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この鶴は元来野生ではなく、現在の遠矢駅付近に砦を作っていた、釧路アイヌの先祖キラウコロエカシ(角を持った長老)が雌雄二羽の鶴を飼っていた。このエカシの孫、カネキラウコロエカシ(金の角を持った長老)の時代に、クルンセという勢力の強い族が千島から下ってきて、国後、根室を陥入れ釧路に迫ってきたので、厚岸、北見、十勝のコタンからも援軍が参加激戦となった。このとき見方に裏切り者が出て、主力が砦を離れて防戦している間に手薄の砦を攻められたため、たちまち砦は落ちてしまった。その時あたりの草原に遊んでいた鶴が夕方砦に帰ってくると、砦を占領していたクルンセ軍の矢に射落とされたり、手掴みにされて無惨に殺されてしまった。砦が落ちた事を知った釧路軍は、主力を返してたちまちクルンセ軍を追い払い、この砦を取り返したが、この戦争が三年も続いていたために、鶴は砦を忘れて近寄らなくなり、野生に戻ってしまったという事である。山本多助・阿寒の伝説より
※クルンセ軍について研究者は「釧路アイヌとオホーツク文化をもたらした民族との衝突をいったものらしい」との事で、時代は擦文文化期を想定されている様だ。
釧路川の両岸の湿原がまだ大きな入り江であったときに、釧路村のトリトイウㇱに居た長老と、塘路のチルワッナィに居た長老とはお互いに仲が良く、海にオヒョウを取りに行くときはお互いに船縁を叩いて知らせ会い、一緒に海で魚を取った。もし船を叩いても聞こえない風向きのときは、海に行っても時化るときだから、その日は行かない事にしていたという。標茶町 土佐藤蔵エカシ伝
丹頂鶴の事をアイヌはサロルンカムィと言って、昔、手負い熊が湿地に逃げ込んで斃れるとき、鶴の長い首を下敷きにして死んでしまった。下になった鶴が苦しさの余り悲鳴を上げているのを人々が聞きつけ、集まってきて熊を発見したので、熊の居所を知らせたと言って神様に奉りあげたと言うのである。屈斜路 弟子カムイマエカシ伝
蝦夷語地名解では“ベッ・ポ・ブト 大川口”とだけ書いてある。“ベッポブトゥ=pet-po-putu=子の川入り口”で釧路川と別保川の合流部を意味する。ベッポだけだと子の川となるが実際はかなり大きな川、釧路川と比較すると小さいと言う事でしょうか。武四郎の記録では「子の川の儀である”としている。別保は広域の地名で地名の元はベッポから、読みは難しくは無いが珍しい地名。
蝦夷語地名解では“トーヤ沼丘”と。遠矢は床丹の北で旧釧路川の東岸にあり釧路湿原に丘陵が突き出た地形。to=ト・トーは沼、ya=ヤは沼から見て沼の岸(陸)を言う。今はそれらしき沼は無いが松浦武四郎が此所を通過した時には此所に小沼があった様で“トーヤ 小沼有り”とその地形を具体的に記している。有名な観光地の洞爺湖と同じ語源。
鳥通は岩保木の北側で遠矢から達古武に行く途中に有る集落の地名で、蝦夷語地名解では“トリ・ドイエ・ウシ榱ヲ斫ル處”と。船の棹に向いた木が多かったのか・ただ松浦武四郎の記録によれば“さぎり(ニシンなど魚や野菜などを干すための長い竿)を切り出し土人等家を立てしと云儀のよし也”と記録に残している。水郷ならではの地名とも云いきれない。
蝦夷語地名解では“トゥ・コタン 廃村”と有るが、この辺は釧路湿原を控えた土地柄からト・コタン沼の村だったのかも。更科アイヌ語地名解では沼辺の集落としている。武四郎が訪れた時は会所の炭焼き場が有ったと云う。廃村の理由が解っているのを別にすると、husiko=フシコ(元の)やrayラィ(死)と同じ様な意味でtu-kotan=トゥコタン廃村なのかto-kotan=トコタン沼辺の村なのかの区別は沼の近くではその判断が難しい。tu-ktanトゥコタンで二つ村という事もあるのでなおさらだ。
蝦夷語地名解では“イワ・ポキ 山下”とある。床丹の北で旧釧路川の東岸の地名、山名で有る。イワは信仰の山、霊山でポキはその麓のこと。ただ松浦久須利誌では“峰の下を水が通るが故に号るとかや”と当地の説明を残している。岩保木山は標高120m前後の小山だが湿原に突き出ていて釧路湿原の隠れた展望台。麓には夕日の名所岩保木水門が有る。
蝦夷語地名解では“タッコブ 小丘”だが、コブ山と言う方が判りやすいかも。岩保木の北の地名で沼名。沼の北側が湿原に突き出ていて先端が瘤状になっている所に付けられた名前。達古武沼は釧路湿原三湖の中で一番南に有る沼。地名はその町の大切な歴史・文化遺産です。
ベースは更科源蔵編・アイヌ伝説集だが釧路に関してはアイヌ伝承と砦にかなり詳しい内容が掲載されている。
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