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にしん街道を巡る旅
追分ソーランラインのにしん街道碑を巡る旅‼

にしん街道碑とニシン文化遺産

ここでは追分ソーランラインエリアの島牧村、寿都町、岩内町、泊村、神恵内村にあるにしん街道碑やニシン文化遺産(主に建築物と漁具、関連施設)を紹介しています。この地域は袋澗跡が見られる数少ないところになっています。

にしん街道標 島牧村千走地図へ

にしん街道標柱・島牧村

説明板より転載です。
『ここ島牧は、江戸時代から明治末期まで「にしん漁」で栄えた北海道日本海沿岸のまちのひとつです。鰊建網及び刺し網を使用し、漁期雇人(ヤン衆)も1900人を超えるなど、「にしん漁」の好況は村の繁栄にも深く関わりました。やがて、大正期に入ると「にしん漁」は衰退していきますが、この「島牧」は、地理的な関係から他の魚介藻類に恵まれていたので、新たな漁業に注がれるようになりました。

「にしんルネサンス事業」は、「にしん」で栄えた北海道日本海沿岸の市町村に「にしん街道」の標柱を設置することにより、往時の繁栄された頃の「にしん文化」を再び蘇らせ、後世に引き継ぐとともに、松前町を始点とし北の彼方まで新たな観光ルートの確立など各地域での活性化に繋げる証として、この標柱を設置したものです。』
◇設置年:平成20年10月吉日 ◇設置者:島牧村観光協会
◇所在地:島牧郡島牧村字千走11番地1 道の駅島牧
◇GPS N42°41’11.14” E140°00’46.94”

にしん街道 寿都町MAP

にしん街道標柱・寿都町

説明板より転載!!『寿都町はニシン漁によって栄えた町であり、記録上に地名がでてくるのは、寛永9(1669)年、シャクシャインの乱の記録の中に「このころスッツ、オタスツ、イソヤは商場所ができていて、交易が盛んだった」と記されている。

豊富なニシンを背景に、集落を形成していたとみられ、これが寿都町の始まりとしている。明治2年には、寿都、歌棄、磯谷それぞれの商場所は、場所請負人によってしきられ、漁具・漁船の改良による生産拡大のほか、道路の開削や土地の開発、漁港、船澗、袋澗の改良、子弟の教育など地域に大きく貢献し、千石場所として確固たる地位を築いている。このようにニシンがもたらした遺産は、歴史や芸術文化、食文化面など各地に確かな足跡を残している。

後志西海岸地方の玄関口としてもっとも早くから開け「北海道建網(行成網)漁業発祥之地」として17統の大網を有し、明治36年には積丹、小樽に次いで3番目の最大漁獲高を記録している。当時の面影として鰊御殿や佐藤家、土蔵などが文化遺産として残されており、ニシン全盛期を追想し、この文化を後世に引き継ぐとともに、地域の活性化に繋げる証として、この標柱が設置されました。"忍路高島及びもないが せめて歌棄・磯谷まで"』
◇設置年:平成20年4月吉日 ◇設置者:寿都町観光協会
◇所在地:寿都郡寿都町字大磯町29番地1
◇GPS N42°47’44.03” E140°13’55.14”

歌棄鰊御殿MAP

歌棄鰊御殿 鰊御殿というと豪華な鰊番屋を連想しがちだが、歌棄鰊御殿(橋本家)は仕込家と云い鰊漁家に資金や資材を提供し、現物返済(水産加工品など)で集めたものを自家弁財船で大阪、界に運び、戻る船で生活必需品を運び莫大な利益を上げていた。その財力で建物の建材集めに4年、運んで来るのに3年、乾燥に3年、建築に4年、床下には防湿のため6百表の木炭を敷き詰め、窓はギヤマンというガラスをオランダから取寄せるなど、都合14年の歳月をかけ明治12年に完成した当時では最高級の建物。100年以上も風雪に耐えている割には傷みが少ない、釘を一本も使っていない事に秘密がありそうだ。一般公開はしていないが、電話予約で鰊御殿内を見学できるという。
◇撮影地:寿都町字歌棄町有戸14番地 ◇N042°46’90.21” E140°18’40.56”

稲穂岬と恵比寿神社MAP

磯谷運上屋跡碑

岬や峠で稲穂の付く地名に時々であうが、その多くは通行の難所でアイヌ達が木幣を捧げ安全を祈願して通った所。ただこの稲穂岬はどう見ても難所には見えず、かつては海岸に祭壇を設け「木幣」をたて鰊を迎える神事を執り行った名残の地名なのかもしれない。アイヌの人達は鮭の事をカムイチエップといったようですが、西海岸では鰊をカムイチエップとした所もあるという。漁具の改良がされる前は「たも網」で、産卵に押し寄せた「にしん」を海に入り掬ったのだという。ここには恵比寿神社と江差追分碑、岬の側面に見えているのは、かつては船着き場だったという石組みの堤跡です。歌棄鰊御殿の近くにあります。
◇所在地:寿都町町有戸 ◇N042°46’90.34” E140°18’40.64”

鰊建網の記念碑行成網記念碑 MAP

鰊建網記念碑

カクジュウ佐藤家から40mの所にある碑。磯谷場所請負人佐藤伊三右衛門が発明した定置網の元祖といえる漁法でニシン漁法に革命を与え、ニシン黄金時代を築いた記念碑。別な見方をすると産卵期のニシンを一網打尽にする漁法はやがてニシンを絶滅の瀬戸際まで追い込んだ戒めの碑。
◇所在地:寿都町字歌棄町有戸 ◇N42°47’3229” E140°18’5154”

カクジュウ佐藤家漁場建築 道指定有形文化財 MAP

漁場建築 カクジュウ佐藤家

義経の家臣、佐藤継信の末裔が明治初期に建てられた漁場建築の代表的な建築物という。嘉永5年(1852)以降に歌棄、磯谷二場所の場所請負人となり、積丹半島開発および漁法改良に尽力した功労者としても著名。建物の大きさは月並みなのだが、番屋を別に設け漁夫宿泊部を別にした事による。和洋折衷様式で内部は内部総桧材、漆塗りと漁場建築では他に聞いた事もない。ニシン場時代の資料や文献が大切に保管されているとの事だが、個人の住宅として使用されており非公開。外観を見るだけなら可能。◇所在地:寿都町字歌棄町有戸 ◇N42°47’3559” E140°18’4928”

旧岡田家煉瓦蔵MAP

旧岡田家煉瓦蔵

二つの煉瓦蔵が少し距離をあけて建っている。かつて煉瓦蔵の間に主屋である番屋が建っていた事による距離で、煉瓦蔵を左右に配した主屋は相当な建物であったことが想像出来る。煉瓦蔵の屋根に北海道では少ない瓦を用いているのが凄い。旧岡田家は近江八幡の商人で松前に進出し屋号を「恵比須屋」とし、のちに松前を拠点に場所請負人として漁場経営も手がけている。幕末期(第10代)には石狩・小樽内・古平・古宇・美国・岩内・礼文・利尻など23場所を請負っていたが、場所請負制度廃止で岡田家12~13代のとき北海道の開発事業に手を広げるが経営破綻(明治34年)し破産。 ◇撮影地:寿都郡寿都町歌棄町種前 ◇N42°48’5581” E140°18’2562”

角十佐藤家 磯谷運上屋跡の碑MAP

磯谷運上屋跡碑

嘉永5年に歌棄磯谷両場所請負人の佐藤定右衛門は、場所請負人としては桝屋栄右衛門と称した。初代定右衛門の没後は定右衛門の甥、伊三右衛門が磯谷場所を継ぐ。歌棄場所は初代定右衛門の実子重三郎が引き継ぎ、佐藤家は歌棄と磯谷の両家に別れます。伊三右衛門は行成網を発明し漁法の改革でこの地方の繁栄の基礎をつくったと云われる。かつて磯谷の中心地は島古丹で、江戸時代末期には旅籠が10軒以上あり、運上屋も島古丹にあったが後に横澗に移転。維新後は駅逓を運営している。移転した先の横澗漁港にカクジュウ佐藤家の磯谷場所運上屋跡の碑が建立されている。
◇所在地:寿都町字磯谷町横澗 横澗漁港 ◇N42°50’7222” E140°19’6744”

にしん街道 岩内町MAP

にしん街道標柱・岩内町

以下はにしん街道の説明板から転載です。
『ここ岩内では、江戸時代から明治末期まで、主なる海産物は「にしん」でした。明治35年には、岩内郡の沿岸、雷電から泊・臼別まで「にしん」の定置漁場が102ヶ統ありました。「にしん漁」の好況は町の繁栄にも深く関わりました。やがて、大正期に入ると、「にしん漁」は衰退していきます。しかし、優れた加工技術が備わっていたので、それを生かし「にしん」を移入しての加工となりました。現在も海外から「にしん」を取り入れ、絶えることなく続けられています。岩内は「ミガキにしん」の生産高は全国で高い位置を占めています。

「にしんルネサンス事業」は「にしん」で栄えた北海道日本海沿岸の市町村を結び「にしん街道」の旅道中を楽しませてくれます。松前を始点とし、北の彼方まで観光ルートの一拠点である証として、標柱が設置されました。各地域が携える「にしん」の歴史と伝統の数々を受け継ぎ、語り伝える千鈞の柱。「たたずめば よみがえる にしんの銀鱗』
◇設置月:平成17年10月吉日 ◇設置者:第3回にしんルネサンス実行委員会
◇所在地:岩内郡岩内町清住5番地3 ◇N42°58’51.00” E140°30’18.32”

岩内運上屋本陣跡の碑MAP

岩内運上屋本陣跡の碑

松前藩は失政による財政破綻を民間丸投げという形での財政再建をはかった。海産物資源の交易拠点を場所請負人に管理をさせることになり、初代の場所請負人は近江商人・恵美須屋(岡田)弥三右衛門(年代から6代目弥三右衛門?)で、岩内場所を請負した宝暦元(1751)年を岩内の開基年としているようです。幕末の岩内場所請負人は仙北屋・佐藤仁左衛門で、にしん街道はかつては場所請負人によって開かれ、漁場運営がされてきた。1869年に場所請負制度廃止され、官営事業となるに伴い運上屋は本陣に、番屋、止宿所、通行屋が同所にある場合、運上屋以外を脇本陣と称した。官営は短命で終わり本陣(運上屋)も廃止されるが、駅逓として継続する所もあった。本陣の名称は明治初期の駅逓を示唆する旧跡ともいえるが、明治初期には一帯が運上屋の建物で占められていたというが、今は碑があるのみ。岩内郷土館にはニシン漁と運上屋に関する資料が残されている。◇所在地:岩内町万代 ◇N042°59’01,33” E140°30’64,53”

にしん街道 泊村MAP

にしん街道標柱・泊村

以下はにしん街道の説明板より転載
『ここ泊村では、今から三百年程前(江戸時代)より「にしん漁」が始められ、明治中期より大正末期までは「にしん」の千石場所として栄え、村の発展に大きく寄与しました。最盛期は泊村に50を超える魚場があり、「にしん」の建網92ヶ統、網元が個人で作ったミニ漁港(袋澗)もおよそ40ヶ所在ったといいます。一ヶ統に要する人数が40人程度ということから、東北の各地から働き手である「ヤン衆」が相当数来て、泊の浜も大変な賑わいだったようです。

春にまると、群来という浜言葉があるように、海を埋め尽くすほどの大量のニシンが岸近くまで押し寄せ、産卵のために海の色が一面乳白色に変わり、そこに群れ飛ぶカモメ、波間を渡るヤン衆のキリ声、浜ではモッコを背負う人の波・・・と、壮大なドラマが繰り広げられました。

ここに、松前を始点とし、北の彼方まで「にしん漁」で栄えた日本海沿岸の市町村に「にしん街道」の標柱を設置しようという「にしんルネサンス事業」の一環として、また、往時を偲ぶ文化遺産を後世に引き継ぐとともに、地域の活性化を繋げる証として、この標柱を設置しました。』◇設置年:平成21年7月吉日 ◇設置者:泊村観光協会
◇所在地:泊村大字泊村59番地1 ◇N43°04’04.22” E140°29’33.14”

鰊御殿とまりMAP

鰊御殿とまり

ニシン漁が全盛期だった明治年代には各地にニシン番屋がありましたが、日本海沿岸でも後志の海岸線には多かったようです。泊村には50を超えるニシン番屋があったという。

ニシンで栄えた泊村を象徴するのはやはりニシン番屋、泊村有形文化財で当時の繁栄を今に伝える2つの建物「旧川村家番屋」と「旧武井低客殿」は移築、復元されたもので、泊村の資料館として一般公開されています。

旧川村家番屋は個性的な番屋で、旧武井低客殿は客殿として使用されたものという。開館は4月中旬~11月末日、月曜日休館、入館は有料となっている。◇所在地:泊村大字泊村

弁財澗・弁財トマリMAP

弁財澗・弁財トマリ

かつて弁財船が湾内に停泊できたので弁財泊と呼ばれるようになったと思われる。松浦武四郎の「再航蝦夷日誌」に「弁才トマリ、舟掛り澗。六百石位のもの、二、三艘かかる也」と記載され、今も杭跡が残っているという。江戸期からある地名で、ラウネトマリともいうが、名前のように深そうには見えないが、透明度が高いので浅く見えるのかもしれない。かつては神恵内の物流で重要な地だったようですが、今は無人の地で弁財澗のバス停がある。またこの付近にも袋澗跡が残っているという。◇N43°07’68” E140°26’45”

本陣跡地の碑 神恵内村MAP

神恵内村・本陣跡

フルウ運上屋の跡地に神恵内開村百年を記念して建立された碑。フルウは江戸時代から漁業で栄えた場所で産物はニシン・アワビ・ホッケ等などとあり江戸時代よりニシン場でもあった。幕末の頃の場所請負人は近江商人田村新十郎で、維新後に運上屋は開拓使に引き継がれるが、駅逓業務も行っていたようで北海道宿駅制の研究の明治前期編で「田村某宅にて駅努を扱う」と有る。松浦武四郎の蝦夷日誌では松前商人、福島屋新右衛門となっており、ここは古くから神恵内の中心地だったようです。後に駅逓を運営していても古い名前の運上屋とか会所というのが普通で、本陣という名称の史跡は後志地方だけで珍しい。碑は国道229号線沿いで神恵内村役場の角地、神恵内厳島神社参道側にあります。神恵内厳島神社は1594(文禄3)年創立という北海道としては歴史のある神社。◇所在地:神恵内村 神恵内村役場横
◇N043°08’61,88” E140°25’83,69”

にしん街道 神恵内村MAP

にしん街道標柱・神恵内村

以下はにしん街道の説明板から転載です。
『ここ神恵内村は、1751(宝暦元年)年に古宇場所が開設されて以来、にしんの恩恵を受け栄えた村です。その名残の一つが、日本海沿岸に残っている袋澗です。袋澗とは、大量に採れた「にしん」を一時的に貯めておく施設で、特に神恵内村は53ヶ所の袋澗が存在してました。残念ながら、1920(大正9年)年の101,000石の大漁をさかいに年々減少し、現在は幻の魚となっています。

日本海沿岸の市町村には、袋澗をはじめ、鰊御殿やにしん漁の際に唄われた沖揚音頭、また各種資料館等には写真や漁具など、当時の様々な文化や資料がたくさん残されており、北海道の歴史の1ページ築きあげた時代を窺うことができます。「にしん街道」で結ばれた地域にある先人達が残した歴史や大切にし、後世に引き継ぐと共に、地域の活性化につなげる証として、この標柱を設置するものです。』
鰊で栄えた歴史は袋澗の遺構でも確かめられます。キス熊という奇岩のある現役の船着き場となっている大型の袋澗の澤口の澗や世界遺産クラスとも噂される竜神岬下木下ノ袋澗など多くの袋間がある。 ◇設置年:平成22年3月吉日 ◇設置者:神恵内村観光協会
◇所在地:神恵内村大字赤石村字大森 神恵内村の道の駅
◇N43°09’9259” E140°23’1335”

しゃこたん場所 運上屋跡史跡標柱 積丹町 MAP

しゃこたん場所 運上屋跡

シャコタン場所は1706(宝永3)年に初めて置かれ、シャコタン(志屋古丹)場所請負人が置かれたのは1786(天明6)年で、知行主は藤倉八十八、請負人は福島屋金兵衛、1818(文政元)年~1875(明治8)年迄は「岩田金蔵」が請負人で蝦夷日誌にもその名がある。積丹は神威岬から北は女人禁制とされた海上交通の難所で、日司より小泊への陸路は岩田金蔵が開いたという。この辺は早くから和人の進出があったようで神社の創建は古いのでは1600年代というが、江戸時代の漁場もその中核はニシン漁でした。◇所在地:積丹町日司町 ◇ N043°21’15.85” E140°27’52.90”

しゃこたん場所 運上屋出張所跡史跡標柱 積丹町 MAP

しゃこたん場所 運上屋出張所

「海辺の宿・運上屋」の角地に「しゃこたん場所運上屋・出張所跡」の史跡標柱がある。この宿は積丹場所請負人だった岩田金蔵がニシン漁が衰退した後に運上家の脇本陣として建てられた施設を利用し旅館業をはじめたのが元というが、建物は世帯交代している。積丹はニシン漁場として江戸時代から栄えた所で、脇本陣は元々は鰊漁の中核施設だったのでしょう。幕末に当地を通過した松浦武四郎はその時の様子を記録に残している。
◇所在地:積丹町来岸町42 ◇N43°19’49.85” E140°23’41.26”

にしん街道を巡る旅・追分ソーランライン-ミニギャラリー

にしん街道説明板・島牧村 漁場建築・佐藤家説明板 漁場建築・角十佐藤家01 漁場建築・角十佐藤家02 磯屋運上屋跡碑文 磯屋運上屋跡・運上屋碑 旧岡田家煉瓦蔵 旧岡田家煉瓦蔵 にしん街道説明板・寿都町 寿都道の駅・保津船 漁場建築風民家・田畑家番屋? 漁場建築風民家02 にしん街道説明板・岩内町 岩内郷土館・ニシン船 鰊御殿とまり01 鰊御殿とまり02 鰊御殿とまり03 鰊御殿とまり・屋外展示

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駅逓(記念碑)を巡る旅

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