☆更新情報など☆
トップメニューとレイアウトの一部を変更しました。
北海道空知支庁管内の北部に位置し雨竜川右岸に市街地があり周りは水田が広がる田園地帯です。丁度石狩川、雨竜川、尾白利加川、恵岱別川がほぼ他の町との境界になっています。基幹産業は農業ですが夏は日本でも有数の湿原雨竜沼に訪れる方が多い観光地でもある。ただ殆どは通過形で観光産業と云う意味ではまだ発展の余地を残している。また雨竜川の氾濫で残された河跡湖が数多くあるが自然のまま残されているのが多く小さな水郷をつくっています。雨竜はアイヌ語に由来するが諸説有り、正確な意味はわからない。
国道275号に面し、雨竜沼湿原への入り口にあるシンプルな外観が好印象。ここのレストランは味工房と名乗っているだけあり評判もよい。正面玄関までの通路の右側には「雨竜沼自然館」左側には「特産品直売施設」があり雨竜沼に関する観光情報はどこよりも早い。湿原に行く方は立ち寄ってソンはなさそうだ。テレビでお馴染みの大泉洋氏とSTVのアナウンサー木村洋二氏の二人と一緒に撮れる顔ハメ板がある。◆雨竜町字満寿28番地の3 TEL:0125-79-2100
雨竜町民の学術、文化の発展に寄与するという目的でつくられた施設です。雨竜町の開拓当時よりの産業、生活、教育、文化に関する資料約5827点を所蔵。閲覧の希望が有れば公開している、雨竜町教育委員会(TEL:0125-77-2322)まで連絡を。◆雨竜町字満寿33番地94
明治27年に蜂須賀農場の場長住宅兼事務所として建築された建物で、かつては雨竜町の行政を支配する権力の象徴であり度々小作争議の舞台となつた歴史的な建物とも云える。建造物としても歴史的な価値を有する建物は、ほぼ原形に近い状態に復元され開拓記念館となっています。閲覧を希望する場合は雨竜町教育委員会まで。
雨竜開拓の拠点となった蜂須賀農場の敷地面積約3haを公園に、事務所跡をいこいの広場として整備。蜂須賀農場は華族組合農場に端を発し大正6年には日本最大の小作制農場となったが、大正9年に勃発した小作争議が有名ですが、結果的には農民側の全面敗北に終わっている。公園のシンボル「アカマツ並木」は、明治26年に蜂須賀茂韶氏が農場開設時に持ち込んだものと云う。◆雨竜町字満寿21番地
雨竜町の開基100年を記念し作られた広い公園です。野外ステージがあり町民憩いの場として使われるほか暑寒連山太鼓、暑寒盆おどり大会など各種イベント等の会場として使わる。ステージは有料になっています。開基100年記念モニュメントがあります。◆雨竜町字満寿33番地
いきいき館とこども交流プラザを中心に、パークゴルフ場や日本庭園が整備された地域の交流センター。近くにはメモリアルパークと神社等があります。生き生き館には風呂やサウナと無料休憩室が有り健康づくりのために利用されています。地元の方以外でこの施設を利用するのは、パークゴルフ場になると思うが◆雨竜町字満寿32番地
深川方面から追分市街を抜けて真っ直ぐ進むと入口に付く。四国三十三番の地蔵尊と新四国八十八ヶ所の観音が安置されている霊場。雨竜町の桜の名所で上まで車でも上れるが道は良くない。以前は展望も良く北空知から中空知と展望出来たが最近は展望台の腐食で登るのは危険。それと木が展望台と同じ高さで展望は望めない。
松浦武四郎が石狩川上流域の調査に訪れたのは安政3年から安政5年にかけて3回、そのうち雨竜川は2度、安政3年には石狩川から雨竜川遡り恵岱別を経て増毛に抜け留萌に到る有名なヌプシャ越え、面白内はその途中の5月12日に宿泊したとされる場所、安政4年にも雨竜川を遡り鷹泊まで行くが、その時は雨竜川口に宿営し面白内は通過している。(武四郎廻浦日記、丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌を参照)石碑は面白内神社横のやや高くなった所にあります。以下は案内板から説明文の一部を。「西蝦夷日記によると安政三年(一八五六年)三月本道西海岸一帯の踏査を命ぜられ函館を出発して 五月八日には石狩運上屋より丸木船二艘に総勢十二名が分乗して遡り九日美唄(ビバイ)十日浦臼内(ウムシナイ)十一日新十津川(トック)橋本を経て十二日雨竜 面白内(ウリウフトオモシロナイ)のこの地に泊り楡の皮でわらじ(シトケリ)荷物を運ぶもの(シケニ)を作り酒を飲んで寝むと記されてある 翌十三日恵岱別(イタイベツ)に沿って留萌(ルルモッペ)に向う途中ヌブシャ岳を眺めて一首吟じた のぼり来て雪の峰近く成りぬらん ひたすらに肌寒くなりけり 本町開拓前の貴重な史跡として この碑を建てる」
◇雨竜町字面白内97番地13 面白内神社鳥居横
◇標高 56m N43°31’495” E141°54’21.2”
トップメニューとレイアウトの一部を変更しました。