旧駅逓所と記念碑を巡る
北海道の旧駅逓所(宿駅)や駅逓碑を巡る旅‼

北海道の駅逓所(宿駅)に関する情報について

 現存する宿駅(旧通行屋・旧駅逓所など)は極少数で江戸期は1カ所、明治以降で18所が現存(改築や一部残存を含)し、国史は三件、国登録文化財が二件、地方自治体指定文化財が7件となっています。当サイトでは現存する宿駅(駅逓)と関連碑を江戸期と明治以降を分け、現存施設(復元&再現施設含む)、江戸期の宿駅関連碑、明治以降の駅逓跡関連碑に分け明治以降の駅逓跡碑は地域別の紹介としました。江戸期から明治期に重複する宿駅で史跡名称が会所、運上屋、通行屋(例外あり)、番屋、止宿所、小休所は江戸期とし、本陣、脇本陣は開設年代が江戸期でも明治以降にしました。また会所、運上屋、本陣は基本的に通行屋(駅逓)を含む扱いとしています。駅逓所の開駅と廃駅の日時、駅逓の取扱人に関しては主に「北海道宿駅(駅逓)制の研究」中巻・下巻を引用、市町村史に有る開廃年とは異なる事も有ります。これは実働年(民営の期間を含めた実働期間)と公式な許可年度(官設駅逓の期間)の違いと思われますが確実性には欠けます。また取扱人が必ずしも駅逓管理人ではない事もあります。この他駅逓取扱人や駅逓管理人の顕彰碑、観光用の復元、類似施設(史跡以外)、駅逓看板や駅逓の使用物品、駅逓起源の宿泊施設も広い意味で駅逓関連碑として扱いました。掲載しているのは平成10~26年迄の情報を元にしていますが、記念碑や標柱、説明板の素材によっては既になくなっている可能性も有ります。

駅逓には時代差と地域性がある

 江戸期の駅逓はロシア帝国の南下対策で江戸幕府が東蝦夷地を直轄地(場所は直営)とし役所(会所)を設置、官馬を育成し通行屋を整備したのが始まり、場所請負制が復活すると駅逓業務も請負とされる。そのような経過からロシア帝国の出没が多かった東蝦夷地が重視されたようで、太平洋岸ではロシア対策で場所請負人は幕府と協力し合って防衛の一翼をになっていた。明治以降の道北や道東では産業、軍用道路として囚人労働で開削した道路沿いに駅逓が開設されていくのが際だっている。駅逓跡の碑などに関しても地域によって扱い方に違いが大きい。

 道北地域は設置駅逓数と史跡指定の数は多く、全ての駅逓跡に碑を設置していた市町村が一番多い。オホーツク地域の設置駅逓の絶対数は群を抜いて多いが設置場所の確定数、駅逓関連碑や史跡指定数もそれなりにあるが中央道路沿いには駅逓碑の他に道路開削で犠牲になった人達の慰霊碑が多いのが際立っている。根釧地域は開設駅逓数に対し駅逓跡の未確定が多く碑も少ない。十勝地方は駅逓関係者により建立された碑の割合が多い。道央地方は設置駅逓数に対して記念碑の設置数は相対的に少ない。道南では設置駅逓数はそれなりに有るのだが駅逓跡の記念碑は少なく駅逓関連碑のみだが復元された旧駅逓がある。鵡川、日高、平取なと日髙地域の内陸部は殆ど情報がない。

北海道の駅逓起源と変遷

 松前藩は和人地の給地に相当する漁場、およびアイヌとの交易地域である商場(場所)を設け、そこでの交易権を知行として家臣に分与した。知行主(家臣)に認められていたのは、自腹で船を仕立て年一回の交易のみで効率の悪さからやがて財政破綻をきたし、18世紀初頭頃に交易権を「場所請負」の名目で商人に代行させて知行主は一定の運上金を得るという制度に移行していく。交易場所の出来事に関して知行主がかかわることは殆ど無かったようです。その商場(場所)に設けられたのが運上屋(交易所)で、松前藩(知行主も含めて)は財政破綻を民間丸投げにする事で財政再建をした事になります。松前藩にも藩独自の「伝馬宿次制」があったようで藩吏や藩士の視察に利用されていたというが、渡島や檜山迄が中心のようで、道北や道東など遠隔地には及んでいなかったようだ。また伝馬宿次による記念碑等や遺構は確認していない。

 1700年代後半にロシアの南下政策を警戒した幕府は、松前藩の北方警護能力を疑い、1799(寛政11)年に東蝦夷地を、1807(文化4)年に西蝦夷地を直轄地とし東蝦夷地各場所は幕府の直営(西蝦夷地は場所請負制継続)とし、運上屋を会所(東蝦夷地)と改め、幕吏を滞在させ従来の運上屋と役所の機能を併せ持つようになる。また通行屋の設置や官馬の配置などによる交通網の整備などもされた。幕府は文化10年に経済的な理由で場所請負制に戻したが、この時に駅逓(通行屋、小休所、渡船、渡海の船舶や人足の配置、郵便、人馬継立)なども場所請負の義務として課した。このことから北海道の駅逓は北方防衛の為に出来たのが始まりで最初は会所内に、後に別棟の通行屋等が整備されていったようです。1821(文政4)年に蝦夷地を松前藩に戻すが、再び緊張が高まった1855(安政2)年に渡島半島の一部を除いて幕府の直轄地とし、諸藩に地域を割り当て警備を担当させたが場所請負制はそのまま継続される。

明治以降の駅逓制度

 幕末の激動期をへて新政府が誕生、明治2年の場所請負制廃止に伴い明治政府に引き継がれた駅逓数は全道で55ヶ所程といい西蝦夷で28駅、東蝦夷で28駅という。旧松前藩領の海岸線に点在していた120ヶ所前後という宿駅数の半数以下で、残りは私設駅逓として継続されるのもあるが、転業や廃業というのもあったようです。明治2年11月に運上屋(会所)は本陣に、番屋・通行屋・止宿処等は脇本陣に改められ「官員人馬使用制限仮規定及び人馬賃銭」明治3年には「全道駅逓人馬供給仮制度」が定められた。【※場所請負制廃止後は漁場持と名称を変え旧東蝦夷地(太平洋岸および千島)や増毛以北の旧西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)で存続、明治4年の廃藩置県で漁場持の再任をおこなうが、石狩以南の旧分領支配地には適用されず、漁場持制は明治9年に廃止となった】

 明治4年に駅逓司(大蔵省)の命で本陣は廃止、明治5年1月に旅籠屋並、4月には旅籠屋となり一般の人も利用(江戸期の宿駅は幕吏や藩吏、運上屋・会所関係者用)できるようになる。5月に駅場、8月には駅逓取扱所となる。明治5年に郵便取扱所が駅逓から分離されるも駅逓運営者が兼務している事が多い。明治初期の駅逓施設は和人地では村役人宅、旧蝦夷地では旧運上屋が設置した通行屋や小休所、番屋などや、旧運上屋が利用される事もあったようです。

 維新直後の駅逓取扱人は和人地では村役人、請負場所(漁場持)では請負人、直轄場所では幕吏や藩吏が主に業務を取り扱ったが、地域によって違いがあり、函館県は明治12年に官設駅逓を廃止。明治15年にはすべての駅逓所が開拓使直轄になり、駅逓取扱人が任命され補助金と官馬が支給された。明治18年には開拓使直轄方式が廃止され駅伝取扱所となるが、札幌県では営業困難な駅逓所に限り補助金を支給、根室県は利用が少なく経営困難な所での新設に起業費貸し付けがされるが、基本的には駅逓所の民営化という方向で、駅逓所が経営難に陥ったためか? 明治18年以降に駅逓廃止が急増しているようです。明治21年に人馬継立所、同28年は「官設駅逓規定」が設けられ取扱人の資格、駅舎の基準などが統一され、明治32年に駅逓所となり宿泊と人馬継立を業務とする駅逓制度(半官半民の請負制)が整い、明治33年に駅逓経営に公費援助が復活し半官半民という北海道独特の駅逓所規程ができあがった。明治32年以降に駅逓開設(再設置も含め)が急増しているのは公費援助復活が背景にあるようです。

 宿駅制度の激動期であった幕末から明治初期と開拓使直轄方式廃止後で民営主体の期間は駅逓経営の実態や廃止年が不明という事も多いようです。駅逓数は官民合わせ最大で600箇所以上(累計で1200ヶ所とも)有ったとも言わるが、時代と共に駅逓所が海岸部から内陸部に移動していく。駅逓設置数のピークは大正年代で、200所以上の駅逓があったというが交通網の発達に伴って次第に減少し昭和23年に駅逓制は廃止された。

中央道路沿線の駅逓所と慰霊碑

 中央道路(北見道路)には明治中期の北海道における道路開削と駅逓の典型的な姿がある。中央道路は網走市から網走湖西岸を経て女満別町~北見市端野地区~北見市街~北見市留辺蘂地区~佐呂間町~遠軽町生田原~遠軽町~遠軽町丸瀬布~遠軽町白滝~北見峠~上川町~旭川市街迄で、その中央道路沿いに12ヶ所の官設駅逓所が建設された。建物は北見側と上川側では多少異なる様だが開設時は無人の施設が多く、人と官馬が配置されるのは少し遅れ、駅逓が本格的に利用されるようになったのは明治28年頃からのようです。
 北海道の道北や道東、十勝の幹線道路は軍用道路としての側面もあり囚人を使い短期間に開通させたもので、特に中央道路の開削では多大な犠牲を出し道路沿線に中央道路開削犠牲者の慰霊碑が点在している。強権的で野蛮な囚人酷使を推し進めた当時の政権や開拓使に人権という概念は希薄だったとも云えるが、産業道路ならばこれほどの犠牲を出してまで開削する必要は無かった訳で、当時の政府が抱いていた危機感を垣間見られ、北海道の駅逓は江戸期も明治でも国防に密接に関わっている側面が見て取れます。駅逓の官費援助は明治18年に廃止されているので、当時の駅逓で官設という場合はこのような特殊な例が多いという印象もある。

駅逓の碑が消える原因と背景

駅逓の碑が消える代表的なパターンは‼

①碑の素材がスチールや木などで、素材の寿命を迎えても更新されない場合、結果として自然消滅という事になる。璃瑠瀾駅逓、立牛駅逓などがこの例にあたる。ここで問題なのはそろそろ寿命を迎えつつある木製の碑が多いこと。

②土地の売買などで地主が変わること。この場合は更地にされることが多く、普通は余程の文化財でない限り破棄され更地となる事が殆どでしょう。聚参別駅逓、中湧別駅逓などはこのタイプに該当するがもっとありそう。

③農地開発で大型機械の邪魔になり撤去、道路整備などの土木工事の時に廃棄されるなど。問寒別駅逓、居辺駅逓、上士幌駅逓などがこのタイプのようです。

④特殊な背景として過疎の進行や地域文化の伝承が不十分で、地域の歴史を守り語り継ぐ人々が地域から居なくなってしまう事などがありそう。これから当時の事を知っている人は減っていく一方なので、引き継ぐなら最後のチャンスという事になるでしょう。

駅逓制度の変遷(明治以降)

  •      ※簡略年表
  • 明治2年 開拓使設置
  •      場所請負制廃止 駅逓は開拓使引き継
  •      本陣・脇本陣 (旧会所・運上屋・通行屋等)
  •      官員人馬使用仮規定及び人馬賃銭の公示
  • 明治3年 全道駅逓人馬供給仮制度創設
  • 明治4年 廃藩置県 分領支配廃止(取扱人の変更多い)
  • 明治4年 本陣廃止
  • 明治5年 旅籠屋並(名称変更・一般利用解放)
  •      旅籠屋(名称変更)
  •      駅場(名称変更)
  •      駅逓取扱所(名称変更)
  •      駅逓から郵便取扱所分離
  • 明治9年 漁場持制廃止(取扱人の変更多い)
  • 明治12年 函館県・官設駅逓廃止
  • 明治15年 開拓使直轄 駅逓所に補助金・官馬の支給
  • 明治18年 駅伝取扱所(名称変更)
  •      駅逓の開拓使直轄方式廃止・民営化
  •      札幌県・困難な駅逓所に補助金支給
  •      根室県・駅逓新設に起業費貸し付け
  •      ※明治18年以降駅逓廃止が増える
  • 明治21年 人馬継立所(名称変更)
  • 明治28年 官設駅逓規定
  • 明治32年 駅逓所(名称変更)
  • 明治33年 駅逓経営公費援助復活
  • 昭和23年 駅逓制度廃止

未確認・未訪問の駅逓碑などについて

 元々管理人用に探索リストとして整理したもので、ネット検索や郷土史を調べたり、聞いた話も含め掲載しているので確実性に欠けるため参考程度に見てください。記念碑の素材(木標柱、コンクリート標柱、鉄板、自然石、加工石など)によっては、既に残っていない可能性もあります。今迄の碑巡りの経験から市町村の開基○○年記念というタイプの駅逓碑や郷土史研究会などが建立した碑がある場合は複数の碑が存在する可能性があります。駅逓関連の一覧リストは最後にまとめましたが、現地確認済の情報は◎ 未確認の情報は△印としてあります。

旧駅逓所跡の追加と削除、一部修正してます。
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