働いていた人々には人生の多くがここに凝縮されていたのであった。史跡広場が出来てから20年以上を経て建立された歌志内でも新しい碑となります。上歌史跡広場となっている歌志内砿事務所跡には住友石炭上歌志内砿東斜坑坑口跡もあり標柱が設置されている◇建立年:平成20年8月11日 ◇所在地:歌志内市上歌 上歌史跡広場
道道114号線を歌志内市街地から東に一キロ程進むと左手の斜面に白い円筒形の建物が見え上に巨大な歯車(滑車?)や鉄骨がみえる。大正2(1917)年に坂市太郎が斜坑開削など行い、大正6年に坂炭鉱(株)が設立され、大正13(924)年に住友合資会社と共同経営となり、大正13年には住友坂炭鉱、同14年に住友炭鉱上歌志内鉱などを経て、昭和28年には住友赤平炭鉱に統合された。 道路から見えているのは上歌志内炭鉱時代に建設された立坑櫓で深さは248m、人員・石炭運搬用に使用されていたが、昭和62(1987)年の坑口を集約する合理化で、歯車の停止以降は住友赤平炭鉱排気立坑として平成6(1994)年の閉山まで利用されていました。排気効率を図るため立坑櫓を覆い筒状にしたので、外から見えていた櫓鉄骨構造は見えなくなり、立坑の補強のため建設されていた擁壁は覆土のため幻となりました。◇所在地:歌志内市上歌 ◇Mapコード:43.523452, 142.051389
少し開けた原野にコンクリートの建物群があり、その中から灰色の四角いタワーの様な建物が聳えている。約100年の歴史がある空知炭鉱を象徴する立坑で本体が壁で覆われ、竪坑の様には見えない。道内では最も遅い施設整備ということで当時の最新技術を用いた構造が採用され、北炭時代の昭和35(1960)年に竣工され、のちに空知炭鉱に経営が引き継がれたが、平成7(1995)年の閉山まで使用された。かつては立坑、選炭工場などが沢沿いに展開し石炭生産システムの教科書のような炭鉱だったというが、現在は立坑と事務所のみが残る。空知最後の坑内堀炭鉱である空知炭鉱の立坑は地上約30m、深さは250m、立坑部分が囲われた閉鎖型立坑で道内では珍しいという。事務所は現在も使用されているが、地下部分は閉山時に密閉された。◇所在地:歌志内市東光27 ◇Mapコード:43.511294, 142.052106
移設経過の碑より転載「御大禮紀年碑北炭神威砿西山砿跡地に、馬魂碑は神威砿坑口神社跡地に、安全之塔は桜沢入口と神楽岡入口に、そして新歌志内炭礦之跡碑は住友新歌志内砿を見下ろす峠、それぞれ立っていました。歴史資料収集・保存会は守り手のいなくなったこれらの石碑を一同に集めることを決め、市・空知炭鉱・住友赤平砿をはじめ各事業所・各個人の絶大な支援のもと、平成4年の秋と同5年の春この地に移設を実行しました。歌志内100年の歴史を知る一助となることを期待します。1993(平成5)年5月吉日 歌志内歴史資料収集・保存会 記 豊山 筆」※これで完成という事ではなさそうですが、新たな碑の移設はないようです。歌志内の石碑は「歌志内・歴史の散歩道・石碑石仏を訪ねて 歌志内歴史資料収集・保存会」を参考にしました。◇建立年:平成5年5月吉日 ◇建立者:歌志内歴史資料収集・保存会 ◇所在地:歌志内市神威 ◇Mapコード:43.505820, 142.018872
新歌志内鉱はかつて神威より約4キロ程入った山あいにありました。明治40年に日本興業(株)が許可を受け試掘、同44年9月に奔別炭鉱(株)となり大正6年開砿、、同7年に山下鉱業、13年に北海道鉱業と代わり、住友上歌志内と住友赤平砿が合併した昭和3年に住友坂炭鉱(株)の経営に移るが昭和28年8月3日閉山。その後の昭和32年5月に幸袋興業(株)が住友新歌志内鉱跡地を買い取って再砿するが昭和38年3月31日に閉山。新歌志内砿閉山後に無人となるが、再開砿後には小学校も新たに建設されるも昭和38年の閉山後再び無人となった。新歌志内炭礦之跡碑は閉山した年に、住友石炭鉱業が万歳峠と呼ばれた新歌志内を見渡せる場所に建立するが、平成4年に歌志内歴史資料収集保存会の手により神威史跡広場に移設された。この時に北炭神威砿西山砿跡地にあった御大禮紀年碑も移設されている。新歌志内には馬頭観音碑も有ったようですが未確認。◇建立年:昭和28年11月3日 ◇建立者:住友石炭礦業株式会社 ◇移転年:平成5年5月 ◇所在地:歌志内市神威 神威史跡広場
旧北炭神威砿坑口の左側に続く丘の上にあったという台座だけで2メートルほどあった大きな石碑で、背面に「神威坑中」とあり坑内で使役されていた馬の供養碑であったことがわかります。炭礦地での馬頭観音などで大正期以前の碑は炭礦で働いていた馬を供養した可能性が高いとうえるでしょう。農村地帯や漁村の馬頭観音とは建立の趣旨が少しちがうのがわかるが、坑内の石炭運搬が動力化されるに従い、坑内や炭砿から馬が消えていったようです。◇建立年:大正13年8月建立 ◇建立者:神威坑中 発起人3名(氏名省略) ◇移転年:◇移転年:平成5年 ◇所在地:歌志内市神威 神威史跡広場
二基の安全之塔は神威桜沢入口に立っていた、もうひとつは神威神楽岡の入口よりたっていたが道路拡張で移動されていたという。砿夫達が坑内に入るときと出るとき、頭を下げて通ったという、安全を祈った碑だったようだ。碑が出来たのは昭和7年8月に空知舞鶴坑の事故で51名が死亡する事故のあった4年後ですが、殆どの坑口近に設置されたことから、保安に対する注意喚起や安全祈願の意味がのたとおもわれますが・・・。この他に歌志内小学校前の児童公園に教育発祥の碑と向かい合って安全之塔が一基移設されています。◇建立年:昭和11年9月建立 ◇建立者:北炭神威礦保安係? ◇移転年:◇移転年:平成5年 ◇所在地:歌志内市神威 神威史跡広場
炭夕張の発電所が整備されたことにともない北炭各砿に送電網が張りめぐらされ昭和7年に歌志内や神威に変電所を新設し各炭鉱内に電力を供給していた。施設の内部は撤去されているが建物は放置のままで老朽化が著るしいが、道路からは近いので外観は見られる。旧施設跡などへの立ち入りは危険を伴うので立ち入り禁止地区になっているが、実際は放置状態、あくまで自己責任でとだけ云っておきます。近くに坑口跡などがあるようです。◇所在地:歌志内市神威
トップメニューとレイアウトの一部を変更しました。