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ぐるっと胆振プチ旅2‼
噴火湾エリア 登別市~白老町を巡る旅‼

銀のしずく記念館

銀のしずく記念館知里幸恵の姪にあたる横山むつみさんが平成22(2010)年9月にアイヌ民族として初めてカムイユカラ(神謡)を文字化した「アイヌ神謡集」の著者、知里幸恵さんの業績を広く伝えるため、国内外からの寄付を元に知里幸恵さんの生家近くに「知里幸恵 銀のしずく記念館」をオープン。知里幸恵の遺品、実際に書いた手紙、日記帳、アイヌ語のノートとアイヌ神謡集を展示などの他、知里幸恵の弟で言語学者の知里真志保、ユカラの伝承者・金成マツなどの展示もある。初代館長は創設者の「横山むつみ」さんでしたが平成28年に逝去され、二代目館長に金崎重彌氏が就任しています。◇開 館:9時30分~16時30分(入館は16時迄) ◇休館日:火曜日(祝・祭日除く) 年末年始 ◇入館料:大人500円、団体(10名以上)450円 ◇所在地:道登別市登別本町2丁目34 ◇Gmap:マップコード

知里眞志保之碑MAP

知里眞志保之碑知里博士は山田秀三氏とコンビで各地のアイヌ語地名を読み解いてきた事でも知られ、地名ファンの為に書かれたアイヌ語入門と地名アイヌ語小辞典は隠れたベストセラーかもしれない。碑には「銀のしずく 降れ降れ まわりに」と刻まれている。 碑文1『知里眞志保略歴 明治42年幌別郡に生る。登別小学校、室蘭中学校、第一高等学校、東大卒業、文学博士、北大教授、東大講師となる。分類アイヌ語辞典そのた数々の不朽の名著が後の世に残った。昭和36年札幌にて没 52歳』 碑文2『彼は登別川のほとりで育ったアイヌ系の腕白な少年であった。長じて天才的な言語学者となり、その名は今に世の畏敬の的である。故郷をしのび海の見える丘に住みたいと云っていたという。有志相はかり、ここハシナウシを選びこの碑を建てた。友人 山田秀三』※碑は碑文にあるように太平洋と生まれ育った登別川をのぞむ丘に建立したというが、平成8年9月に登別小学校移設されています。◇建立年:昭和48年6月9日 ◇移転年:平成8年9月 ◇建立者:知里眞志保之碑建立委員会 ◇所在地:登別市登別本町3丁目25番地3 ◇Gmap:マップコード

知里真志保をはぐくんだ地

知里真志保をはぐくんだ地登別教育委員会設置の説明板より引用「知里幸恵は、明治36(1903)年、父・高吉、母・ナミの長女としてこの地に生まれ、7歳のとき、旭川の伯母金成マツのもとに移り住みました。15歳のとき、言語学者・金田一京助と出会い、のちに上京して、アイヌ民族に伝わるカムイ・ユカラ(神謡)をまとめた『アイヌ神謡集』を著しましたが、持病の心臓病のため、19歳の若さでその短い生涯をを閉じました。また、幸恵の弟・真志保は、明治42(1909)年、知里家の二男として生まれ、登別小学校、室蘭中学校(現・室蘭栄高校)を経て東京帝国大学(現・東京大学)を卒業。アイヌ民族の言語や神話、伝説などを研究し、アイヌ文化研究の基礎を確立した言語学者として、その業績は高く評価されています。◇設置者:登別市教育委員会 ◇所在地:登別市登別本町2丁目34番地2 ◇Gmap:マップコード

愛隣学校跡登別市MAP

愛隣学校跡個人住宅の垣根の裏側に説明板があり消えかかっているが何とか読めたので転載する。「明治19(1886)年箱館から幌別に来住した英国人ジョン・バチェラーが明治21(1888)年4月25日此所に私立相愛学校を開設。日曜学校も併設しキリスト教伝導の拠所とした場所があった所で、校主は初め金成太郎であるが校名を愛隣学校に変更した時から何故か校主も代えられている。明治36(1893)年バチエラー夫妻が札幌に転居後、後継の宣教師などにより運営されていたが、昭和9年の暴風で建物も大破し以後解体された。」日本の近代化は明治維新に始まるが、開拓使が進めた同化政策はアイヌ民族従来の生活手段を奪い、言語や文化的伝統を破壊するものでした。幕末から明治初期には松浦武四郎や松本十郎のように、アイヌ文化に理解を示しアイヌ民族の人権を守ろうと努力した人もいたが、その後のアイヌ民族の人権や文化を守る仕事は外国人の宣教師や医師によって始められた。ジョン・バチェラーは札幌へ転居する明治26年までの間、幌別を中心としてキリスト教の伝道に従事し、ルイザ夫人と召使いパラピタ夫妻及びその養女キン生活がしていた邸宅が青葉町にあり、ジョン・バチラーそこ拠点にして遠くは日高方面へ馬に乗り布教に行っていたといわれている。建物はなくかつては設置されていた説明板も今はない。◇設置年:不明 ◇設置者:登別市 ◇所在地:登別市幌別町5丁目2番地 ◇Gmap:マップコード

カムイワッカ登別市MAP

カムイワッカの湧水安政5年に登別に立ち寄った松浦武四郎が、前年に石場齋宮高門が私財を投じ現登別温泉への道を開いた事を知り再訪、その途中にあった此の地を訪れ『東蝦夷日誌』に「カモイワッカとて冷水噴出、其底白砂を噴出すぐに一筋の流れと成る。名義、神・水の義也」と記している。説明板では「北海道の名付け親である松浦武四郎は1858(安政5)年、8月当地を訪れた際、冷たい水が白い砂とともに吹き上がる「カムイワッカ」に立ち寄った記録しています。」とあった。硫黄採掘と湯治ため道が開かれその途中にあったカムイワッカは旅人にも馬にも絶好の休憩地であり、明治末期、店ができ、カモイワッカの中茶屋で知られ交通の中継地であった。1915(大正4)年軌道馬車の中継所、1924(大正14)年電車が運行されると「神威若」駅が設置された所で中登別発展の中心となった。説明板に「地元の人々にカモイワッカの名で親しまれてきました」とあるが、地元の人たちは登別温泉とカムイワッカを世に知らしめた松浦武四郎に敬意を表して「カモイワッカ」の名で呼んできたのだという。カムイワッカは乾季でも枯れず、厳冬でも凍らないような湧水を云う事が多いが、知床のカムイワッカのような「魔の水」もある。史跡のカモイワッカは中登別にあるコンビニエンスストアの横にあります。◇所在地:登別市中登別町170番地 ◇Gmap:マップコード

金成マツ碑・知里幸恵墓

金成マツ碑・知里幸恵墓説明板より一部引用「金成マツ(かんなり まつ)は明治8(1875)年11月10日、幌別郡幌別村(現・登別市千歳町)生まれ。アイヌ名はイメカヌ。知里幸恵、言語学者知里真志保の叔母になります。16歳のとき、ジョン・バチラーにより設立された函館の愛隣学校に入学し洗礼をうける。その後、平取や旭川の近文でキリスト教の傳道に当たった。ユーカラの伝承者でもあり、52歳の時亡くなった幸恵の意思を継ぎ、母モナシウクから伝承したユカラの筆録を故郷の登別ではじめました。その一部は『アイヌ叙事詩ユーカラ集」として刊行されています。昭和36(1961)年4月6日、85歳で亡くなりました。

知里幸恵さんは明治36(1903)年6月8日、当時の登別村(現・登別市)で生まれ、7歳のとき祖母モナシノウクと旭川に移、教会の伝道師をしていた伯母の金成マツのとともに暮らしました。モナシノウクは金田一京助から「最大の叙時詩人」と絶賛されたユーカラの伝承者でした。15歳のとき言語学者の金田一京助氏と出会い、ユカラを和訳して記述するという画期的な仕事を手がけることになり19歳の時上京。金田一宅で翻訳作業を続け『アイヌ神謡集」を終えたその日の夜、心臓病により19歳で急逝、その翌年8月に『アイヌ神謡集』が出版されています。当初は東京雑司ヶ谷にある金田一家の墓所に埋葬されていたが、昭和50(1975)年に登別市富浦墓地の知里家墓所の金成マツの十字架の墓碑隣に改葬されています。墓地の一角に登別市が設置した史跡案内板が設置されています。◇設置者:登別市教育委員会 ◇所在地:登別市富浦町 ◇Gmap:マップコード

魚霊碑・海難殉職者慰霊碑

魚霊碑・海難殉職者慰霊碑登別市の古い広報によると、魚族の霊を慰めるために富浦町の漁民たちが中心となって寄付を募り富浦漁港の船巻き揚げ場に建立されたというが、平成29年に通った時は昭和61年8月に建立され漁霊碑と並んで建っていた海難殉職者慰霊碑が冨浦神社境内の方に移転していた。海難殉職者慰霊碑も移転しているが、漁霊碑の方は碑そのものが更新され「魚霊碑/登別市長 小笠原春一書」と新しくなっている。昭和50年代の海難事故で記録に残るような大型海難事故機はないが、過去の海難殉職者すべてを慰霊するために建立した?◇建立年:昭和41年8月3日 ◇建立年:昭和61年8月(海難殉職者慰霊碑) ◇再建年:平成20年以降 ◇建立者:登別漁業協同組合 ◇所在地:登別市富浦町2丁目 富浦神社境内 ◇Gmap:マップコード

白老のアフンパロと登別のアフンルパル

アフンパロ白老町設置の観光用の説明板より『昔、奥さんに先立たれた1人の老人が、ある日の朝浜で昆布拾いをしていたところ、遠くの方で自分の奥さんも昆布を拾っていた。そこで声をかけようとしたところ、そのおばあさんは浜辺にある大きな穴の中に入って行きました。おじいさんも追いかけようとしましたが穴はすぐ行き止まりとなり、入ることは出来ないのに、亡くなった人は出入りできるのを見て、この穴があの世への入口だとわかったそうです。白老町』アフンパロの伝説は各地に伝えられているがこれもそのひとつです。またこの洞窟のある崖上の大地はカムイミンダラと呼ばれた所という。アフンパロは海岸や河岸に出来た自然の洞窟が一般的なようですが、登別の蘭法華岬台地上で江戸期の旧道「七曲がりの坂」を登り詰めた北側にあったというアフンルパルは、人工的に掘り込まれた特殊なタイプだつたが国道工事で寸断されてしまった。遺構への踏み分け路がある程度だが、アフンルパルは道路工事で地形が変わり殆どわからない。◇所在地:白老町虎杖浜 ◇Gmap:マップコード

イザべラ・バードが歩いた道と白老駅逓跡白老町MAP

イザべラ・バードと白老駅逓駅逓跡を訪ねる旅でたどり着いたイザべラ・バードの説明碑。イザべラ・バードがこの地を通過した明治11年の記録に「百頭以上の馬の群れが走る音で目覚た」「非常にきれいな新しい宿屋で部屋も快適」と記し、イザべラ・バードが歩いた道説明版に『明治11(1978)年8月、バードは最終目的地の平取に向かう際、往復3日にわたり、白老駅逓に宿泊しました。白老で野生馬を追いかけるアイヌの姿を見かけ、白老川流域では温泉を確認、大噴火後の樽前球を遠望し、アイヌの住宅を訪ねるなど、バードが感じた白老の魅力とは?彼女をして何がこのように書かせたのか?』とあり続いてイザべラ・バードについて紹介している。開拓使が引き継いだ時の駅逓取扱人は大沢周次郎で、白老駅逓は札幌本道の開通した後の明治10年頃(北海道宿駅制の研究では明治7年)に本道脇に新規移転していたようです。駅逓は今の三好商店とカネイ佐藤商店のあいだの空き地(板塀のある所)にあったという。◇設置年:平成21年 ◇設置者:イザべラ・バードの路を辿る会 白老部会 ◇所在地:白老町本町1丁目7-5 しらおい創造空間・蔵 ◇Gmap:マップコード

誉れの水松白老町

誉れの水松駅逓跡を訪ねる旅で「誉れの水松」との出会いがあった。明治14年の明治天皇北海道巡幸の際、駅逓取扱人の大沢周次郎(周二郎?)宅を臨時行在所(宿泊所)にあてたという。大沢宅の庭でアイヌの人々がイオマンテを披露。そのとき庭にあったイチイの古木の見事さをたたえられたことから「誉れの水松」と呼ばれる。後に大沢宅は火災で焼失、その跡明治天皇巡幸の記念碑が建立されたというが詳細不明、白老八幡神社に移設されたとも云うが見当たらず。代わりに出会ったのが「誉の水松」で大沢から白老八幡神社境内に移植され昭和47年に記念保護樹木に指定された推定樹齢250(800?)年で白老駅逓縁の松でもあった。◇所在地:白老町本町1丁目1-11 ◇Gmap:マップコード

白老仙台藩陣屋跡白老町

白老仙台藩陣屋跡ロシアの南下政策に対処する為、東北諸藩に命じ蝦夷地を分割警備させた。仙台藩は白老から襟裳岬を経て国後、択捉島までの東蝦夷地の警備担当で、当初は勇払に元陣屋を置くよう命じられたが、白老が適地であるとし白老に元陣屋を置いた。元陣屋は1856年秋に完成、そのほか東蝦夷各地に出張陣屋を置き警備に当たる。元陣屋は円形や弧状の堀と土塁に囲まれ、外曲輪と内曲輪に分けられている。その中に6つの門を構え、本陣、勘定所などを築き、常時100名以上の藩士が駐屯。1859年には藩領地となったため代官も置かれた。仙台藩は戊辰戦争が勃発した1868年(明治元年)まで白老で警備にあたりました。維新後は一関藩が1871年の廃藩置県まで白老統治を行い、その後開拓使に引き渡されました。仙台藩白老元陣屋跡が復元整備され、今は「白老仙台藩陣屋跡」として国指定史跡になってる。◇所在地:白老町陣屋町681 ◇Gmap:マップコード

アイヌ民族博物館白老町

旧アイヌ民族博物館・ポロトコタンアイヌ民族博物館のHPより「アイヌ民族に関する専門の博物館として1984年、ポロトコタン内に開館しました。かつて北海道や樺太、千島列島、東北地方北部に住んでいたアイヌ民族の文化的所産が網羅されています。チセ(家)をかたどった建物の中には、衣食住や生活様式などがわかりやすく展示され、アイヌ文化の調査研究、世界各地の先住民族との交流の拠点ともなっています。」松浦武四郎の碑が建立されたのを機会に訪問してきましたが、2017年より閉館し「国立アイヌ民族博物館」として2020年4月開設の予定でリニューアル・工事が進められています。詳しい事は博物館のサイトで。◇所在地:白老町若草町2-3-4

ブロニスワク・ピウスツキ像

ピウスツキ像アイヌ民族の言葉をロウ管に録音するなど、先住民族研究家として知られるブロニスワク・ピウスツキの白老訪問120周年を記念しポーランド政府から寄贈されたブロニスワク・ピウスツキ像が白老のアイヌ民族博物館内に建立されていた。碑文はポーランド語、日本語、アイヌ語、英語と国際的だがここでは日本語の碑文から「ブロニスワク・ピウスツキ/1866-1968/ポーランド人流刑者、卓越せる民族学者/アイヌと極東民族研究の開拓者/1903年8月/当地白老に滞在、研究にいそしんだ」とある。日本語以外の碑文も同じ意味だろう。◇建立年:平成25年10月 ◇寄贈者:ポーランド政府 ◇Gmap:マップコード

水難者慰霊碑・漁霊供養碑

水難者慰霊碑・漁霊供養碑いぶり中央漁協の白老地区水難者慰霊碑は45柱が祭られている。昭和5(1930)年8月12日、山田三蔵(49歳)が子息ほか11名で電気着火式機関を取り付けた川崎船でイカ釣りに沖へ出航。急な時化に遭い転覆、全員不明。昭和15(1940)年4月12日、須貝作次郎所有の第13松島丸は船長ほか6人を乗せてメヌケ延縄漁に出漁。就寝中一酸化炭素中毒により須貝留治(18歳)ら18歳から55歳の乗組員6人が死亡。昭和30(1955)年7月21日、中部サケマス流網漁のため弥栄丸に乗船、千島オンネコタン島沖で操業中浸水沈没。渡辺富蔵(33歳)ら19歳から33歳までの乗組員10人全員が不明というが、これ以降については記録に残るような大型海難事故は起きていないものとおもわれる。並んで昭和8年10月10日建立の漁霊供養碑が建っている。◇建立年:昭和22年8月20日 ◇建立者:白老漁業会 ◇所在地:白老郡白老町字石山 汐音広場 ◇Gmap:マップコード

野口屋又蔵功績碑

野口屋又蔵功績碑野口屋は天保12(1841)年に白老場所請負人となり明治維新まで代々白老場所の経営にあたった。この頃の白老場所は鮭の産地とされていたほか、イワシやタラなども豊漁で、特にイワシは寛政12(1800)年から油粕の原料として盛んに生産された。又蔵はこれらを箱館(函館)に送り売り捌くとともに、それまで前例のない昆布養殖事業を手掛けた。当時非常に高価であった昆布が僅かながらもアヨロの浜で取れる事に注目し、弘化2(1845)年から~4年にかけて箱館近郊の海から昆布の付着した岩を運び海中に投石したのが昆布養殖の端緒。今日「虎杖浜昆布」として特産物となっているのも又蔵の功績によるところが大きい。明場所請負制廃止後の同7(1874)年に野口屋又蔵一族が函館より虎杖浜に移住し、戸長などを歴任するなど村政を支えたことから、何代にもわたるこれらの功績を讃え大正4(1915)年7月、白老・幌別両郡の有志と両水産組合が虎杖浜神社に功績碑を建立した。少し離れた東側に「海難殉職者慰霊碑」と「魚霊供養碑」がある。裏道を通れば神社境内まで車で上がれそう。この神社は渥美清の「男はつらいよ」シリーズ第23作(1979年)「翔んでる寅次郎」のロケ地だったらしい。◇建立年:大正4年建立 ◇移設年:昭和59年 ◇建立者:白老・幌別両郡水産組合 ◇所在地:白老郡白老町虎杖浜 虎杖浜神社境内 ◇Gmap:マップコード

高橋房次先生之像と顕彰碑

高橋房次先生之像と顕彰碑アイヌ民族出身の言語学者であった知里真志保博士は同族や和を問わずアイヌ研究者に対し歯に衣を着せず辛辣な批判をした人でしたが、その知里真志保氏が「和人は船を食う」という本の中で高橋房次氏を「白老のシュバイツァー」と絶賛している。その高橋房次氏胸像が高橋病院跡に移設され顕彰碑(説明碑)が設置されている。碑文を転載する。「高橋房次先生は明治15年栃木県下都賀郡間々田町に生れ明治36年東京慈恵医学専門学校を卒業、大正11年庁立白老土人病院院長として赴任しアイヌ人医療は勿論一般村民の衛生思想の普及啓蒙に専念し、尓来全町民に対し貧富の別なく医療費等を度外視し精魂の限りをつくした。先生の医療態度は万人敬慕の的である。これ故に昭和30年9月白老町名誉町民第1号に推された。ここに50年年間真に医療報国に徹した先生の功績と恩義に酬ゆるべく北海道文化賞を受賞された。本日文化の日を期し町民挙ってこの胸像を建立し先生の偉業を永久に記念するものである。昭和34年11月3日 高橋房次先生功績顕彰会会長 山手猪三郎他 会員一同」※昭和13年、白老病院廃止後より引継いで高橋医院として地域医療活動を続けられた。高橋房次氏が亡くなって葬式の時、彼を慕う全町民が参列し400mの長蛇の列ができるほどだったという。像と顕彰碑は中央公民館よりかつて高橋病院のあった場所に平成7年に移設され、新たに高橋病院跡の石板が設置されている。◇建立年:昭和34年11月3日 ◇建立者:高橋房次先生功績顕彰会 ◇所在地:白老郡白老町高砂町2丁目2 ◇Gmap:マップコード

白老アイヌ碑

白老アイヌ碑旧高橋病院跡地に平成17年に建立された約18屯という巨大な蛇紋岩で出来たアイヌ碑、一つだけ気になるのは風化しやすい蛇紋岩であること。碑の左横に碑文を刻んだ「副碑」がある。以下は碑文より「その昔、私たちアイヌの先祖は、悠久の歴史をこの北海道シラオイ(白老)の大地に刻んできた。そして、自然への畏敬と恵みに感謝し、アイヌの生命を自然にゆだね、独自の精神文化や世界観などを育んできた。しかし、明治期以降の開拓の進展や同化対策などに伴い生活環境は大きく変化し、生活の不安と苦渋は筆舌に尽くし難いものがあったが、私たちの先祖は、風俗習慣を異にしながら和人に多くの支援と利便を供与し、アイヌ民族としての復権を図るべくと共に力を尽くした。この地はアイヌの子弟が教育を受けた白老第二小学校があった地であり、また、コタンのシュバイツァーとして地域住民に献身的な医療活動をささげられた故高橋房次先生の病院跡地であり、アイヌ民族にとってゆかりの地でもある。ここに先祖の意志に報い、今日の白老の繁栄と基盤を作り上げた先人アイヌの幾多の労苦と偉業を讃え、関係者の意志によってこの碑を建立する。2005年8月10日 白老アイヌ碑建立実行委員会」※碑の裏に碑の建立や広場整備に貢献した団体や個人の名前が大勢刻まれている。◇建立年:平成17年8月10日 ◇建立者:白老アイヌ碑建立実行委員会 ◇所在地:白老郡白老町高砂町2丁目2 ◇Gmap:マップコード

噴火湾&大平洋湾岸ミニギャラリー

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