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にしん街道を巡る旅
追分ソーランラインのにしん街道碑を巡る旅‼

にしん街道碑とニシン文化遺産

ここでは追分ソーランラインエリアの島牧村、寿都町、岩内町、泊村、神恵内村にあるにしん街道碑やニシン文化遺産(主に建築物と漁具、関連施設)を紹介しています。この地域は袋澗跡が見られる数少ないところになっています。

にしん街道標標柱島牧村千走MAP

にしん街道標柱・島牧村説明板より転載です。
『ここ島牧は、江戸時代から明治末期まで「にしん漁」で栄えた北海道日本海沿岸のまちのひとつです。鰊建網及び刺し網を使用し、漁期雇人(ヤン衆)も1900人を超えるなど、「にしん漁」の好況は村の繁栄にも深く関わりました。やがて、大正期に入ると「にしん漁」は衰退していきますが、この「島牧」は、地理的な関係から他の魚介藻類に恵まれていたので、新たな漁業に注がれるようになりました。

「にしんルネサンス事業」は、「にしん」で栄えた北海道日本海沿岸の市町村に「にしん街道」の標柱を設置することにより、往時の繁栄された頃の「にしん文化」を再び蘇らせ、後世に引き継ぐとともに、松前町を始点とし北の彼方まで新たな観光ルートの確立など各地域での活性化に繋げる証として、この標柱を設置したものです。』
◇設置年:平成20年10月吉日 ◇設置者:島牧村観光協会 ◇所在地:島牧郡島牧村字千走11番地1 道の駅島牧 ◇G.Map:42.686431, 140.012952

旧村川家番屋MAP

旧村川家番屋島牧村の村川家住宅は五代当主が150年を経た番屋の趣を生かすために独学で描いた図面をもとに改修されたものと云い寄棟・平入・平屋のようで外見は鰊番屋と変わらない。個人住宅であり非公開、敷地外からの見るだけとなる。◇築設年:明治35年頃・改修年不詳 ◇所在地:島牧郡島牧村歌島442 ◇G.Map:42.767899, 140.150091

にしん街道標柱寿都町MAP

にしん街道標柱・寿都町説明板より転載!!『寿都町はニシン漁によって栄えた町であり、記録上に地名がでてくるのは、寛永9(1669)年、シャクシャインの乱の記録の中に「このころスッツ、オタスツ、イソヤは商場所ができていて、交易が盛んだった」と記されている。

豊富なニシンを背景に、集落を形成していたとみられ、これが寿都町の始まりとしている。明治2年には、寿都、歌棄、磯谷それぞれの商場所は、場所請負人によってしきられ、漁具・漁船の改良による生産拡大のほか、道路の開削や土地の開発、漁港、船澗、袋澗の改良、子弟の教育など地域に大きく貢献し、千石場所として確固たる地位を築いている。このようにニシンがもたらした遺産は、歴史や芸術文化、食文化面など各地に確かな足跡を残している。

後志西海岸地方の玄関口としてもっとも早くから開け「北海道建網(行成網)漁業発祥之地」として17統の大網を有し、明治36年には積丹、小樽に次いで3番目の最大漁獲高を記録している。当時の面影として鰊御殿や佐藤家、土蔵などが文化遺産として残されており、ニシン全盛期を追想し、この文化を後世に引き継ぐとともに、地域の活性化に繋げる証として、この標柱が設置されました。"忍路高島及びもないが せめて歌棄・磯谷まで"』

にしん街道碑説明文に「明治2年には寿都、歌棄、磯谷それぞれの商場所は、場所請負人によってしきられ」とあるが、場所請負制度は明治2年9月に廃止されるのでこの説明は不可解。また「寛永9(1669)年、シャクシャインの乱」は寛文(1669)九年の間違い。
◇設置年:平成20年4月吉日 ◇設置者:寿都町観光協会 ◇所在地:寿都郡寿都町字大磯町29番地1 ◇G.Map:42.795627, 140.232124

旧田畑家番屋漁家住宅MAP

田畑家番屋道路の両側に漁家に関係した建物が並んでいるが、道路山側が田畑家番屋になる。小樽方面の鰊番屋を見た後では番屋と気づかないかも、鰊番屋に多いケムダシがあるので他の建物と見分けられるが、建物自体が地味で装飾も殆どみられない。「建造物緊急保存調査報告書(北海道教育委員会、昭和47年発行)」によると大正3年の建築で建物は木造・切妻・平入・一部二階建で一階は271㎡、二階が13.2㎡というので鰊番屋としては小規模になります。◊所在地:寿都郡寿都町岩崎町 ◇G.Map:42.790693, 140.237360

旧歌棄鰊御殿橋本家MAP

歌棄鰊御殿鰊御殿というと豪華な鰊番屋を連想しがちだが、歌棄鰊御殿(橋本家)は仕込家と云い鰊漁家に資金や資材を提供し、現物返済(水産加工品など)で集めたものを自家弁財船で大阪、界に運び、戻る船で生活必需品を運び莫大な利益を上げていた。その財力で建物の建材集めに4年、運んで来るのに3年、乾燥に3年、建築に4年、床下には防湿のため6百表の木炭を敷き詰め、窓はギヤマンというガラスをオランダから取寄せるなど、都合14年の歳月をかけ明治12年に完成した当時では最高級の建物。100年以上も風雪に耐えている割には傷みが少ないように見えるが、柱の太さと釘を一本も使っていない事に秘密がありそうだ。平成17年頃に建物の両サイドにあった土蔵が改修され白壁となって以前とは雰囲気が異なる。また改修された土蔵を利用した「そば処鰊御殿」がオープン(冬期間は休業)している。一般公開はしていないが、以前は電話予約で鰊御殿内を見学できたが今は?。
◇撮影地:寿都町字歌棄町有戸14番地 ◇G.Map:42.781565, 140.307108

稲穂岬と恵比寿神社MAP

稲穂岬と恵比寿神社岬や峠で稲穂の付く地名に時々であうが、その多くは通行の難所でアイヌ達が木幣を捧げ安全を祈願して通った所。ただこの稲穂岬はどう見ても難所には見えず、かつては海岸に祭壇を設け「木幣」をたて鰊を迎える神事を執り行った名残の地名なのかもしれない。アイヌの人達は鮭の事をカムイチエップといったようですが、西海岸では鰊をカムイチエップとした所もあるという。漁具の改良がされる前は「たも網」で、産卵に押し寄せた「にしん」を海に入り掬ったのだという。ここには恵比寿神社と江差追分碑、岬の側面に見えているのは、かつては船着き場だったという石組みの堤跡です。歌棄鰊御殿の近くにあります。
◇所在地:寿都町町有戸 ◇G.Map:42.781665, 140.306426

江差追分節記念碑歌棄MAP

江差追分記念碑碑には「忍路高島およびもないがせめて歌棄磯谷まで」と有名な一節が刻まれている。その歌棄の稲穂崎という小さな出岬に碑が建っており協賛者60名の名前は記されているが、建立由来が記されていない。追分記念碑にまつわる裏話・当時の新興商人(政商)が何とか歌棄(有戸付近)と磯谷(横間付近)場所請負の権利を手に入れたが、年々北上するニシン漁場ということから、何とかして忍路・高島の場所請負の権利を手に入れようと暗躍したが、事破れて全面的な敗退となった。そのことを書いた落札が喝采を受け歌詞になったのだというが、表には出てこない。道路を挟んで向かいは歌棄鰊御殿、稲穂崎横の石積みの護岸はかつての船着場跡、稲穂崎の先端部にあるのは恵比寿神社。◇建立年:昭和40年9月26日 ◇建立者:不明 ◇所在地:寿都町字歌棄町有戸 ◇G.Map:42.781767, 140.306665

旧歌棄佐藤家漁場国史跡

旧歌棄佐藤家漁場カクジュウ佐藤家の漁場建築は北海道有形文化財となっているが、新たに前浜に築造された袋澗、居宅と邸内社、背後の干場と、海から陸地へと連続して展開する北海道西海岸の漁場の佇まいを今日に伝える貴重な遺跡であるとのことで平成28(2016)年に国指定史跡となっている。カクジュウ佐藤家から40m程厳島神社よりの所に、佐藤伊三右衛門が発明した定置網の元祖といえる行成網記念碑があり、その背後に崩壊寸前という趣の邸内社がある。ニシン干し場は不明瞭だが、前浜の袋澗跡は崩壊して痕跡程度、説明されないと気づかないかも。◇所在地:寿都町字歌棄町有戸163番地 ◇G.Map:42.789567, 140.308685

旧カクジュウ佐藤家漁家住宅 道指定有形文化財MAP

漁場建築 カクジュウ佐藤家明治初期に建てられた代表的な漁場建築ですが内部は非公開、外観を見るだけなら可能。説明板より転載する「有形文化財 漁場建築 佐藤家 所在地 寿都郡寿都町字歌棄 指定年月日 昭和43年3月29日 管理者 寿都町 角十(屋号)佐藤家は嘉永5(1852)年以降ウタスツ、イソヤ二場所の場所請負人を務め歌棄場所から黒松内に至る16キロ余りの道路、磯谷の能津登から岩内場所との境界アブシタまで4キロ余りの道路を私費をもって開削し苗字帯刀を許された。定右衛門・栄右衛門父子の系図である。またニシン漁獲法の改善を心がけ行成網(ゆきなりあみ)を導入して西海岸のニシン漁の急速の発展に尽し維新後は駅逓取扱人を命ぜられ当地方随一の名家である。この建物は母屋は間口24.3メートル奥行18メートルの2階建でよせ棟屋根に西洋風下見張り2階正面に櫛形ペジメントの付いた上げ下げガラス窓、屋根の大棟をまたいで洋風の六角形の煙出し、その背後に和風の切妻屋根の煙出しを設けた洋風と和風が入り交じった折衷の独特のスタイルの外形をもっている。またニシン場建築に見られる漁夫宿泊部を含んでいない点に特色がある。建物の完成年代は外形の洋風建築形式からみて明治10年から20年の間の建築と思われる。旧態の保存が良好である上、建築年代・規模・意匠・構造の諸点からみて現在の漁場建築中でこの建物に匹敵するものがない代表的な遺構である。平成2年4月 寿都町教育委員会」和洋折衷様式で内部は内部総桧材、漆塗りと漁場建築では他に聞いた事もない。ニシン場時代の資料や文献が大切に保管されているとの事。建物を含む旧歌棄佐藤家漁場が国史に指定されたので将来的には公開されるかも。◇所在地:寿都町字歌棄町有戸 ◇G.Map:42.789343, 140.308550

行成網記念碑鰊建網の記念碑MAP

鰊建網記念碑カクジュウ佐藤家から40mの所にある碑。磯谷場所請負人佐藤伊三右衛門が発明した定置網の元祖といえる漁法でニシン漁法に革命を与え、ニシン黄金時代を築いた記念碑。別な見方をすると産卵期のニシンを一網打尽にする漁法のはじまりとなった。碑のすぐ近くに荒れたカクジュウ佐藤家の邸内社がある。
◇所在地:寿都町字歌棄町有戸 ◇G.Map:42.788759, 140.308528

旧岡田家煉瓦蔵MAP

旧岡田家煉瓦蔵二つの煉瓦蔵が少し距離をあけて建っている。かつて煉瓦蔵の間に主屋である番屋が建っていた事による距離で、煉瓦蔵を左右に配した主屋であった鰊番屋は相当な大きな建物であったと想像出来るが、切妻屋根の番屋であったということだ。海に対して直角の位置取りで建っている煉瓦蔵は開口部の雰囲気によるのか、煉瓦造でありながら和風のイメージがある。この煉瓦蔵は貴重品を収蔵する用途に使われていたという。 海と並行に崖の間の狭小な敷地に建てられている蔵は建物自体の広さがあるので製品の保存に使われたのであろうか、同じ煉瓦蔵でも受ける印象は全くことなるが、両方の蔵は1980年代の竣工という。旧岡田家は近江八幡の商人で松前に進出し屋号を「恵比須屋」とし、のちに松前を拠点に場所請負人として漁場経営も手がけている。幕末期(第10代)には石狩・小樽内・古平・古宇・美国・岩内・礼文・利尻など23場所を請負っていたが、場所請負制度廃止で岡田家12~13代のとき北海道の開発事業に手を広げるが経営破綻(明治34年)し破産。話は変わるが寿都空襲で被弾した東海丸の乗組員が煉瓦蔵に一時収容されたという歴史がある。◇撮影地:寿都郡寿都町歌棄町種前 ◇G.Map:42.809239, 140.304869

角十佐藤家 磯谷運上屋跡の碑MAP

磯谷運上屋跡碑嘉永5年に歌棄磯谷両場所請負人の佐藤定右衛門は、場所請負人としては桝屋栄右衛門と称した。初代定右衛門の没後は定右衛門の甥、伊三右衛門が磯谷場所を継ぐ。歌棄場所は初代定右衛門の実子重三郎が引き継ぎ、佐藤家は歌棄と磯谷の両家に別れます。伊三右衛門は行成網を発明し漁法の改革でこの地方の繁栄の基礎をつくったと云われる。かつて磯谷の中心地は島古丹で、江戸時代末期には旅籠が10軒以上あり、運上屋も島古丹にあったが後に横澗に移転。移転した先の横澗漁港にカクジュウ佐藤家の磯谷場所運上屋跡の碑が建立されている。場所請負制度廃止後のカクジュウ佐藤家一門は漁業家として歌棄に13統,磯谷に14統の鰊定置網漁業権をもち大規模鰊漁家として鰊漁場経営を昭和初期まで行っていた。
◇所在地:寿都町字磯谷町横澗 横澗漁港 ◇G.Map:42.845346, 140.327924

にしん街道標柱岩内町MAP

にしん街道標柱・岩内町以下はにしん街道の説明板から転載です。
『ここ岩内では、江戸時代から明治末期まで、主なる海産物は「にしん」でした。明治35年には、岩内郡の沿岸、雷電から泊・臼別まで「にしん」の定置漁場が102ヶ統ありました。「にしん漁」の好況は町の繁栄にも深く関わりました。やがて、大正期に入ると、「にしん漁」は衰退していきます。しかし、優れた加工技術が備わっていたので、それを生かし「にしん」を移入しての加工となりました。現在も海外から「にしん」を取り入れ、絶えることなく続けられています。岩内は「ミガキにしん」の生産高は全国で高い位置を占めています。

「にしんルネサンス事業」は「にしん」で栄えた北海道日本海沿岸の市町村を結び「にしん街道」の旅道中を楽しませてくれます。松前を始点とし、北の彼方まで観光ルートの一拠点である証として、標柱が設置されました。各地域が携える「にしん」の歴史と伝統の数々を受け継ぎ、語り伝える千鈞の柱。「たたずめば よみがえる にしんの銀鱗』
◇設置月:平成17年10月吉日 ◇設置者:第3回にしんルネサンス実行委員会 ◇所在地:岩内郡岩内町清住5番地3 ◇G.Map:42.980662, 140.505102

岩内運上屋本陣跡の碑MAP

岩内運上屋本陣跡の碑松前藩は失政による財政破綻を民間丸投げ(場所請負)という形での財政再建をはかった。海産物資源の交易拠点を場所請負人に管理をさせることになり、初代の場所請負人は近江商人・恵美須屋(岡田)弥三右衛門(年代から6代目弥三右衛門?)で、岩内場所を請負した宝暦元(1751)年を岩内の開基年としているようです。幕末の岩内場所請負人は仙北屋・佐藤仁左衛門で、にしん街道はかつては場所請負人によって開かれ、漁場運営がされてきた。1869年に場所請負制度が廃止され、官営事業となるに伴い運上屋は本陣に、番屋、止宿所、通行屋が同所にある場合、運上屋以外を脇本陣と称した。官営は短命で終わり本陣(運上屋)も廃止されるが、駅逓として継続する所もあった。本陣の名称は明治初期の駅逓を示唆する旧跡ともいえるが、明治初期には一帯が運上屋の建物で占められていたというが、今は碑があるのみ。岩内郷土館にはニシン漁と運上屋に関する資料が残されている。◇所在地:岩内町万代 ◇G.Map:42.983526, 140.510781

鰊刺網大時化遭難之碑岩内町MAP

鰊刺網大時化遭難之碑碑文より「明治45年5月4日朝、鰊刺網漁に出漁沖揚中の大小の漁船150余隻は岩内山から吹下す凄まじい東南風に煽られ、乗組員136名の生命を失う大惨事となる。本町漁業の礎となった諸霊を偲びその冥福を祈って建之。昭和55年9月 一善会会長 石山栄作」※岩内沖での遭難は碑文に書かれているより多いのだが、この範囲より狭い地域での遭難を慰霊したものと解した。碑を建立した石山栄作氏は19才の時にこの大時化で父親とともに遭難し九死に一生を得たというが、このことが心を常に離れず米寿を迎えた時に建立したのでした。鰊魚で漁民に何よりも恐れられたのは、この季節に多い天候の急変でした。◇建立年:昭和55年9月 ◇建立者:石山栄作 ◇所在地:岩内郡岩内町御崎 御崎公園 ◇G.Map:42.984114, 140.506805

後志十景カブトラインの碑MAP

後志十景カブトラインの碑国道229号線沿いの照岸にレストハウスワン・ツーがあり、裏手の海岸段丘上にカブトラインの碑が建っている。夕日の名所との噂もあるが、眼下に照岸海岸の袋澗群を望める場所としてはカブト千畳の駐車帯とともに絶好な位置、観光だけで無く近代産業遺産の俯瞰地としてあげておきます。説明板にはカブト岬の由来が記されている。◇建立者:泊村観光協会 ◇所在地:古宇郡泊村照岸100-24 ◇G.Map:43.079305, 140.479513

にしん街道標柱泊村MAP

にしん街道標柱・泊村以下はにしん街道の説明板より転載
『ここ泊村では、今から三百年程前(江戸時代)より「にしん漁」が始められ、明治中期より大正末期までは「にしん」の千石場所として栄え、村の発展に大きく寄与しました。最盛期は泊村に50を超える魚場があり、「にしん」の建網92ヶ統、網元が個人で作ったミニ漁港(袋澗)もおよそ40ヶ所在ったといいます。一ヶ統に要する人数が40人程度ということから、東北の各地から働き手である「ヤン衆」が相当数来て、泊の浜も大変な賑わいだったようです。

春にまると、群来という浜言葉があるように、海を埋め尽くすほどの大量のニシンが岸近くまで押し寄せ、産卵のために海の色が一面乳白色に変わり、そこに群れ飛ぶカモメ、波間を渡るヤン衆のキリ声、浜ではモッコを背負う人の波・・・と、壮大なドラマが繰り広げられました。

ここに、松前を始点とし、北の彼方まで「にしん漁」で栄えた日本海沿岸の市町村に「にしん街道」の標柱を設置しようという「にしんルネサンス事業」の一環として、また、往時を偲ぶ文化遺産を後世に引き継ぐとともに、地域の活性化を繋げる証として、この標柱を設置しました。』◇設置年:平成21年7月吉日 ◇設置者:泊村観光協会 ◇所在地:泊村大字泊村59番地1 ◇G.Map:43.067787, 140.492795

鰊御殿とまりMAP

鰊御殿とまりニシン漁が全盛期だった明治年代には各地にニシン番屋がありましたが、日本海沿岸でも後志の海岸線には多かったようです。泊村には50を超えるニシン番屋があったという。ニシンで栄えた泊村(明治30年前後が全盛期)を象徴するのはやはりニシン番屋で以下は説明板より転載

「泊村指定有形文化財第1号・第2号 旧川村家番屋及び旧武井邸客殿」「鰊御殿とまりは修復した旧武井邸客殿の敷地に旧川村家番屋(泊村郷土館)を移築し、一体化した漁場建築として整備し、平成27年4月28日より一般公開しているものです。明治27(1894)年に川村慶次郎によって建てられた旧川村家番屋は、泊村に現存する唯一の番屋建築で、ニシン漁の最盛期の雰囲気を色濃く残す建造物として、高く評価されてています。特に柱と梁に使われているタモやセンの太い木材は、現在では入手不可能な貴重なものです。大正5(1916)年頃に武井忠吉によって建てられた旧武井邸客殿は、もとは母屋と番屋につながる漁場建築の一部でした。4部屋続きで54畳にもなる客間を中心とした豪勢な建造物で、高い天井に相応しい欄間の透かし彫り、広い廊下と床板の埋め木、便所の唐傘天井など、意匠を凝らした装飾が随所に見られます。文化財指定日 平成13年4月27日 泊村教育委員会」

泊村有形文化財で当時の繁栄を今に伝える2つの建物「旧川村家番屋」と「旧武井低客殿」は離れとして冠婚葬祭に使用されたともいう旧武井家客殿の敷地に移築、復元されたもので、泊村の資料館として一般公開されています。開館は4月中旬~11月末日、月曜日休館、入館は有料となっている。◊所在地:泊村大字泊村 ◇G.Map:43.067787, 140.492795

田中家漁場跡

田中家漁場跡石倉田中ノ袋澗が北海道遺産、産業考古学会推薦産業遺産に指定された時は見事なハサミ型の堤体だった。この鋏型の澗は澗は積丹最大の親方であった田中家(番屋は小樽鰊御殿)が建設したものだが、崩壊が進行し残っているのは半分以下、北海道独自の産業遺産である袋澗が消え去るのは時間の問題かもしれない。今は袋海岸部の間知石を使用した長い護岸と澗の他に石倉と邸内社の鳥居がかつての栄枯を偲ばせる。マップは袋澗◇所在地:泊村大字泊村95 ◇G.Map:43.076346, 140.484874

弁財澗・弁財トマリMAP

弁財澗・弁財トマリかつて弁財船が湾内に停泊できたので弁財泊と呼ばれるようになったと思われる。松浦武四郎の「再航蝦夷日誌」に「弁才トマリ、舟掛り澗。六百石位のもの、二、三艘かかる也」と記載され、今も杭跡が残っているとのこと。江戸期からある地名で物流の重要地でもありラウネトマリとも呼ばれたが、名前とは違い深そうには見えないが、透明度が高いので浅く見えるのかもしれない。今は無人の地だが祈石大橋から神泊大橋の架かる中間に弁財澗のバス停がある。橋の下は入り江が連続しかつては多くの袋澗が存在していたが厳しい自然環境下での崩壊、国道工事での破壊などで痕跡程度になっている。◇所在地:神恵内村大字神恵内村祈石◇G.Map:43.128001, 140.440980

本陣跡地の碑神恵内村MAP

神恵内村・本陣跡フルウ運上屋の跡地に神恵内開村百年を記念して建立された碑。フルウは江戸時代から漁業で栄えた場所で産物はニシン・アワビ・ホッケ等などとあり江戸時代よりニシン場でもあった。幕末の頃の場所請負人は近江商人田村新十郎で、維新後に運上屋は開拓使に引き継がれるが、駅逓業務も行っていたようで北海道宿駅制の研究の明治前期編で「田村某宅にて駅努を扱う」と有る。松浦武四郎の蝦夷日誌では松前商人、福島屋新右衛門となっており、ここは古くから神恵内の中心地だったようです。後に駅逓を運営していても古い名前の運上屋とか会所というのが普通で、本陣という名称の史跡は後志地方だけで珍しい。碑は国道229号線沿いで神恵内村役場の角地、神恵内厳島神社参道側にあります。神恵内厳島神社は1594(文禄3)年創立という北海道としては歴史のある神社。◇所在地:神恵内村 神恵内村役場横 ◇G.Map:43.143760, 140.430603

澤口ノ澗MAP

澤口ノ袋澗目印は奇岩・キス熊岩で南に隣接する澤口漁場にあった袋澗の一つで南側と正面の堤体はコンクリートで補強されているが、右川の堤体は先端部を除けば本来の石垣の状態がよく保存されている。工費は『積丹半嶋袋澗調査圖』記載中では最も高額で、大きさも並の袋澗ならば2~3個すっぽり納まる程の広大さという。南側にあるもう一つの袋澗は半分はテトラポットで埋まり残る堤体も破壊され、部分的に水面上1~2段の間知石が残存し澗内は石で埋まっています。護岸の石垣は保存状態が良く、崖に張り付くように建っている洋館風の住宅や煉瓦造りの建物、大鍋や煉瓦造りの煙突などがかつての鰊場を偲ばせる。◇所在地:古宇郡神恵内村神恵内村 ◇G.Map:43.147417, 140.419265

にしん街道標柱神恵内村MAP

にしん街道標柱・神恵内村以下はにしん街道の説明板から転載です。
『ここ神恵内村は、1751(宝暦元年)年に古宇場所が開設されて以来、にしんの恩恵を受け栄えた村です。その名残の一つが、日本海沿岸に残っている袋澗です。袋澗とは、大量に採れた「にしん」を一時的に貯めておく施設で、特に神恵内村は53ヶ所の袋澗が存在してました。残念ながら、1920(大正9年)年の101,000石の大漁をさかいに年々減少し、現在は幻の魚となっています。

日本海沿岸の市町村には、袋澗をはじめ、鰊御殿やにしん漁の際に唄われた沖揚音頭、また各種資料館等には写真や漁具など、当時の様々な文化や資料がたくさん残されており、北海道の歴史の1ページ築きあげた時代を窺うことができます。「にしん街道」で結ばれた地域にある先人達が残した歴史や大切にし、後世に引き継ぐと共に、地域の活性化につなげる証として、この標柱を設置するものです。』

鰊で栄えた歴史は袋澗の遺構でも確かめられます。キス熊という奇岩のある現役の船着き場となっている大型の袋澗の澤口の澗や世界遺産クラスとも噂される竜神岬下木下ノ袋澗など多くの袋間がある。◇設置年:平成22年3月吉日 ◇設置者:神恵内村観光協会 ◇所在地:神恵内村大字赤石村字大森 神恵内村の道の駅 ◇G.Map:43.165623, 140.385552

にしん街道を巡る旅・追分ソーランライン-ミニギャラリー

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