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1804年~1805年にロシアの南下や異教の侵入阻止、アイヌ人の教化など蝦夷地政策の目的で徳川幕府により建立された蝦夷三官寺のひとつで臨済宗禅寺派の寺院。国泰寺の山門は国の史跡に指定されており、徳川家の家紋が彫られている。建物は殆どが後代の改修を経ていると有るが、江戸時代の佇まいを残し、山門の扉に刻まれた葵の紋は道内では殆ど目にする事は無い。また当時の住職は開基から八世であると記している。敷地内には山門や東面する本堂のほか、天保6年の観音石仏、天保13年建立の仏舎利塔、歴代住職の墓所があるほか、東方の丘の上には竜王殿、馬頭観音堂、最上徳内建立の神明社跡などがある。※2010年再訪時には山門が崩壊寸前だったが修復されている。サクラの名所としても知られ、樹齢170年以上という老桜樹が有る他、近藤重蔵が色丹島から持ち帰った色古丹松(ダフリカカラマツ) の老木がある。◇所在地:厚岸町湾月町1丁目
道東で初の国の重要文化財に指定された正行寺本堂は、1799年に新潟県糸魚川で建築された浄土真宗本願寺派満長寺を買い取り、それを解体し船で運び、明治43年に現在地に原形のまま移転再築。内陣は要所に彫刻を施し、極彩色を施すなど豪華で欄間には牡丹の透かし彫が施されているという。移転や改修を経ながら、建立当初の部材が多く格調の高い建築物。◇所在地:厚岸町梅香町TEL:0153-52-2413
国泰寺に隣接して有る厚岸神社は寛政3年に最上徳内が幕府に上書して道東の中心地である厚岸に神明社を創立。これはアイヌ教化と北辺鎮護の為であって、更に寛政10年には近藤重蔵が社殿を改修している。厚岸は最上徳内や近藤重蔵らが中心で松浦武四郎や間宮林蔵の影は薄い。
江戸幕府将軍の使者近藤重蔵が残した「碑文の大意」が、厚岸神社境内の石碑に刻まれている。厚岸神社は国泰寺の左側階段を登った所にあり、その創建も書かれている。原文は漢文で???なのだが隣に現代文訳の説明板が有り、分けて転載した。写真は原文と現代文訳『わが国の東方の急所を守る要地、北方の要所の大切な港としては厚岸が第一の重要な港である。これにつぐ港として柄鞆(室蘭)があるが、中間にえりも岬がある。厚岸湾の入口に島があり大黒港といふ。前に入江と岬があり、バラサンといっている由なので、私は東山(ハルサン)と名づけた。南は釧路に連なり、西は風廉(フウレン)に及ぶ。北は斜里に達し、東は琵琶瀬に至る地形で、まことにこれは後世まで、東方第一の重要な港である』※大意2に続く。
大意1の続き『私、守重(重蔵)は将軍の命を奉じ、東や北のえぞ地を巡察した。4月に江戸を発し、5月松前着。食糧や服装を用意し、室蘭、えりもを越え、6月厚岸に寄った。ここで船を準備し従卒を揃へ、7月海を渡りエトロフに到着。この航海は大変荒れたが神様の御加護を頼み帆走したので安全であった。少人数の旅で野宿もしたが、官命を受けた私どもは無事であった。帰り来て厚岸に泊まり、およそ一か月留まった。そこで一棟の神社を創建し、北海の地と住民の人心を新たした。かやぶきで、土の階段の質素なおやしろ、その神前でどぶろくの樽から、杯を頂戴した。いささか、住民の耳目の向うよりどころとし有難い江戸の御成光がここに及ぶことを歓び感ずる次第である。大日本寛政十年戉午(1798)十月十日 庚子 江戸幕府将軍の使者である。近藤重蔵(藤原守重)』以上が現代文訳された全文です。
バラサン岬へは国泰寺の境内から神明宮(後の厚岸神社)跡脇を通りバラサン岬に登る荒れた踏み分け道の際に小さな33体の観音石仏(現在は数体が消滅)が有り、登り詰めると眺望は良い。この道は松浦武四郎の知りあいで厚岸詰役が私費を投じアイヌの手助けを受けて千余の階段を作ったと「納沙布日誌」にある。説明板にあった歌『はるかなる 此島かげにいかして 鷲の山風 ふきかよいけん』は武四郎がこの階段を登り山頂で詠んだ詞で安政5年には既に登山道はできていた。神明宮跡には石碑と説明板が設置されている。
松前藩により寛永年間にアッケシ場所が開設されたと思われるが、寛政11年に幕府直轄領となり会所が置かれる。後に厚岸を仙台藩(伊達)領として蝦夷地防衛に当たらせた。松浦武四郎の廻浦日記には『上に神明社合殿、下に国泰寺が有ると、また仙台家詰合と前に台座1カ所』と。松浦武四郎が宿泊した会所跡に標柱があり位置の説明はそこからの様です。◇所在地:厚岸水産高等学校敷地内・厚岸町郷土館隣
厚岸町にある国泰寺のそばに立つアイヌ民族弔魂碑。国泰寺はアイヌ民族地であった北海道の侵略に大きな役割を果たした象徴的な施設で江戸時代後期、徳川家斉によって建立される。その目的はロシア勢力の南下阻止、アイヌ人の仏教徒化と帰化というアイヌ民族の和風化で、それを撫育、教化と言い、アイヌ民族の文化を抹殺する政策で有り、明治政府にも引き継がれた。◇所在地:国泰寺前横
安政4年4月松浦武四郎により八幡大神(本来は農業神と言うが平安末期以降は源氏の氏神とする武神・軍神としての性格が強くなる)を、真龍に1祠を建て奉安したのがその始まりと伝わる。その後祠跡の修復や社殿の建立などを経て昭和16年現在地に移転。松浦武四郎が公式に厚岸に訪れたのは安政4年の前後で、安政4年に厚岸を訪れた記録(管理人の資料では)は見あたらず。武四郎日誌の現代語訳をされた丸山道子氏の納沙布日誌前書きによると安政4年に根室方面に謎の行動をしているらしいと。その時の出来事なのかもしれない・・・◇所在地:厚岸町字宮園町146番地
太田紋助エカシの名が明治最後の氏族屯田兵村の『太田村』となったのは太田紋助エカシが厚岸にも屯田兵が入植することを予期し、太田地区を調査し兵村設置にふさわしい場所として当局に報告した。明治23年に屯田兵村が出来るが、最大の功労者として太田紋助の名前をとって兵村は『太田村』としたとある。和人社会に対する貢献によって与えられた名誉では有るが、同族の社会的、経済的地位向上の為に積極的な働いたとも伝えられている。太田エカシの墓碑が記念碑となっています。
太田村は明治23年に設置され、厚岸近海の警備を目的に氏族440戸を屯田兵として移住させて出来た村。根室屯田第四大隊第三・第四の二中隊に編成され第三中隊は南側一番道路から四番道路まで、第四中隊はその北側五番道路から八番道路までに置かれた。ここはその中隊本部跡で史跡柱があります。
厚岸町天然記念物である太田屯田の赤松は、屯田兵が太田地区に入植した明治23年に第3中隊長の岩淵繁隆が、郷里の青森県から種子を取り寄せ、苗木にして各戸に植えさせたもの。現在太田地区では、報国寺境内を始め、一番から五番道路沿いに樹齢百年を超える赤松が学校や個人の土地に点在しています。赤松は北海道南部が自生の北限とされ寒さの厳しい道東地方では非常に珍しく、太田の歴史を知る上でも貴重なものとなっています。◇所在地:厚岸町太田1の通り~5の通り
牧草地の境界約150mにわたって植えられている高さ8m、幹周約60cmのヤマグワ(落葉広葉樹)の並木は厚岸町天然記念物。明治23年の屯田兵入植から3年後に、第4中隊軍曹の桃井新氏が初めて養蚕を試み、その結果が良好だったので年々養蚕が盛んとなる。一時は盛んだった養繭も気候の変化などで収繭が減少し桑株は放棄されたり伐採され今日まで残っているのはこの並木だけで太田屯田の生き証人となっている。◇所在地:厚岸町太田5の通り・道々標茶厚岸線沿い
現地説明板より『井上耕介先生は釧路税務署に属官として勤務当時、税法の改正があり これが実施急務の令、伝達の命を受け、明治四十一年三月六日、釧路より厚岸へ向かう途中、この地、厚岸町片無去駅逓100m余の前方に於いて、大吹雪のため遭難、その命の迫るや、樹木の枝に脚絆を目印として取付け、重要書類鞄を着衣の外套で包み、その上に自ら伏臥遂に難に殉ぜられました。税務官吏としての自らの職責を、死をもって果たされました崇高なる責任感に、当時の札幌税務監督局長吉田平吾氏は自ら撰筆、慰霊の悼文を刻記、全道税務官吏を始め同関係者、更に地元太田兵村の挙村の協力等により、大正二年遭難の地に殉難慰霊碑が建立、爾来、祭祀今日に至っております。井上耕介先生奉讃会』井上耕介氏が亡くなられて百年を越えたが現地斎場は綺麗に整備され桜などが植樹され新しい碑もある。
この地域の道路は囚人によって開削、明治22年頃に士族屯田として開かれた所なので駅逓所もできるのは早かったが、残されているのは屯田兵に関するものが殆ど。なぜかこういう所には駅逓の碑は無いという印象が強いのだが、厚岸町では駅逓跡も史跡として保存されている。碑は太田郵便局と太田神社の間の反対側横通りの道端にある。比較的近くに屯田兵屋が現存し北海道の有形文化財となっている。◇GPS:N43°05’13.2” E144°47’58.1”
道道1128号尾幌厚岸線を途中より北片無去を経由して井上耕介殉難慰霊碑を過ぎてすぐ右側に碑がある。元々ここはシキナウシでありカタムサリと感違いしたのか、カタムサリ駅逓設置の予定だったのかは分からないが、周りには人家などは無く碑以外に当時の痕跡は皆無。道は阿歴内を経て塘路湖につながり、阿歴内と太田、雷別の三駅逓の交差部で厚岸、塘路を結ぶ交通の要衝でもあった。木製の碑は平成12年の設置だが、山間部のためか見た目以上に痛みが激しい。
◇所在地:厚岸町片無去 ◇GPS◇E144°41’36.8” N43°07’10.2”
道道123号「別海・厚岸線」通称「北太平洋シーサイドライン」で浜中との境界近くの厚岸側で、森が途切れて草原となり海が見えてくると間もなく道路脇に「史跡ルリラン駅逓跡」と書かれた標柱と小さい広場(旧道跡?)と柵があった。駅逓開設時は「リウラン」なのだが璃瑠瀾の字をあてたのでルリランと呼ばれたのか?明治年代には集落も有ったというが湾や林道の名前もリルランなので史跡本来の名前は多分リルランと思うのだが、再訪時には碑が無くなっていたが破損して撤去されたという。記事欄に昔の写真を「現在の風景」はギャラリーに載せてみた。
◇開駅:明治17年04月 ◇廃駅:明治35年11月
◇初代取扱人:大竹種次郎 ◇二代:大竹カツ
◇所在地:厚岸町リルラン ◇GPS:N42°59’28.9” E144°59’03.8”
史跡や記念碑などでも、アプローチが厳しい所にはアウトドアにて紹介
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