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斜里町宇登呂(ルシャ)から知床半島先端部を越えて羅臼までの海岸線に残されたアイヌ伝説をメインに和人の昔話も含めた。この地域は早くから商業資本が入り込み、アイヌ社会の生活基盤を破壊してしまった為、地名に関する伝承を除けば、残されている伝説は少ない。また知床は義経、弁慶に関する伝説が多いが、アイヌ文化神サマイクルが義経や弁慶へと和人による意図的な摺変えが有った印象が強い。義経に対して好意的な伝説だけでは無い事は、アイヌ民族のささやかな抵抗だったのかもしれない。
知床半島の突端に白い立岩があり、アイヌ達はここを通る時にはいつも丁寧に礼拝しイナウを捧げた。知床(しれとこ)の地名語源はアイヌ語の“sir-etu⇔シレトゥ⇒地の鼻=岬”“sir-etok⇔シレトク⇒大地の先”“sir-etoko⇔シレトコ⇒大地・その先”で意味は殆ど同じだがシレトコは強調した形か。他にシレトココタン(岬にあったコタン)がある。簡単に言うとシレトコは半島突端部の立岩が有るヌサウシ、もう少し広い範囲で半島の突端部、後はシレトココタンと言う狭い範囲の事で、後に知床の地名が広域化して全体を知床と云うようになつた。世界自然遺産で注目度は高いが、シレトコは感傷などには全く無縁の地名。
昔この島(オロッコ岩)にオロッコ族が住んでいて、この下をアイヌが船で通ると、高い島の上から石や木などを投げおろして悪戯をするので、これを追いはらおうと何度も攻めたが、周囲が絶壁に近い島の上にいるオロッコは、地の利を利用して石や岩を転がして容易に寄せ付けなく、いつもアイヌの方が敗退させられていた。そこでアイヌ方で一策を案じ、ある夜のこと、海岸によっている海草を集めて積み重ねて鯨の形に作り上げ、近くのペケレ川から魚を捕ってきて、そのところどころに挟んでおいた。朝になっていち早くそれを見つけた鴉たちが集まって来て、大騒ぎしながら啄んでいるのを見た島のオロッコは、より鯨があるといって歓声を上げて島を駆け下りたところ、島影に隠れていたアイヌ達のために包囲されて、遂に全滅してしまった。それで今この島をオロッコ岩とよんでいる。斜里町峰浜・坂井惣太郎エカシ伝
昔時、オロンコはウトロのオロンコ岩に、アイヌはペケレ湾を挟んでウトロチャシにいて、互いに争った。斜里町峰浜・坂井惣太郎エカシ伝
※オロンコの争いは先住民族(オホーツク文化)という説の他トンチカムイ説、釧路から来たアイヌという説もある。オロンコ岩の色々な伝承を残した坂井惣太郎エカシは知床岬にあった文吉湾で知られる坂井文吉氏の一族で知床コタンの末裔かもしれない。
此処昔判官(サマイクル)様縄をば引きて干したるが故に号とかや 松浦武四郎・戊午日誌初掲
※昔、アイヌの文化神サマイクルが船の綱をここに張って干したという伝説からつけられた地名“tus-tur-pa-us⇔トゥシトルパウシ⇒綱を伸ばす所”の意味。岩層が綱の様に見える。以前はツナウシモイと呼ばれていたようです。
此処ウハショモエと対して一湾をなして少しの湾あり。此前の大岩に1つの岩洞有也。その名義昔竜神達が此処ヘ鯨を多く追い寄せ来しと云ふ儀のよし。本名イエヘシコケウエウシと云ふ儀のよし 松浦武四郎・戊午日誌初掲 ※前の大岩とは現在は「蛸岩」と呼ばれている岩の事です。地名の正確な意味は管理人の手に余るが・・・
此処をカモイコタンと云うよし。その洞には心霊有りて1ツは寒風を噴き、1ツは暖風を生ず 知床日誌初掲 カムイコタンの岩に洞穴2つ並びてあり、岩窟の差渡し一方の穴は内甚だ暖かなり。一方の穴は内甚だ寒く、暑中も雪あり。かく並びたる穴にて極冷極暖に分かりたる不審の岩故、夷共此処をカムイコタンと名付け、イナヲを多く立ておくなり 串原正峯・夷諺俗話 ※知里博士は「熊がいつも出る所」とされたが、洞窟の一つは断崖に、片方はカヌーでなければ中に入れない。博士は洞窟を見ずに解かれたものか?地形からはクマのいる所と云う解釈は無理で「心霊」とせざるをえない。その洞穴とはカシュニの滝下に有る2つの洞窟を言う。
大昔ヲキナという大魚を神様が釣りあげられたところという伝説がある 知床日誌初掲 本名はカラベイヨクシ(カルマイクシ)と云うよし也。此辺赤岩崖なり。其訳昔鮫多く此処へ一度によりしより号るとかや 戊午日誌 ※ヨコ・ウシ・イは「槍を構えてまっている・いつも・する所」で本来は鮫をついた場所であるが、伝説の「オキナ」は鯨の化け物様な想像上の大魚というが・・・
イマニッウシ・イマニツ(串)が多いの意味で、石の柱が数多く重なり合って(柱状節理)見えるが、これにも「シャマイクルが魚に串を刺し焼いて、残りをここに捨てたのが石になった」という伝説がある 松浦武四郎・知床日誌初掲 イマイペウシ・そのいわれは、昔弁慶がこの岩の上で焼き魚を作ったのでこの名があるという。一節には沖ヘ漁に出ても帰るとまずこの所で魚を焼いて食べたのでとも云う 松浦武四郎・戊午日誌 ※二つの名を持つ同じ場所で、一つは岩の形から一つは故事から名付けられた。サマイクルから弁慶に変わっているのが気になる。柱石とは柱状節理の事、積み重なるのは板状節理となり当時は俵石とも呼んだ。
この山の頂上で義経が軍勢を集めるためにのろしをたいたという伝説もある。ヲフイとは焼くと言う意味である 松浦武四郎・知床日誌初掲 本名はヲフイ岳だという。昔判官様が軍勢を集める為、烽火を上げたとき焼けたと云い伝えられている 戊午日誌 ※焼くとか狼煙となれば、裸山で煙の出ているのは知床連山では硫黄山しかないでしよう。
昔、弁慶が蝮退治をしたとき、その妹がこの穴から覗いていたという 戊午日誌初掲 ※現在のメガネ岩で“piyara-oma-i⇔ピラヤオマイ”と言うが、別名をキャルマイとも言うらしい。
怪石、マムシ蛇の頭の如く海に突出。ここにも一つの昔話あり。シャマイクルの妹なる者、此処に棲みけるに其れを呑まんと大蛇が来りしを、弁慶踏潰したるが化して岩になりしと。その時傍らに五柱の神が立て居舞ふと見えしがその則其まま岩になりしとて、今アシキネシュマ(五岩)とて有るなり 知床日誌初掲 此処蝮蛇の頭の如くになりて海中に突き出す。扨岩に一つの奇談あり。此岩昔弁慶の妹といへるもの山より下りし時、此処に棲む大蝮蛇、其れを呑まんと追て来たりしを、弁慶此処にて踏潰したりと云えり。則其蝮がそのまま此処にて岩になりしと 松浦武四郎・戊午日誌 カムイ・エ・パケは「魔(トロッコカムイ)・の・頭」カムイ・パ「神・頭」と言う事。カムイエパケはオオカミであると言う説もある。今は獅子岩と呼ばれている。
五本の大立岩がある。これはシャリを守護している神々が弁慶の加勢に現れ、そのまま岩になって蝮を見張っているのだそうである。戊午日誌 カムイエパケの有る湾(カムイパ・モイ)にに有るアシキネシュマ「五つ・岩」と言う五つの立岩に残された伝説
アシキネシュマの一つにパッカイシュマ「背負う岩」と言う岩がある。パッカイシュマの伝説とは別に『弁慶が逃れるとき、子を背負って追いかけたメノコが岩になった』と言う伝説が有る。知床半島の地名と伝説
◇知床半島の先端に白い立岩があり、これをサマイクルカムイといって、ここに行く者は必ず木幣を作ってあげ礼拝する。サマイクルカムイが北海道の島を作り上げ、人間に生活の方法を教えたあと、自分の姿をあそこに残して天上に帰ったと云うのである。新十津川町 空知保エカシ伝
◇「サマイクル神」知床の木原の中に立っている一丈二~三尺くらいの立岩を云う。ここに昔のヌサウシがあった。知里真志保・斜里郡内のアイヌ語地名解 ※知床岬灯台の所にある岩を云うらしいが、空知保エカシの伝承から云うと現在の夫婦岩附近となるが、戊午日誌にあるカムイシュマ(シャマイクルカムイである可能性を否定しきれない)というのも気になる。
半島先端部付近に有るワシの姿をした岩に有る伝説『昔、シレトココタンのムラオサ(首長)はオジロワシの雛を捕らえ大事に育てていた。成長するにしたがい、ワシはムラオサ(首長)と狩りに出かけては、獲物を捕ってくるようになった。しかし、ある冬の日、狩りに出かけたムラオサ(首長)は猛吹雪に会い、餓えと寒さのためとうとう帰らぬ人となってしまった。主を失ったワシは途方にくれ、いつまでもムラオサの死んだ場所に留まるうちに岩となった。 知床半島の地名と伝説 ※鷲岩の近くと思われる所カムイシャマがあったらしく 戊午日誌に「中央にカモイシュマ(シャマイクルカムイの名もあるらしい)と云いて大なる立岩あり神霊著しき由にて何鳥も富まらずも奇なり」とある。それと関係ある伝承か? 坪谷京子さんの「老人とオジロワシ」は脚色されているのでは・・面白いが伝説としては?
昔此処にて源延尉鯨の岸に流れよりしを拾いて、蓬の串に刺焼て居玉ひし処、其蓬焼て折れたる時驚きて尻餅を搗たまひとかや。よって号 戊午日誌 昔源義経公が、波に打ち上げられた鯨の肉を切ってヨモギの串で焼いていると、その串が折れて、火の中に倒れたのにびっくりして尻餅をつかれたところ 知床日誌初掲・現代語訳 ※「尻餅をついた跡が窪みとなった」という部分は無いが、伝説の原型に最も近い内容と思われます。北海道庁編の「北海道の口碑伝説」にも集録、源義の原型をオキクルミとしているが、ここではサマイクルと思うが?地名は“オソルコッ⇒尻餅をついた跡の窪み”を云う。
『Rikop oma nay‘星川 往古川口ニ星落チテ石トナリ暗夜ニ明光ヲチタリト云フ、「リコフ」は星ノ儀ナリ』蝦夷語地名解 ※リコフが星という語は他の辞典では見あたらず、ただ更科源蔵も星の事と述べている。また此の短い一節が文筆家の手によって変節する例を一つあげておく。『根室の目梨郡にリコップオマナイという川がある。星のあるかわという意味で、この川口にある岩は天から落ちた星だと云うのである。昔我が儘な星の子供が居て、星の世界の規則を守らずに悪戯ばかりする手あまし者であったので、ついに天上の神の怒りに触れて下界に追放される事になり、落ちたのがリコプオマナイの川口であった。淋しい下界に落ちた星の子供はさすがに後悔して天上に恋し、ここに落ちてからもしばらく光を放って天に帰る事を願っていたという事である』中田千畝・アイヌ神謡となるのだから呆れるほか無い。※こういう伝説が本物の伝説の中に紛れていたとしてどれだけの人が気づくだろうか・・その点で直接古老から聞いた話や、江戸期に記録された伝説は信頼性が高い。川の現在名は居麻布(おるまっぷ)川。
知床の岬の方に悪者が入らぬようにとルシャの先の昆布浜に、神様は番兵として熊岩と鷲岩を置いた。熊岩は実によく分かる道ばたにいる。また鷲岩は1kmほど行ったところに羽をいからしている姿は、沖から見るとなるほどと理解できる。知床の岬の鷲は鳥の姿そのままであるが、ここのは近くでは鷲に見えない茶色である。知床物語と伝説 ※熊岩が昆布浜の道端にあるとした時点でアイヌ伝説というには無理がある。昆布浜はアイヌ時代はトカラ・モイで道も今とは異なり、脚色されたか創作伝説であろう。
武蔵坊弁慶は、この地に来て国後と知床があまりにも近いので、この海峡に橋を架ける大計画をたてた。この破天荒な計画に陶酔したアイヌたちも、彼の美男で雄々しさに 敬服したものだった。弁慶も良く働くアイヌに報酬を忘れなかったし 長には彼らのもっとも喜ぶ刀剣の類を授けて仕事の完成を計ることをわすれなかった。そのうち長の娘が、彼に恋いをいだくようになり、大計画のため努めて身を正していた弁慶も、ついに娘の恋心に負けてしまった。やがて二人の異民族の交わりは、アイヌの最高神カムイの知れることとなり、激怒したカムイは、橋造りのため集められた膨大な木材を岩と変えてしまった。いまでも材木岩となって残っている。知床羅臼サイトの海峡伝説 ※日本海岸や網走と釧路似た話はあるが、釧路のカムイルイカは和人の創作と思われる内容。網走の伝説は魔神が橋ではなく海中に梁をかけて魚の回遊を妨げ、これに怒ったサマイクルカムイが其の梁を壊して積み上げたのが材木岩となる。サマイクルカムイはアイヌ最高位の神で、海岸部の伝説では義経や弁慶の名で登場する事が多い。つまりこの話はアイヌ文化神サマイクルカムイと義経や弁慶の関係を良く知らなかった和人の創作、もしくは和人の好みに合わせ脚色を加えた伝説、アイヌの信仰を意図的操作を図るため摺変えられた名残なのかもとも受け取れる。
昔、唐の青年僧が知床半島に漂着しました。その時青年僧を助けたアイヌの娘はいつからか、この僧に思いをかけるようになりましたが、僧も娘の一途な思いを知るにつけ、自分は仏に仕える身なのでと、自分の心を抑えてきました。しかし娘は日夜に僧を慕い、遂に自らを抑える自信をなくしかけた僧は、よるに紛れて知床半島から逃げ出しました。これを知ったアイヌ娘は嘆き悲しみ、やがて海に身を投じてしまいました。にわかに空が曇り大時化となりましたが、その大時化が静まった後に観音様に似た岩が立っていました。北見バス・道東観光資料 ※松浦日誌類には無く内容も日本風で観光船や観光バス用の創作民話と言うのが普通の推論。
『その昔、知床半島に居住していた酋長の一人娘が、夜夢に見た一人の逞しい青年に恋慕い、連日連夜悩み続けた。そして娘はこの半島を南に進むにつれて広漠たる原野があり、その原野の端に夢に見た逞しい青年が自分を待ちわびているものと信じていた。一人の身も知らぬ青年を恋い焦がれた娘は、ついにこの思いを隠しきれずに母に打ち明けた。母は突然の娘の言葉に驚いたが、可愛い一人娘の一心な希望を聞き入れ、ある日父には知らせず母子二人で密かに南に向かって歩を進めた。まもなく通りかかったのがこの奇岩崖壁である。母はこの岩は念仏を唱えながら越せばなんとか越せると聞いていたので、娘に念仏の仕方を教え岩を登らせた。数十分もかかってようやく娘は岩の頂上に達し、振り返って別れの瞳を母に向けた。見下ろす娘の瞳にも、見上げる母の瞳にも朝の白露のごとき涙が光っていた。やがて娘は岩を下り始めた。母は念仏を唱えつつ、その場に立ち尽くし、見えなくなった娘の幻をいつまでも見送った。以来この岩を念仏岩と称し現在に伝えられている』佐藤盛雄・羅臼村郷土史 ※もう一話、坪谷京子の念仏岩がありストリーは殆ど同じですが最後の『見送っていた母がそのまま岩となってしまった。その岩を念仏岩という』となっている所だけ異なる。知床物語と伝説に再掲されている和人伝説。
『昔、知床半島の岬に接続する三里の海岸に唐の名僧が漂着し、酋長の穴居に宿を借りて帯留する事こ500日の長きに及んだ。口碑を按ずるに知床の岸壁にある等身大の観世音像の尊像は、この唐僧の彫刻になったものだという。この唐僧については次の如き奇しき伝説がある「唐土の名僧が仏法を日本に伝えんと渡航したが暴風のため漂流して、やっと知床半島に上陸し、一命を酋長に助けられた。唐僧は持戒護法に美しい若法師であった。仏縁拙く日出づるヤマトの国にも渡れず、また日の没する唐土の故郷にも帰れず、虚しく哀愁の北海地に送った。幸か不幸か酋長の宅には、花恥しき一人の娘があった。見目秀麗の唐僧にいつとはなく心をひかれ、ついに切々の情を訴えた。然るに金剛不壊の唐僧は、乙女の愛情を熊笹の私語の如くに受け流し、日夜酋長から借り受けた石斧で、コツコツと脇目もふらず岸壁に観世音菩薩の尊象を彫刻していた。そして刻み終えるやお礼の印に、沢山のお金の入った胴巻きをおいて唯一丸木船に載って、何処ともなく漕ぎ去った。後に残された娘の驚きと悲しみは言語に絶した。そして思慕の情やみがたく、やがて唐僧の跡を追うて、怒濤逆巻く海原に身を投げて沈んだ。蝮蛇岩は、この可憐な娘の体が、蛇身に化したものであり、また岸壁の観世音像は乙女の身代わり観音であるというのである』羅臼町役場 再掲渡辺茂・北海道伝説集和人編 ※羅臼町役場調べによる別説を『何時しか僧と娘は思慕の念を抱き合う仲になったが、彼は出家僧である。沸き上がる煩悩を押さえるべく、僧は観世音菩薩の像を刻み続けた。その菩薩像は、長年の風雪にあらわれて今の観世音岩となったという』とある。観音岩の岬側には何体もの観音像が祭られていて、この地で暮らしてきた人々にとっては信仰の象徴。伝説の原型は不明だが和人の昔話と考えるのが妥当でしょう。
ここで引用した知床日誌は主に丸山道子現代語訳を使用している。原本は奈良女子大学附属図書館の知床日誌データーベースによる。書き換えについては土人という言葉はアイヌに、村長や酋長は首長とした。
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